フランス時代

昨日の夜フランスでの最初の頃のことを聞かれたので、答えたことを書こうと思う。

住んでるのは?
家もオフィスもパリ4区、セーヌ河に浮かぶサンルイ島のRue St. Luis en L’ille 通り。焼けたノートルダム大聖堂のあるシテ島の隣に浮かぶ島。あちらのシテ島は観光客が多い。2019年に焼けた後のノートルダムの復興コンペではファイナリスト2位に唯一日本人で入れたこともあり、シテ島・サンルイ島は思い入れが強い。

なんでこんな官僚や芸能人などの富裕層の住む島に住んでんの?

と。
観光客も少なく閑静な住宅街だし、20代の頃最後にパリを出る前にただ住んでみたくて借りて引っ越して、当時独立のきっかけになったパリのチーズ屋のリノベのプロジェが施工業者がなかなか終わらせてくれなくてのびのびになって帰国出来ず、ドミニクペロー事務所をやめて帰国して独立しようとしていたのに、ドミニクペロー事務所を辞めても竣工せず、そのままパリで独立したことがきっかけだった。

スタッフたちもペロー事務所に勤務時代からパリのサンルイ島の自宅に出社していて、僕が出勤する前に集まってmtgをし、帰宅してmtgして皆が帰り、プライベートの時間になる。
中庭からアクセスする最上階のメゾネットの上階を僕の部屋、下階をスタッフの部屋、上階への階段に登る前の部屋を秘書の部屋とした。
自宅をそのまま事務所にしたので、自宅がなくなり、3軒となりの最上階に家を借りた。
パリ・サンルイ島のアパルトマンは螺旋階段の内側のスペースが小さすぎてエレベーターがないところも多く最上階から最上階への上下運動は毎日いい運動。
シテ島と違いサンルイ島にはメトロも通ってないから、メトロに乗るたびにセーヌ河の橋を渡らないといけない。毎日素晴らしい景色を眺めながら通勤し、打ち合わせに出かける。冬は橋の上は風が凍るように冷たいけど。

パリ・オペラ座・ピラミッド界隈の日本人街に位置する日本企業のチーズ屋さんだっただけにその後のその辺界隈の飲食店からのリノベのご依頼も多く、サンルイ島からオペラ事務所まで作った。
朝早くから作業していると5時くらいから日本人のじーさんが、コータローくーんって下の道路から叫んできて呼び出す。朝から狩り出されて焼きたてのパンとコーヒーを嗜んでオフィスに戻る。そんな生活だった。

パリの最初は、そうそう。元嫁が一緒だったな。
小中高が一緒で高校の頃から付き合い出した彼女は、大学・大学院時代は共に東京で過ごし同棲していた。
大学院時代は確か小田急線の梅ヶ丘のCASA MADOREというRCのデザイナーズマンションにロングコートチワワとミニチュアダックスフンドと4人住んでいた。当時はまだ免許を持っていて、2台目の車に乗ってたな。卒業生は大学に車で来れるって言うから卒業して院生だし卒業生だろってことで大学は車で通ってたな。はじめてオランダ・デルフトで働いた時、まだ大学院の頃で、親とグアムしか行ったことがない僕は1人でオランダなんて行けなく、オーストラリアで留学たことある彼女についてきてもらった。それええオランダ・ドイツで2週間を過ごすことができた。
その後、実際に働きにオランダ・ロッテルダム、イギリス・ロンドンで住み、修士が終わる頃戻ってきて修論出して、卒業後はスイス・チューリッヒへ渡った。東京ではもう使わないだろうと言うものをひたすらヤフオクで売って得た30万円を握りしめて。
その頃は彼女と喧嘩して別れていたので1人で行ったらひょこひょこ研究室の後輩がついてきた。

大学院を修了してスイスの後向かったのがオーストリア・ウィーン。スイスにいた頃、彼女とは残してきた東京のマンションの後処理・引越し作業など託してきたのでそのやり取りのために喧嘩しながら別れた彼女と仕方なくやり取り。それがいつの間にか復縁してオーストリア・ウィーンの西駅で再会した。彼女は建築するならフランスがいいよ、とパリを進め、幼少期からヴァイオリンをしていた彼女にはオーストリア・ウィーンがいいんじゃないかと勧め、結果ウィーンに行くことに同意してくれた形だった。

さて苦労して探したシェアハウスに住み、夜な夜な事務所に送るためのポートフォリオを作り続ける。日本・オランダ・イギリス・スイスでの経験をその1冊に詰め込む。製本は外注したものの、1冊1冊丁寧に梱包し発送した。その作業を彼女も夜な夜な手伝ってくれた。泣けるねぇ。

そして1週間後には就職先が決まりウィーンでの仕事が始まった。同時に就労ビザ取得のため事務所の人と警察に行って取得してきた。

さて就職先も決まったし、結婚するか!
一人娘を海外で連れ回すわけにもいかないし!
思い出せば高校生のクリスマスの時、婚姻届を持って親のところに行ったら、彼女の親は逆に反対しなかったのにうちの親が反対というか、結婚は独立を意味するから、結婚してもいいけどするなら大学の学費は自分で払えよと言う。払えるわけ無いから、じゃあ結婚は卒業してからにするかってことになり、そしたら大学院進んじゃうからまた結婚が延期になって。
ということで、大学院卒業したしウィーンで就職したし、一回帰国して両家両親に結婚の報告でもするかということで帰って顔合わせ。小学校から一緒で高校までは話したことは無いけど、弟と同じ学年の彼女は顔と名前だけは知っていて、お義母さんとは高校時代から親戚の家などにも連れてってもらったりでよく知っていて、お義父さんは近所だけあって彼女といる時に公共交通機関で一緒になったりで顔だけは知っていた。

報告も終わりさて結婚式でもあげるかと、せっかくだからオーストリア形式での結婚にしようと区役所で式を上げるアポを取り、ちゃんとした式は教会でジミにやろうと駆けずり回るがクリスチャンではない僕らを受け付けてはもらえず、なんとか見つけた1箇所も1年間ミサに通ったらクリスチャンになることを認めて結婚式を挙げてもいいと。いや、1年は長いでしょ、どっか違うところでいいよと探したところ日本の業者が観光客ターゲットにホーフブルグ王宮で挙式を挙げれるようにしていて、区役所での式の後じゃ無いと挙式は本来できないんだけど、役所のアポまでもうとってるならいいですよ、って言ってくれてようやく見つかった。当時坊主だった僕は、挙式の前に白い馬車に乗って王宮の庭園を走ってもらった。
写真とか無いかなーw
笑えるよw
式の直前に長男を妊娠した元嫁は日本帰国時にオーダーしたウェディングドレスが着れなくなるとお腹を気にしていたが、そんな数週間で変わるわけがないw
結婚式を終えて僕らはシェアハウスを出て2人の新居に引っ越した。

そして1年を過ぎる頃、次の新天地へ向けて行動を始める。1年に1回は事務所を変えて国を変えると当時思っていた僕は、ウィーンで働きながらウィーンでの経験も詰め込んだ新しいフォリオの作成に取り掛かった。
また夜な夜な。でも部数限定。10部しか作成しなかった。事務所が使ってる製本業者を紹介してもらってこれまでにないほど薄っぺらいフォリオを綺麗に製本していただき、世界中の10社に送りつけた。

まず、フランス、ドイツ、イギリス、スペイン、ポルトガル。

反応があったところから妊娠中の元嫁を連れて世界中を面接する旅に出かけた。最初はウィーンの事務所に勤務しながら行って帰ってを繰り返そうかとも考えたが、事務所にも迷惑がかかるし、辞めて移動を開始した。大きな荷物は全部捨てて、コンパクトな荷物に絞って。でも日本から持ってきたプリンターは欠かさず持ち歩いてたな、しかもA3版。

最初に行ったのは元シェアメイトが住んでいるドイツだった。フランクフルト・その界隈を1-2週間かけて周り、さまざまなイベントにも参加させてもらった。次にイギリス・ロンドンに渡り、面接を2社行った。
スペイン・マドリッドに渡る頃、元嫁のお腹の子の限界が。。。この週を過ぎるとドクター同伴じゃないと飛行機に乗れないと言う。やむ無くロンドンで別れ、彼女を日本行きの飛行機に乗せ、僕はスペイン行きに乗った。マドリッドで面接を受け、バルセロナやポルトガル、ユーラシア大陸の最西端など周り、マドリッドに戻った。その頃、フランスの事務所の契約が進んだ。フランスのドミニクペロー事務所からビザは何ビザがいいかを聞かれ、就労ビザでしょと答えると難しいから最初ワーホリ取ってきて。と言われて面接の旅に出かける前に出しておいたのだ。そしたら大使館から回答があって、ワーホリが降りた。報酬面や保険など確認して、他に面接を受けた事務所よりはよかったので、元嫁に相談したところ、そんなチャンスはないんだから行こうよ、息子も連れて、と。ということですここで面接旅行は終わり、元々取っていたフライトはそのまま使い、再びロンドンに戻り、そしてそこからアメリカ・ニューヨークに渡った。ふらふらと世界中を旅して息子が生まれる1ヶ月前に日本に戻った。
元嫁の里帰りしている名古屋の実家での生活が始まり、新聞社のお義父さんの不定期な働き方と日本で何もしていない僕がいつ帰ってきても僕だけがいる状態で気まずいなと思い、2ヶ月いるなら日本の組織設計事務所で契約社員でもしようかなと思って電話したら明日履歴書持ってきてくださいと言うので向かうとその場で採用が決定した。これで気まずくない。と思い通い始めた。すると仲良くしていた立命館大学の先生が帰ってきてるなら手伝えと、研究室のアシスタントに京都じゃないあれは滋賀だ。南草津のキャンパスに初めて行くことになった。しばらく京都の先生の自宅と南草津のキャンパスを往復しながらたまに元嫁の実家に行くという生活が始まった。名古屋に戻ると日建設計にも顔出して仕事をさせてもらった。
すると今度は立命館大学の研究室からアメリカのコンペをやると。最初は先生も現地調査にシャーロットビルに院生を連れて行くと言っていたが、行けなくなって僕1人が引率すると言うことになった。1週間。
流石に元嫁も、何のために海外から帰ってきたの?!もう生まれるよ!とお怒りが。そりゃそうだ。でも仕事だし行かなきゃ。というか行きたいし。と言うことでサラッと言ってきた。現地の友人たちにお世話になりながら。

で戻ってきた。2日後くらいには息子が産まれた。ギリギリセーフ。立ち会い出産をした。感動しすぎて廊下で待っていた母に、思わずありがとうと言った。

さて息子も無事産まれ、1ヶ月生活を共にし、いざパリに。
元嫁と息子が来る前までに家を決めなきゃ。と1ヶ月先に1人で渡仏した。知り合いは誰もいない。最初にドミクペロー事務所に行き契約を交わした。契約書にサインしている最中、ドミニクがやってきて、君が今日からスタートするコータローね。よろしくねって挨拶に来てくれた。
ボスが直々に来るってってすごく嬉しかった。でも海外ではこれは結構当たり前。ノエルのフェットはドミニク自身が全てのスタッフとシャンパンを注ぎながら回って全員と話す。ホスト精神が素晴らしい。
建築家は対等。ドミニクに対しても下の名前で呼び捨て。ムッシュー(さん)とかつけることは無い。vous(あなた)、tu(君、お前)もそう。tuを全員使う。

事務所での働き方などはまた次の機会として。

家探し。最初は郊外の家も検討したけど、治安が悪いのでやはり閑静な住宅街パリ16区にすることとした。子供が小さいのでハイハイもするだろうと中庭がついていて芝生が張っていて、自由にハイハイもできそうな家を見つけた。安月給な僕にお義母さんが最初の1年間500€を出してくれ、僕たち3人は素敵な家に住むことができた。ありがたかった。
家も決まりいざ息子もパリへ。生後2ヶ月の長男を抱えて元嫁と初めて行くパリでの生活を心配してお義母さんも一緒に渡仏した。最初の1ヶ月お義母さんも一緒にいてくれてパリでの元嫁の生活を支えてくれていた。
そんな中ある日元嫁と僕が夜息子が寝てるところお喧嘩を始めたことを覚えている。
僕はフランスで仕事を始めて、フランス語も話せない。でも話せるようにならなきゃいつ首切られるかわからない。だから語学学校に通うと言い始めた。当時もらっている給料で払ったら生活が苦しい。こりゃ戦いだ。でも首になって家族を路頭に彷徨わせるわけには行かない。それで言い合っていた。結果お義母さんがそんなに言うならコータロー君通ったらいいじゃ無い!と。生活費を削って通えることとなった。だけど結局始めたばかりの仕事はなかなか語学学校の始まる時間までに帰れず、2ヶ月で3回くらいしか通えず辞めた。
そして2ヶ月経ったその頃、就労ビザに切り替えるか?という話を事務所からいただき、提出書類を揃えるのに時間はかかったが、揃えて提出したら2ヶ月で降りた。そして事務所との契約もCDDからCDIに変わった。

(CDDは“Contrat de travail à Durée Déterminée” の略。「期限付き雇用契約」。読みは「C(セー)D(デー)D(デー)」。
CDIは “Contrat de travail à Durée Indéterminée”の略。「無期限雇用契約」の意味。読みは「C(セー)D(デー)I(イー)」)

フランス語は結局自力で覚えた。語学学校では体の部位のフランス語とか全然仕事で使わない言葉ばかりを習う。仕事では僕らには共通言語の図面がある。図面を持って話し合っているからどこの何の話をしているかはなんとなくわかるし、わからなかった言葉は全部カタカナでメモって会議が終わった後に同僚に聞く。そんなやり方でフランス語を覚えたまるで赤ちゃんが初めての言葉をママから覚えて行くかのように。
オランダに初めて行った時は英語も話せず、オーストリアで働いた頃はドイツ語も話せなかった。だけどどちらも働いてたら覚えた。3ヶ月あれば言ってることは理解できるようになり、半年あれば話し出すようになっていた。そうやって覚えていった。

元嫁と長男はフランスと日本を行ったり来たり。年間5回は往復していて羨ましい生活をしている中、だんだんフランスに戻ってこなくなったので、パリ16区の自宅は家族向きに広くて快適だけどペロー事務所のあるパリ11区は逆Uの字に走るセーヌ川の西の橋と東の端。日本で1時間の通勤は当たり前だが、パリではなかなかない。11区にも家を構えた。狭すぎて荷物も入らなかったので11区にもう一個家を借りた。家の整理がつくと使っていない16区の家と11区の荷物置き用の家は当時mixiが流行っていた時代に一時帰国で貸してる日本人がよくいたのでそこに出して貸し始めた。
そして最後にサンルイ島移動してから11区の家も空いたので3件を貸し始めた。
これはその後スタッフ寮を借りて貸してと言うことにもつながっていて、名古屋事務所や東京は羽田事務所とかがそれにあたる。名古屋は事務所とは別に数軒借りて共有のシェアハウスなどもあったり1Kなどの1人用の家なども何個も用意した。
羽田事務所は当時目黒に家があってそこから蒲田までチャリだったけど、一軒家を丸ごと借りて下階を男性寮、中間層をワーキングスペース、最上階を女性寮として宗教的に分けてしか住めない人たちにも対応させた。

スタッフは空港からタクシーで事務所に来てタクシー代払ってくれって言う人もいるし、家も貸してるから空港から事務所に寄ってもらわないと鍵が渡せないからスタッフは事務所で待っているけど、到着時間になっても来ず迷子になって7時間待ちだとか、羽田事務所作ったのに、成田に着いて意味ないとか、いろんなことが起こった。
羽田事務所にきていたエジプト人は僕より年上でお子さんも3人いて自分の事務所もエジプトで持っている独立した女性だ。それくらいじゃないと日本の物価は高くてこれない。その頃相次いで航空券や家代、ホテル代が高すぎてこれない人が続出した。
物価が10倍の日本に来るには、航空券と家賃3ヶ月で80万円だったとして向こうの人の感覚だと800万円日本人が3ヶ月で払うような感覚である。
払えるわけがない。若年層が来れない。格差をなくしてどこの国の人にも平等に仕事ができる環境を与えたい。そう思って2018年、東京に帰ってきて、パリ事務所も東京事務所も全て社員寮を閉鎖し、全員リモートワークに変えた。そこから全てのスタッフが出社する義務がなくなり、全員が国を関係なく自分のいる自宅から参加できるシステムが出来上がった。
我々はデータがあればクライアントと話ができる。データさえあればスタッフにわざわざ大金払ってきてもらう必要もない。インターネットの環境とパソコンさえあればどこでも仕事ができる。そうやって新しいやり方でスタートを切った。
僕は経営者から起業家としていくつか会社を作り、投資をし、時間ができたところで、一度も日本で働いた経験がないことからここで一度会社員として雇用されるのも経験として吸収するものを吸収できるのではと考え、10年くらいは会社員をやってみようと、アジアでも展開してる組織設計事務所にも首を突っ込んだ。限界が来て5年ちょっとで辞めたが、得られたことは大きい。

そんな傍ら3つ連続して作った新しい会社の一つに今の設計事務所KOTARO HORIUCHI株式会社がある。
同時並行で4つの会社と関わるのは時間的に相当ハード。とにかく移動が多い。飛行機で飛んでばっかり。
KOTARO HORIUCHIはブランドとして商標も取得してさまざまな分野に進出している。建築・都市・インテリア・家具・プロダクトのデザイン監修やPM・CMだけでなく、ワイングラスやジュエリーのデザインも進めている。これは役員に就任した20年来の旧友たちのおかげ。様々な分野の第一線で頑張っている同士だ。一級建築士・ジュエリーデザイナー・コンサル・プログラマー・インテリアデザイナー・医者など。彼らを役員として入れ替わりの激しい外国人の建築家のスタッフは全員業務委託とした。ビザ取ってフランスか日本に来てもらってすぐ辞められることもあるわけで、ネットだけで仕事が完結できるなら業務委託のみでいけると、2020年に体制を変更した。それからと言うもの僕らは世界中のスタッフがASANAというWeb上のプラットフォーム上でデータの受け渡し、自分の作業が終われば世界のどこかで働く誰かをタグ付けしてバトンタッチをする。24時間稼働してプロジェクトが進行する仕組みとなった。世界中の人が無理なく関われて自分の好きな時間に好きな場所で仕事に関われて、自分の最愛のパートナーや家族との時間を大切に過ごすことができる。

コロナ禍では僕は真っ先に東京にいる必要がないと判断し、全国のホテル住まいを始めた。最初はエクシブが出していた100時間プラン。4日滞在して別のエクシブに行く。それを数ヶ月過ごすとエクシブがない地域にも行きたくなる。それで関係なくいろんなホテルを転々としてると沖縄にたどり着いた。沖縄で初めて2021年にダイビングを始めた。オープン・ウォーター、アドバンス、レスキューと立て続けに2日ずつライセンスを取得して7日目でダイマスをスタートした。それでダイマスまで取得するとダイビングショップも作っていいと言うことで海の会社を一個作った。海が好きで海にいることが多く、石垣島にも設計事務所のオフィスを作った。海の会社も支店を作っておいた。これでスタッフたちは心置きなく遊べる。僕も含めどこで仕事をしていても大丈夫なので、遊びに行く時や食事に行くときに対面する。仕事はあくまで対面しなくても進められる。仕事ができない奴が対面じゃないとって呼んでおいて5分や30分のWebでもできそうな仕事で呼んでくると苛立ちが大きい。そう言う人もいるんだなと。昔の人に特に多いかな。
東京は遊び尽くしてレストランくらいしか興味がない。でもそれもだいぶ飽きてしまって、日本全国学生の時に隅々まで回る旅をしていて、お金がないから車で寝泊まりして各地の建築物を見てぐるめをたのしんで温泉に入ってと楽しんだ。今は学生の頃行けなかった離島を中心に回っている。そしてコロナも収束し、2022年は早速UAE、フランス、イタリア、香港、タイと行ってきた。
フランスに息子を夏季休暇を利用して留学させて、息子が小さかった頃、僕がペロー事務所で担当をしていたプロジェが大半がイタリアにあったので、見せておこうとイタリアへは建築物視察の旅に出た。息子は今年受験生。新成人18歳だが、建築学科には興味がなく全く別のものを受ける。とは知っていても見せたいから見せておいたのだけど、写真1枚撮って終わりってくらい興味がなさそうだったw
イタリアはミラノ、ローマ、バチカン、ナポリ、ローマと戻ってきて帰国しようと、当時帰国時の陰性証明が必要だった時代に取りに行くと息子だけがコロナに感染。こちらは東京での仕事のうちあわせがあるので当時未成年の息子を置き去りにして帰国。クレジットカード1枚だけ渡して、当時ヨーロッパでは既にコロナの制限は無かったので観光してもおっけい。息子はそのまま1人でイタリアを観光して一人旅を続けた。毎日送られてくる写真を見ると実に羨ましい。
なんなら人のカードでここぞとばかりにいいレストランばかりに行くので、僕がおにぎり食べてるときに送られてくると、なんだかなぁという気分になるw
そして1週間後息子が陰性証明を取りに行くと未成年者は親同伴じゃないと受けることすらできないと拒否られ、急遽僕が仕事の合間を見て日帰りイタリア往復という強行突破のフライトを取り、72時間以内の陰性証明を日本で取得すれば72時間以内に帰国すればイタリアで陰性証明を取らなくても帰国できる。これならイタリア日帰りでも仕事に影響しない。そう思って陰性証明を取りに行くと陽性。息子と同じ部屋にずっといたのだから仕方がないそりゃ移るわ。結局保険会社に連絡してイタリアで代理人に頼んで進めてもらって無事に息子も帰国できた。

2023年は香港、マカオ、深圳。
2024はエジプトやメキシコにも行こうかな。

建築と海とワインと。
やりたいことは、趣味を仕事にすること。
趣味は最初お金がかかるばっかりだけど、一つずつ形となって、少しずつ軌道に乗ってスタッフたちがワイワイやってくれる。
僕はまた新しい趣味を見つける。
元々高校の頃、バスケ部に入っていたとき、運動部所属の人は登山部の筋トレに出なくていいって言うので登山部に入ったけど、最近は登山もそうだけど雪山でバックカントリーにもハマり始めている。
今年は富士山(大砂走りのある御殿場ルート)と蝦夷富士(羊蹄山)に先日行ってきたが、雪山はどこに登ろう。現地にいるクライアント様が連れて行ってくれるので今年も楽しみたい。
札幌は長らく進めていた再開発事業の共用部デザイン監修。これが来年竣工する。10月11月は極めて忙しい。石垣島にいながら札幌のプロジェクトをコントロールし、パリ事務所のスタッフを中心に世界中のスタッフが図面を書き続けてくれ、散々ディスカッションをWEB上で繰り返したプロジェクト。僕らのプロジェクトはこうやって形になっていきます。楽しくて楽しくてしょうがないのでまだまだ辞められませんね。
世界中を旅しながら、世界中のプロジェクトに関わりながら、世界中の海を体感する。そんな人生を残り半分の人生を生きていきたいと思う。

こ。

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