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個性に苦しめられた人生

「個性」とは非常に抽象的なものだ。

抽象的というよりも、
曖昧で輪郭がはっきりしないものと言った方がよいか。

個性は目には見えない。
だからこそ意思を持って判断しないとふわふわ漂う。

逆に、誰か一人でもそうと思えば、それはその人にとっての個性となる。

さらには、人との関わりや自分自身の成長を通じて変化していくという特性も、個性を掴みにくいものへと昇華させている。

そんな曖昧性・不確実性・変動性を兼ね備えたものが「個性」だ。

奇しくも、VUCA*の3要素が当てはまっている。個性の尊重がより重要視される現代であることから、現在の社会的経済環境が人々の内面に与えるインパクトが垣間見える。

*VUCAとは・・・
Volatility(変動性) / Uncertainty(不確実性) / Complexity(複雑性) / Ambiguity(曖昧性)の頭文字を繋ぎ合わせた言葉。現在の社会経済環境が極めて予測困難な状況に直面しているという時代認識を4つの要因で示している。VUCA時代、VUCAの時代などとして使われる。


僕は、昔から個性という掴みようのない概念を非常に意識していて、個性がなかったら自分自身生きる価値がないんじゃないかと思うくらい、「個性」とかいう、ゆるふわ気分屋小悪魔系女子みたいなやつに苦しめられた。

というのも、自分自身はすごく平凡な人間だと思っていたし、他の人より突出してできることなんて何もないと思っていたから。

加えて、個性=スペシャルなスキル・才能と捉えていた。
自分は個性のない"THE 凡人"として一生を過ごしていかなきゃいけないんだな〜って思っていた。



その時に、ないなら無理やり作っちゃえばいいんだと思った。

人のことばかり見ていたから、周りのことを観察する力だけはあったみたい。他人の行動を見て、みんながやっていないようなこと、いわゆるちょっと「変」だと思われるようなことをたくさんやってみた


みんながいいと思っていることは常に否定してみた(常にマイノリティ)

人が着ないような奇抜な服を着てみた

意見する時は自分の意見よりも誰とも被らない意見を優先的に述べた

人の前に立てる仕事/趣味を片っ端から取り組んだ


常に人とは違うことをしていたら、周りから特殊な人だと見られるようになった。

それがちょっと嬉しかった。だからもっと「変」なことをしてみた。

「変」なことを身につけるためなら、誰よりも努力をした。
今思えばもっと他のことにその時間を注げよと思うけど、当時の自分は必死だった。「変」なことをすることで、自分の存在意義を感じていたから。



でも次第に孤立していった。
自分勝手で周りと合わせることができない、自己中な嫌な奴になっていった。常識的な行動/考えさえも否定していたから、ただの非常識人になっていた。

自分自身の考えより、他人との差異を優先的に見て行動していたため、
嘘の行動で固められた自分ができあがっていった。嘘の自分を見透かされることも、嘘の自分を尊敬されることもあって、なかなか抜け出せず、どんどん苦しくなっていった。

周囲からも本当の自分からも孤立して、
そこで初めて自分のやっていることは愚かなことだと気付いた。
自分で自分の首を息絶えないぎりぎりの力で絞め続けていた。

そのことに気付いてから、あえて「変」なことをすることをやめた。
自分に素直に生きることを心がけて、前よりは軽やかな気持ちで人生を過ごせるようになった



この経験を通して「個性」という概念に対する考えが変わった。
①個性がない人はいない
②個性は誰の役に立たなくてもいい。ただその人の中にあるもの。
③「普通」も「変」も主観的な考えで人それぞれ違う



まず、そもそも個性がない人なんていないと思う。

自覚がないだけで、誰しも個性は持っているものじゃん?
個性は自分にとっては当たり前のことで、他人から見たら特別なものであることが多い。だから自分では気付きにくい。

僕自身も平凡人間だと思っていた。
自分に素直に生きるようになって、人の意見もしっかり聞けるようになって、はじめて自分のことが分かってきた。
結構人と違うところがたくさんあって、逆に似てるところもあって、やっぱり人間は一人一人違うんだなって思った。


個性をわざわざスキルに置き換える必要はないと思う。
個性はその人自身だし、それが誰かの役に立つ必要なんてない。

そんな個性あっても仕方ないよって言葉をよく聞くけど、
別にそれで良くない?って。

こと個性においては、ただそこに存在している概念なだけで、それ以上でもそれ以下でもない

特に現代社会においては、個性というワードを企業の良いように変換して、スキルアップとか企業ブランディングとかに使ってるが、手段と目的の置き換えも甚だしい。

最終的に個性が元となって、その人自身の武器となるのは理想かもしれないけど、あくまで理想であって、必ずしも武器となる必要はない。

そこに存在しているものをまずは受け入れて、正しく認識することが大事だと思う。


最後に、今回「変」というワードを多用したけれども、
結局「普通」も「変」も人によって違って、そこを意識して、自分自身の個性を創造することに大きな意味はない、ということ。

誰かにとっての「普通」は誰かにとっての「変」かもしれないし、誰かにとっての「変」は誰かにとっての「普通」かもしれない。

「変」を追求しすぎると、最終的には非常識に辿り着いてしまう。

他の人と違うことをするのが好き、とか、目立ちだがり屋で人がやっていないことをする人を否定しているわけでは全くない。

それがナチュラルボーンならいいのだが、個性を得るために、あえて「変」なことをすることは、まるでゴールのない長距離走を走るような状況に陥ってしまう。

ただ、僕自身「変」なことをすることを通して、自分自身の考えや個性を理解できるようになった。
実際、様々な行動をする中で、何が嘘で、何が本当か、自分と他人の差がどんなところにあるのかは分かってくる。
最終的に嘘の自分を捨てることができるなら、という枕詞がつくし、非効率なやり方ではあるが、個性を見つけるための一つの手段ではあると思う。



散々これまで苦しめられてきた「個性」とはこれからも向き合い続けていくと思う。というよりもそうせざるを得ない。でもやっと仲良くできそうな未来が見えてきている。

ありのままで生きていればそれでいいって、自分を受け入れられたらどれだけ楽だろう。
今はまだ難しいし、変であろうとすることもあるだろうけど、ゆっくり自分自身を理解して労わりながら前に進んで行けたらいいなって思うんだ。

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