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ぼくたち「器用貧乏」は、本当はきっと損をしない。

姉から結婚式のプロフィールムービーの制作を依頼され、いまカフェで作業を進めている。

・Photoshopを使って写真をレタッチし
・その写真を使って画像一枚一枚をデザイン
・AfterEffectでテキストアニメーションをつくり
・Premiere Proで動きをつけ、動画をつくる

けっこう多才に思えるのではないだろうか。

よくよく振り返ると、広くスキルをみにつけてきたと思う。これまでのキャリアでこの他にも取り組んだことがあって、機能すると言えたハードスキルでいえば、

・デジタル一眼レフを使った写真撮影
・編集、ライティング
・インタビュー
・資料作成
・数値を見て施策立案
・ファシリテーション

くらいはすぐにパッと思いつく(ちなみに、実は言語も得意なほう)。その他経験したことのある業務については、Wantedlyプロフィールを見てほしい。

動画制作を稼業にしているわけではない。僕の本職は「ディレクター」で、いまは日々カスタマーサクセスに取り組んでいる。

でもこれだけのことができる(もちろん現段階ではすべての分野においてプロレベルに及ぶわけではないが...)。自分で言うのもなんだが、相当要領が良いほうだと思っている。やったことのないことでも、要領を素早く掴むことができる。

一般的にこういった類の人は器用貧乏といわれる。だが「貧乏」といわれはするものの、本当は大きな可能性を秘めていると思うのだ。

まずは「何がこの要領の良さを可能にしているのか」について、少し考えてみる。。

秀才の武器は類い稀な学習能力

世間一般的に言うと、ぼくたち器用貧乏はいわゆる「秀才」なのだろう。考え方としては概ねこちらの記事を採用しているので、一旦目を通してほしい。

秀才を秀才たらしめているのは、高い学習能力だ。その学習能力を支えるのが「仮説・検証」「フィードバック」である。細かく学習のメカニズムを書きはじめると長くなるので割愛するが、「いかに学習を設計するか」が能力を左右する。

ようするに、学び方を学ぶのだ(前職では常に大切にしていたコンセプト)。

学び方を学ぶことで一度の試行ごとの学習の質があがり、加速的に学ぶことができる。特に、知識やスキルがすぐに陳腐化し、単一のそれでは人材市場において優位に立ちづらく、新しいモノを生み出すことがかつてないほど求められる現代においては超重要なスキルだと思う。

この能力こそがぼくたちを秀才にしている。

だが器用「貧乏」なんて言われるくらいだから、当然良いことばかりではない。

器用なぼくたちは往々にして「スキル貧乏」になりがち

仕事において「器用」だと、どんな働き方になるだろうか。あえてマイナスな言い方をするとこんな感じだ。

・あれやこれやと頼まれ
・やれてしまうからやってしまい
・便利屋のように扱われてしまう

穴を埋めるように立ち回れるし、いたら非常に助かる人材ではあり、ことスタートアップのような環境では重宝される反面、本人としては、

「一体自分は何を武器に戦っていけば良いのだろう......」
「コアなスキルがない......」

と、こんな風に悩むことになる。

周囲の人間を見てもそうだし、ぼく自身もそうだ。特にいまの仕事では、当初どんな球でもバットを振り続けることに決めて、それがおそらく評価され自社サービスにアサインされたのは良いものの、いわゆる「器用貧乏」化することとなり、苦しむことが多かった。特にキャリアについてはかなり悩んできた。

器用貧乏は損をする。だから貧乏なのだーー。

そんな風に思えてしまうのも無理はない。大体の場合、ぼくたちは組織やサービスづくりにおいて、とても献身的であることも多いし、高いポテンシャルを秘めているのに、苦しんでしまう。

器用な貧乏人は、もっと豊かな人生を歩める

だが考え方を変えて、こうハッキリ掲げてみよう。器用貧乏は「可能性」だ。

ぼくが今まで出逢ってきた器用貧乏人、そして自分自身を振り返ると、まず学ぶことがすきな人が多い。新しい知識を得たりできるようになることにパッションがある。

そして手段に固執せず、あくまで目的の達成を大切にする人が多い。「目的達成のためであれば、なんでもやってやろう」スタンスなのだ。

これら2つの特徴をもつと、たとえばどんな行動をとるのか。

やったことのないことでも自分で本を読むなり作ってみるなりして、素早く学習する。そしてこなす。これは相当に高い能力だ。特に何か新しいものの立ち上げ段階でぼくたちのような人材はめちゃくちゃ重宝されるはず(もっと高く評価されるべきだとも思う)。

器用貧乏人は、「貧乏」から「富豪」になれる可能性がある。たゆまぬ学習を続け、ひとつ、またひとつと新しい知識やスキルを得ていく。すると、どんどんひとりでシナジーを生み出せる人間になっていく。現代において必須の能力であることは間違いない。

もちろん、尖ったスキルは必要だ。「〇〇が秀でています!」と言えたほうが転職市場では困りにくい。大前提であるスキル要件にフィットするかどうかが判断しやすいからだ。

キャリア視点で考えても、教育改革実践家である藤原和博さんが言うように、3つの強力な脚を得ることはとてつもなく大事だし、それを見据えた行動をとるべきだとぼくも強く思う。

だからこそ、ぼくたちはできる限り自分のポテンシャル、その学習能力に気づくべきだ。早ければ早いほど、良いことは間違いないと思う。これから持ち前の高い学習能力を活かして、エッジを増やしていくのだ。

ぼくもそのフェーズに差し掛かっている。もっと早くても良かったかもしれないとは正直思うし、悔やむ点がないかと言えば大嘘にはなる。でも試行錯誤や他者との対話を経て、少しずつだが今後尖らせていくスキルが定まりつつある。

このnoteを一人でも多くの「器用貧乏人」が読んでくれたら嬉しい。ぼくたちには大きな可能性がある。きっとその可能性はぼくたちをもっと遠く、高くまでつれていってくれる。

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