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他己評価は誤解か、真実か。

“正確な他己評価”なんてものはあるんだろうか。
先日、新しいプロジェクトを考えている時にふと思った。
そのプロジェクトでは活動の評価と蓄積(=信頼)をキーワードとするもので、その評価の際に自己申告と他者の評価(できれば誰も見ていないときの活動への第三者的な視点、神の視点のようなものも加えられないかと考えているのだけれど)をどう判断すべきか、と考えていた。

…なんだかちょっと、普段からすると堅苦しい滑り出しになってしまった。
けれど、この“他己評価”は、生きていれば避けては通れない。だからこそ、できれば自分の中でスッキリと消化してしまいたいものだと思うのです。


他己評価というと小難しく感じてしまうけれど、ようは友達の間での会話だったり、噂ばなしだったり、社内のミーティングだったり、目の前の人の顔色だったり、そんなところに現れてくる、自分自身のことで。
それは、自分の思う自分と合致しているか、ズレがあるのか。
あるいは合致していれば正しくて、ズレていれば間違っているのか。
そんな話。


わたし自身「そんなつもりじゃないのにな」と思いながら、他の人がわたしの話をしていることを聞くことがある。よく言葉足らずだと言われるから、自分のせいでもあるのだけど。そんなとき、誤解されてるのかなと感じる。

誤解されていると感じるとき、それがいい方向や悪い方向に関係なく、ちょっとした寂しさを感じたりする。それは、自分のことをわかってほしいという願望が満たされていないからだ。だから、いいとか悪いとか、合っているとかズレているとかそういう話ではなく、“誤解”という言葉、あるいは現象に抵抗感があった。というかある。

けれど最近読んだ岡本太郎の『強くなる本』のなかに

自分がそうではないのに、こんな風に見られたいとねがう。
これはだれにでもある人間のヴァニティ、助平根性である。
そして自分がそう期待するように見てもらえないことを、
人は誤解されていると考えたりする。いい気なものだ。

と書かれているのを発見したとき、なんだか恥ずかしくなった。
心を見透かされた、というか、タイミングもあって今までの行動を心の中も含めてみられていたような気持ちになった。さては見ていましたか。


つまり、この一節を読んで自分がまわりに対して期待していたのだと気づいたわけです。今まで自分が「自分ってこんな人間だろうな」と思っていたことは、主観としてはそうかもしれないけれど、同時にまわりの人達にもそう思っていてほしいと期待していたのだと。
そしてそこにズレがあったと感じると、勝手に寂しさを感じていた。本当、いい気なものだ。

けれど、この本を読んでから“他己評価”に関する認識が変わってきている。
“自己評価”に対する“他己評価”だと、いままでは思っていた。自己評価が基準で、他己評価で新たな発見があれば、受け入れたり、受け入れなかったり。つまり他己評価を「誤解だ」と切り分けたり、分けなかったりしていた。

しかし、“本当の自分“なんてものがあるとすれば、外側から見てくれている他者の意見も、真っ当な正解なのではないだろうか。少なくとも、その人にとっては真実だろう。だから、自分を知りたいのであれば、誤解なんて考える必要もなく、「そう見られている自分もひとつの自分」と受け入れるだけの度量が必要になってくる。“正確な他己評価”なんて考えている場合ではなく、自分の言動は結局、全て自分なのだ。


他己評価は誤解か、真実か。
それは見る視点によって異なる場合もあるだろう。
けれど、自分自身も、自分のことを誤解していることだってある。
だからあまり、誤解か真実かなんて考えることに意味はないのかもしれない。

表に出さず、内側のみで考えている自分も自分。
でもその時の、外側に出ている自分も自分。

どちらも真実なのだ。だから、もしも評価をするならば、どちらからの視点も加味しておかないと、納得は生まれないのかもしれない。

結局、締めくくりも堅苦しくなてしまた。
けれど今日は、そんな他己評価にまつわる思考。

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三宅コータ
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