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自己紹介:第1章 【幼少期〜大学生編】

僕は『心を解放したい人』『自分の人生を主人公として生きたい人』を応援していきたい。なぜコーチングをみんなに届けたいと思うようになったかを自己紹介でまずは僕を知っていただきたいです。

活発な幼少期


優しく責任感の強い父と何事にも一生懸命でパワフルな母のもとに、2人兄弟の長男として僕は生まれました。自分から言わないと気づいてもらえないですがハーフです。
※日本語しか喋れません。
「草津温泉」などの有名観光地から車で2時間以上離れた場所に位置する群馬県太田市(旧:新田町)という田んぼと畑に囲まれた町で育ちました。

家族は仲が良く自分で言えるぐらい、
親からたくさんの「愛」を受け取って僕は育ちました。

[追記]
ただ「愛」を受け取っていたと感じる幼少期であっても、人は成長していく中でたくさんの体験・経験を通して「学び」や自分の「考え方・捉え方」を身につけていき、その過程で「トラウマ」や偏った認知も身につけてしことをのちに知る。
※このことはまた別の記事で書こうと思います。


幼稚園ではドッジボールや鉄棒・雲梯(うんてい)・鬼ごっこなど、思い返すと、とにかく毎日のように外で遊んでいました。また幼稚園が終わると母親と一緒に近くの用水路へザリガニを獲りに行くのが日課でもありました。
最高に楽しかった思い出です。

このときは本当にのびのびと自分の「やりたいこと」をやっていたように感じており、まさに『主人公で生きる』そんな幼少期でした。

ルールにハマっていく小学生時代


小学1年から柔道を始めた。
今でも忘れないのが初めての柔道の試合。緊張のあまり硬直してしまい、開始「3秒で一本負け」。何が起きたかわからず、ただただビックリして、恥ずかしくて、逃げ出したのを覚えています。『主人公』だったイケイケ幼稚園児から小学生に上がり、初めて「敗ける」経験をしたのかもしれません。

2年生〜6年生で記憶に残っていることは、楽しかったことよりも、どちらかというと苦い思い出や、イタズラして怒られている記憶の方が多いです。
例えば
・柔道がやめたくてもやめれない
・柔道の試合で鼻血が出過ぎて3位決定戦を棄権
・掛け算九九が暗唱できず教室で泣く
・火遊びしてクローゼットに逃げる
・女の子をいじめて母親に怒られる
       などまだまだたくさんあります

失敗や経験をする中で僕の中で段々と身につけてしまったのが、
『失敗してはいけない』
『正しくないといけない』
『完璧でなくてはいけない』
『みんなと一緒でなくてはいけない』
こんなことを思うようになっていました。
そこからは幼いながらにもっていた自分の“信念”というものがわからなくなってしまい、心にフタをするようになっていきました。なるべく人と同じ意見を言うようにして、嫌われないように自分の意見があっても間違えるのが怖いため主張はしません。みんなと同じ輪の中にいることを選んでいました。

その後小学6年の時に学級崩壊、、、
ゴミは地面に捨てられ、給食は宙を飛び交い、天井には給食のきゅうりなどが張り付いている。授業中に先生と追いかけっこしたりとかなり荒れ放題。そんな影響もあってなのか僕はおじいちゃんの財布からお金を頂戴してよく家の近くにできたゲーセン(ホームセンターに隣接する)に行くようになりました。(おじいちゃん本当にごめんなさい。)

よく覚えてはいないですがあまりにもゲーセンにいるもんだから、ついたあだ名が「社長」だったのは覚えています。ほぼ毎日ゲーセンにいた?ので友達からはお金を持っているように見えたのかもしれません(笑)。

自分の心の変化に対応できなかった中学生時代

中学校にあがると柔道部がなかったため、陸上部に所属をして体を鍛えつつ、町道場で引き続き柔道は練習をしていました。当時は柔道部を創設するべく頑張っていた記憶はありますが、結局自分たちの代では学校に道場を作ることはできませんでした。

柔道の成績は1年生で県大会出場できるかできないかのレベル、2〜3年生で県大会3位までいけたかなってレベルです。当時は優勝以外はありえない(2位も3位も負けは負け)と思っていましたが、柔道部がなく道場でも年下の子しか練習相手がいない中で、よくそこまでいけたなと大人になり振り返ると思います。(笑)

一方で学校生活では自分の心の変化についていけず、反抗期はありませんでしたが、いろいろと思春期をこじらせてしまいました。

理由は保健と体育の授業割合が「体育9.5割・保健0.5割」で思春期の心の変化を勉強しなかったことが大きかったです。当時はテスト勉強以外を全て体育の時間にしてくれた神のような体育教師に感謝しかありませんでした。しかし保健体育の教員免許を取得した今だからこそ思うのは『保健めっちゃ大事」』。心の変化や体の変化をしっかりと理解することが成長過程でとても大切だと思います。

思春期になると女子と会話することに恥ずかしさを覚えたり、変に意識をしてしまったり、それこそ田舎なので落ちてるエ◯本が気になって見たいが友達がいるから興味ないフリをするみたいな感じです(笑)。
成長過程では当たり前のことなのに、その当時はこういうことに興味がある自分は変なんだと思っていました。

その結果思春期という心の変化が自分ではわからず、どんどん引っ込み事案な性格になってしまいました。


コミュ障が伝わるのではないでしょうか、、、笑

耐え抜いた高校時代

高校は隣の栃木県にある私立高校に進学。道場の先生の紹介で柔道の実績がない僕でも特待生扱いで入学することができました。そのため受験勉強はほぼやっていません。

しかしここからが悪夢の始まり。。。

僕以外に柔道部は12人入部しており、全国レベルの選手が集まってくる中で僕だけ部活動もない中学からの入学。しかも引っ込み思案な性格がここで炸裂してしまい全く話をすることができず完全に浮いてしまいます。

高校の柔道部は栃木県でも1位2位を争う強豪校のため、朝練、放課後の練習、土日の2部練など本当にキツく、ついていくので必死でした。
そこにバカ真面目な性格のため授業中はなんとかギリギリ睡魔に耐えて、休み時間に昼寝をする生活。その結果1年生のクラスでも浮いてしまいました。

そして部活では入部当初は男子と練習しても投げられないように逃げることしかできないため、途中から女子と練習をさせられる時期が続きます。
女子なら勝てると思いきやそんなこともなく“投げられ、抑え込まれ、関節取られ、絞められる”、、、男としてのプライドがこの時崩壊したのを覚えています。

こんな状況だったこともあり、
あまりいい思い出のない高校生活だったというのが正直なところです。
写真も全く撮らなかったので残っていなく残念です。

今思えばここまで辛いなら溜め込まず親に話せばいいのにと思えますが、当時の僕からすると私立高校でお金を出してもらっていて、「教師になる」という目標を道場の先生や親が期待してくれていると思っていたため、この話をしてしまうということは「みんなを裏切る行為」になるんじゃないかと本気で思っていました。
そのため誰にも話せず自分の中で溜め込んで高校生活を耐え忍び、結局高校での柔道人生は一度も全国大会に出場をすることなく、ただただ1日1日をやり過ごすことだけを考えてなんとか耐え抜いた3年間で高校を卒業しました。

ただこの時高校2年生のタイミングでクラス変えがあり、その時同じクラスになった友達には本当に救ってもらいました。2年生になると若干の心の余裕もでてきたので、学校生活の唯一の楽しみがクラスのみんなとくだらないことで笑っていること。今度みんなに会うタイミングがあったこの感謝の気持ちを伝えようと思います。

心機一転から初めてのどん底を経験する大学時代

高校では実績を出すことはできませんでしたが、真面目であったこともあり大学へは柔道部からは当時まだ進学をした子がいない愛知県の大学に進学することができました。大学もAO特待(自己推薦)で進学ができたため受験勉強はほぼやっていません。

親元を離れ一人暮らしが始まる愛知県の生活を楽しみにしていました。
[ 愛知=名古屋=きらびやか ]

理想


そんなイメージをもっていざ愛知にきてみると、そこは田んぼと畑が広がる地元と変わらない風景。僕のワクワクはこのとき一瞬で消えました。

現実

大学生に入ってすぐに初めての彼女ができました。柔道部のメンバーにも恵まれたので、楽しい学生生活を送ることができました。相変わらず柔道の実績は出すことができなかったですが、それでも柔道部のキャプテンを任せてもらうことができました。

※当時キャプテンを決める制度がひとつ上の先輩が指名して決める方法だったため、みんなと仲良くすることができた僕が選ばれた。ただ僕より適任な子がいたため、外部に練習に行くといつもその子がキャプテンだと思われていた。

勉強は適度にサボりながら、抑えるところは抑えれたので4年間で単位を落としたのは1教科だけ。ただ単位の評価としては中の下って感じです。

大学生でバイトを始めましたが、もっと真剣にバイトをしていればよかったと思います。もし学生の方がこの『note』を読んでいたならば伝えたいのは、時給だけで仕事を選ぶのではなくて、何を学べるかでバイトを選んだ方がいいということです。


我ながらヤバイ写真ですね…(笑)

バイトはマック、ファミマ、メンパブでバイトをしていました。
ただマックのバイトではやりたい放題やってしまっていたのと、本当にお金のために働いていたので、いかにサボって楽して時給をもらうかばかり考えてしまっていました。
ファミマでは廃棄がもらえる時代だったのでそれ目当てでバイトをしていました。そのため店長が代わり廃棄がもらえなくなってからはすぐにやめてしまいました。
メンパブは最初BARだと思って働き始めた。色々な経験をすることができましたが、大人の世界すぎて当時の僕はまだ世間を知らないガキだったと思います。

順調にいっていた学生生活ではありましたが、大学3年の健康診断で引っかかったことがきっかけで人生のどん底に落ちてしまいます。(実際は大したことはなかったのですが、当時の僕からすると人生が終わったと思うぐらいの出来事でした。)ただこれが人生の1回目のターニングポイントになります。

大学時代から社会人まで

大学卒業後は教員になって群馬に戻る約束をしていました。教育実習ではそれなりに担当の先生の評価も高く、教員に向いているとは言ってもらえましたが、どこかで「何かが違う」と感じていました。

結局勉強など全くしていないまま群馬の教員採用試験を受けましたが、しっかりと不採用になり、非常勤講師で働こうと4年生の10月ギリギリまで考えていました。ただいつも心のどこかに「本当にこのままでいいのか?」という疑問が頭の中に湧いてきてました。多分この気持ちを持ち始めたのは検査入院後からだったと思います。

そんなあるとき、メンパブで働いているとお客様から「一緒に働かない」と声をかけていただきました。当時の僕は“社長”という肩書きに憧れがあったのと、教員にならないとしても普通のサラリーマンはなんとなく嫌だなと漠然とした気持ちがあったので、お声がけいただいたお客様(のちの社長)にお世話になることをこの時決めました。

新しくセレクトショップを始めるいうことだったので、後々は独立なんてできたらいいなと思いながら入社を決めました。ちなみにこの時の僕は服にほとんど興味がなく「しま◯ら」の服も着ている「ユニ◯ロはハイブランド」fだと思っているような洋服にこだわりもない状態でした。

第二章【社会人編】に続く
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
少しでも興味を持っていただけましたら、
是非とも後編もお楽しみください。


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