高校生の夏、彼女は帰る場所を手放した
きっといつか必要になるだろう。
彼女の精神衛生のためか、僕の潔白の証明のためか、その日にならないと分からないけれど。
僕は使っていないノートを取り出し、日記をつけることにした。
・2019. 08. 02 (金)
ひどい一日だった。
仕事から帰ってきて食事を済ませたころ、インターホンが鳴った。
まだ何も知らないおれはアマゾンで買ったゲームソフトがようやく届いたかと、覗き窓から外を確認せずに玄関扉を開いた。
初めて見る彼女はすがるような目でおれを見ていて、驚きのあまり言葉も出ず、ふたりで立ちすくんでしまった。
***
時が止まったようだった。
宅配のお兄さんがいると思っていた目線の先には小さな頭があって、少し目を下にやるとすがるようにこちらを見てくる女の子がいた。
マンションの廊下の薄暗い灯が照らした服装は、白のカッターシャツに紺のベスト、チェックスカート。よく見かける近くの高校の制服だと気付けないくらいには動揺していた。
眉を隠す前髪から汗が伝い白い肌を撫でる。
おろした長い黒髪を後ろに流していて、どれほどの長さかはわからないがかなり乱れていた。
呼吸は浅く、細い身体に合わせて背中のリュックも上下している。
そして澄んだ瞳がこちらを見ている。
助けを求めるようで心を開いていない、力を持たない強い眼差しだった。
「すみません、間違っていますよね」
上の空で吐いた言葉はなぜか謝っていた。
彼女は大きめの呼吸で息を整えた。
「あの、宮村さんですか」
見知らぬ女子高生が口にしたのは紛れもなく自分の苗字だった。いきなり緊張感が増した。誰だこの子は。詐欺や犯罪がちらついて彼女の背後を見たが誰もいない。
ついでに視界に入ったリュックにはそこそこ荷物が入っていそうで、家出を疑った。関わると面倒かもしれない。
いつでも扉を閉められるようにしなければ。足を滑りこませてくるのを警戒してさりげなく目線を下に動かすと、彼女の震える手が制服の分厚いチェックスカートを握りしめていた。
はっと短く息を吸って、唇を強く噛んだ。
「あの、宮村、聡子さんはいますか」
声が、震えていた。目に力がこもっているのに潤んでいて弱々しかった。
「それは母の名前だ」
おれの声も震えていた。状況が全く理解できなかった。
「ごめん、君は誰?何をしに来たの?」
ぶわっと音が聞こえたような、そんな泣き出し方だった。
「わたし、なにしに来たんですか」
あまりに泣きじゃくるのでびっくりしてしまって、呆然としたまま彼女を家に招き入れた。
声をあげて泣いたのは最初のうちだけで、そのあと三十分ほど部屋の隅で膝を抱えてさめざめと泣いていた。
気が狂うほど長い三十分だった。
自分の家がここまで居心地悪かったのは後にも先にもこのときくらいだった。
突然迷い込んで来た生き物にどう接していいか分からず、何か飲み物でも出してあげようとしたが冷蔵庫で冷えたペットボトルの麦茶と缶ビールしかない。
独身男性なんてこんなものだろうと自分の怠惰に言い訳をしながら、ペットボトルが未開封であることを確認する。
飲みますか、と問いかけては見たものの返事がないので、部屋の隅に背を預け床で小さくなっている彼女の足元にそっと置く。
まるで人に慣れていない飢えた子猫に食事を与えるような緊張感だった。
好きに使って、と箱ティッシュとゴミ箱も足元においてやると、ティッシュを数枚取っては目元に寄せゴミ箱に力なく落とす繰り返しが始まった。外部刺激に反応したことに少し安堵する。
出来るだけ離れたところに腰を下ろそうと、テレビを見るための定位置であるカーペットの上に座る。
いつも僕をダメにするクッションを膝に乗せ、彼女を視界の端に入れながらスマホを開いたが連絡は特に入っていない。
恐らく、母方の親戚だと思う。
しかし母はもともと田舎の出身で、この地方都市に知り合いはいないはずだ。
少なくともこんな夜更けに訪ねてくる女子高生の知り合いは。
母の経歴を全て知っているわけではないが、そもそもこの街に住んだことはあるのだろうか。
自分は就職を機にこちらへ出てきたが、記憶の限り一緒にこの街で暮らしたことはない。
親戚ならば母がまだ田舎に住んでいることくらい知っているはずだった。
母に連絡を取るにはまだ早い。
女子高生を部屋に連れ込んでいる罪悪感と焦燥感が判断を鈍らせる。
ひとまず現状を把握したい。
制服を着た情報の塊を見る。
ティッシュがゴミ箱へ移動するペースが落ち着いてきたのを確認して、彼女に聞こえるようにわざとらしく息を吸って、だが声はできるだけ絞り、驚かせないように声をかける。
「君の名前を聞いてもいいかな」
鼻をすする音。弱った彼女の手は重りがついたように鈍い動きで数枚のティッシュを吸い込んだ。
「行橋、ちなみ」
聞いたことがなかった。
「君のお母さんの旧姓は分かる?」
「えっと、つる、です」
水流。知っていた。祖母の旧姓だった。
ほっとして思わず息が漏れた。
母に彼女の名前を知っているかラインをして、既読を待ちながら彼女に向かって座り直した。
「ちなみさん、君はおれの母親を訪ねてきたんだよね。母親は家族と田舎に住んでてここはおれがひとりで住んでる。誰にここの住所を聞いたの?」
ティッシュに鼻と口元をうずめながら、彼女は顔を上げた。
涙の跡にはりついた黒髪の隙間から腫れて赤くなった目がのぞく。
「お父さんに渡されました」
「君のお父さんに?」
たくさん泣いて頭が痛いのか小さく頷いた。
「お父さんはどうしてここを紹介したの?」
沈黙がうるさい。
「お母さんが」
鼻をすする音。
「癇癪起こしちゃって」
思い出したのか、涙が溢れ出る。
お皿を割っちゃったり、叫んじゃったり、と彼女は泣きすぎて鼻がつまった声で続ける。
「ごめん、もう大丈夫だから言わなくていいよ」
しゃくり上げながら抱えた膝に顔を埋める彼女を見ていられなくて俯く。
鼻声とすすり泣きの音が言葉を続ける。
「お父さん、頼むから、とりあえず荷物持って、家を出てくれ、って」
「あとから、住所だけラインが、きて」
「いっぱいライン送っても、電話も、無視で」
「30分くらい、待ってたら、名前だけ送ってきて」
慌てて準備したのが一番着慣れた制服だったのか。
悲壮感があまりに強くて、思わず眉間にしわが寄る。
愛娘を夜遅く外に出して連絡が取れないほどの状況なら、お父さんもかなり追い詰められていたのだろう。
彼女を外出させてから預ける先を考えたのかもしれない。
世話焼きな母のことだから、何かあったときのためにとおれの住所を親戚に伝えている可能性は大いにあった。
おれの母と血縁なのはちなみさんのお母さんだろうから、彼女のお父さんが母の名前を送ったのは僕の名前までは知らなかったからか。
今、いったいどうなっているんだ。
「わたしが夏休みで、家にいたから、お母さんは嫌だったの?」
「それは、分からないけど」彼女は顔を上げて投げた問いは難しすぎた。
「お母さんがつらくないように、家事とかも、お兄ちゃんの代わりに、」
少しずつ声に力がこもっていく。
「それでも、お父さんから見てもわたしはいない方が良かったの?」
力なく首を振ることしかできない。
「ねぇ、わたしが邪魔ならそう言ってくれたらいいのに!役立たずって!」
もはや、叫びだった。
もう、ぼろぼろだった。
頬は濡れていない場所を探す方が早いくらいだった。
彼女の言葉への答えを、ひとつも見つけられなかった。
「君は、どうしたいの」
「わかんないよ!出て行けって言われて、帰れない」
「帰れないのと、帰りたいのとは違うと思う」
「望まれない場所になんて、帰りたくても帰れないよ!」
彼女の語気が強まる。それもそうだ。こんなとき自分の頭はまともに動いてくれないと知る。
「君は家でいい子にしていたんだね」
「それでも、力にはなれなかったんだよ」
生い茂った苛立ちから顔を覗かせる悲しみは、あまりに幼く、純粋だった。
「お母さんは、わたしが嫌いなのかな、一緒にいたくないのかな」
核心めいたことを言うにはあまりに情報が少なく、綺麗事を言うには彼女の置かれた状況はあまりに苦しかった。
「お母さん、わたしがいない方がいいのかな」
鼻声は掠れ声になってきていた。
覚悟を決めて言葉を絞り出す。
「追い詰められてしまった人にとってはね、環境の変化がいい刺激になることもある」
「どういう、こと?」
苦しい。こっちを見ないでくれ。でも、言え。
「普段の生活の場所や、人、生活リズムとか」
「わたしが、いるかいないかも?」
「そう、だね」
結局彼女に言わせてしまった。また涙が頬を濡らす。
肩を震わせ、膝を抱きしめ、つま先の少し向こうを見つめている女の子はとても小さく感じられた。
「少しは、力になれるかな」
こちらまで泣きそうだった。
おれは他人の気持ちを代弁するのは好きじゃないけれど。
「そう思ってくれる娘がいるということは救いだと思うよ」
ありがと、と蚊の鳴くような声がして、彼女は安心したのか泣き疲れたのか、すすり泣きながら眠りに落ちていった。
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二話目はこちら。
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こんにちは、幸村です。
ハリネズミが可愛すぎて写真がたくさん集まったので、このシリーズはハリネズミフェスティバルになる予定です。
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。