【精神病院①〜閉鎖病棟入院への道のり】
予定より10日ほど早く出所できた。
というと語弊があるかもしれないが、『出所』という言葉がふさわしいだろう。
人生で初めての精神科への入院は自分にとって驚く事の連続であり、主治医からnoteを書く許可をいただいたので、記憶がさめないうちに書きとめておきたい。
(何故精神科へ入院したかの経緯に至っては、過去記事【無理】を読んでいただけたら大体お分かりいただけるだろう。深い理由についてはここでは割愛させていただく。)
これまでメンタルクリニック、心療内科、精神科という似たようなカテゴリの受診歴は19歳の頃からあり、現在2代目の主治医である杉浦先生のもとへ、入院直前まで必死に通っていた。
私の場合、通常メンタル安定時は2週間に1度、10日に1度くらいの頻度でクリニックを受診する。
黄色信号になると週に1度の受診が待ち遠しくなり、週に2度になったりする。
今回のような赤信号になると3日に1度、1日おき、毎日…と頻度が増し、その都度セルシンという“とても痛い注射″を利き手とは反対側の腕に打ってもらった。
注射が痛いのは、セルシンという薬剤自体の痛みだと杉浦先生は話していた。
(セルシンだけはいつ打っても本当に痛い)
今やメンタルクリニックや心療内科に通う人は昔に比べて格段に増えた。
それらを身近に感じている、自身や家族が受診している事を他人様に隠している…人もさぞ多いことだろう。
だが今回は精神病院に入院ときた。
話がこれまでと大きく異なってくる。
まず精神科、もしくは精神病院への入院と聞いて、皆さんの持つイメージはどんなものだろうか?
『怖いところ、変な人がいっぱいいるところ』
『昼夜問わず叫び声や奇声が聞こえてくる病棟』
『ブツブツとひとりごとを言う人が徘徊していたり薬漬けにされる場所』
『人里離れた山奥にあり、牢獄のような檻に入れられ、身体を拘束されたり電気ショックを受けるところ』
そんなところだろうか。
当初、私自身もそう思っていた。
半分本当で半分嘘だった。
入院して初めて知った事も多い。
これから書いていく事は、私が入院した精神病院の中の閉鎖病棟の話であり、同じような病院は日本全国どこにでもあり、あくまでも個人的な主観に基づく内容だと頭の片隅に置いていただきたい。
いつもの事ながら前置きが長くなるのを念のため断っておく。
メンドクサイ方はサクサク読み飛ばしていただいて結構だ。
人生で精神病院を訪れたのは、厳密に言うとこれが3度目である。
1度目は短大2年生の夏、教員免許を取る際に教育実習後、福祉施設等での2週間以上のボランティア活動が義務付けられていた時の事だ。
(学費の関係で最初は短大に入学し、その後四年制に編入した)
今でもボランティア活動として人気が高いのは、老人ホームや幼児を相手にする福祉施設である。
大学から数あるボランティア活動先として推奨されていた施設一覧表の中から、私とチェロ専攻の佳乃、2人だけ精神医療施設に希望を出した。
そこは精神病院と施設が一体化しており、古くて山奥の不便な場所にあったが、佳乃と2人で夏休み期間を使って通い続けた。
教員免許の取得希望学生は、短大と四年制合わせて約70人以上居たのに、精神科系へのボランティア希望者がたった2人しか居ない事に驚いた。
私には祖父母宅に佳子ちゃんという、いわゆる“重度さん″が身内に居たので、何の躊躇もなく自ら進んで申し込んだのだが、教職科の先生の話によると、毎年精神科系にボランティア希望を出す学生が居らず、大学側としても非常に有難いと言われ、佳乃と2人で顔を見合わせた。
そこへ通うバスの中で私と佳乃は、何故ボランティア活動の場所を選ぶのに、精神科系を皆が避けるのかを毎日語り合った。
佳乃は私と同じく地方出身で、音大生仲間の中で唯一、日本育英会からの奨学金を借りていた友人同士であった。佳乃は学費を育英会からの奨学金で全額まかない、家賃と光熱費分だけを実家が負担し、その他の生活費は一切援助がなかった。
当初はファミレスのバイトをしてい佳乃たが、そんなものでは普段の生活費+高い楽譜代や楽器のメンテナンス代など到底追いつかず、楽器の練習時間も満足に確保できない。
困り果てた挙げ句、週末2日間だけ大型のキャバクラ店で夜のバイトを始め、ファミレスを辞めた。
ミス・インド系のエキゾチック美女であり、人気も出てキャバクラのバイト代で何とか学生生活をしていた。彼女の宝物はブランド品でも彼氏でもなく、唯一両親に買ってもらった中古のチェロであった。
そんな佳乃と、看護師や施設の職員の指示のもと、鍵つきの“重度さん″の病棟、“中度さん″のグループホーム施設、解放病棟の“軽度さん″と言われる人たちの中を行ったり来たり忙しく過ごした。
ボランティア学生なので、食事の配膳や介助を手伝ったり、自由時間の見守り、気晴らしの話し相手、職員さんのヘルプが主であり、私は特に抵抗がなかったので入院患者さんのトイレの介助も気がつけば行なった。
夏休み中は、教員免許取得のためのボランティア学生で、老人系などの施設はどこも学生で溢れかえっていると同級生から散々聞いていたが、私たちが訪れた精神科の病棟や施設内で学生ボランティアを見かける事は最後まで一度もなかった。
それが最初の精神病院兼、それに伴う福祉施設を訪れた機会であった。
ボランティア学生として訪れた19歳当時の私は
『重度さんと言っても、祖父母宅にいる佳子ちゃんよりずっと軽度さんじゃないか…。挨拶をしたら表情で返してくれる人、テレビ等の娯楽になる物の場所へ這って行く人もいる。ママ…と単語で叫び、家族の面会を待ち望む意思を、何とかして私たちに伝えようとする人が多い。ウチの佳子ちゃんは本当の重度さんなんだ…』というものが率直な感想であった。
2度目の精神病院訪問は、自ら入院したいほど体調もメンタルも病んでしまった20代半ばの事であった。
中学校勤務時、あまりのストレスフルとオーバーワークで倒れてしまい、一旦退職して飼い猫のヤマトを連れ、仕方なく実家に帰っていた。
1ヶ月半ほど無職をやっていた私を母は疎ましく思っていたのだろう。ニートという言葉が世の中に出てきた頃だった。何も好き好んでニートをしていたわけではない。本当に働けなくなり、悔しい思いをしながら自宅休養をしていた。
ある日母の虫の居所が良くなく、夜明けに突然布団を捲られ、鉄のハンガーで母に首元をガッとやられ、思わず『殺される!』と思い反射的に荷物を持ってマンションを飛び出した。
すぐ祖父母宅に逃げこみ、怖くて母の居るマンションに帰れなくなってしまった。
心身共に衰弱しきっていた私は、地元の数少ない心療内科を転々とし、県内で1番大きく設備の揃った当時先進的と言われていた精神病院を紹介され、祖父の車で病院を訪れた。
この時ばかりは祖父は優しかった。
外来の医師に、入院したい旨を伝え(母から逃げ心身共に休みたい、その他幼少期からの虐待や祖父のDVなどの家庭環境等を相談)まずは病棟見学をした。
私が見学したのは解放病棟であったが、20代くらいの比較的若い患者が多く、それらの人々はほとんど間新しい綺麗な病棟で寝ていた。
B型就労支援の作業所で作ったばかりの焼き立てのパンを、A型就労支援の職員が売っている隣接したカフェにも入った。
祖父と初めて入ったカフェであったが、パンはどれも美味しく紅茶のおかわりまでした。
ここなら安心して寝られる、誰の顔色も伺わず、母に殺されかける心配もない…と思い、祖父もその時ばかりは首を縦に振った。
祖父は優しい時もある、経営者のソレで基本的に外面が非常に良い。
翌日荷物をまとめ入院の準備をして、再度その病院を訪れたが、外来の男性医師から思わぬ言葉をくらってしまった。
『あれから考えたんですけどね、アナタ最近まで学校の先生してたんでしょ?ココに入るにはちょっともったいないね…帰ってお母さんとうまくやるか祖父母様のお宅でゆっくりお休みになったらいいよ…』
は?今なんて言った?
開いた口が塞がらなかった。
私は心身共に疲れ果て、暴力の巣窟のような実家から身を守るために逃げてきたのに『入院するにはもったいない』とは何ごとだ。
祖父母様宅だと?
昨日あれだけ話したじゃないか…このまま帰宅して私が殺されたらどうするんだろう、仮面をかぶった祖父の態度に騙されている、仮面を剥がすと母より恐ろしいのに…何も分かってないボンクラだ、この医師は。
失望した私は牢獄のような家に帰るしかなかった。
祖父はその通りだ、ウチで休みなさいといわんばかりの態度で、そのまま私を連れて帰った。
その後、言うまでもなく家庭内環境はすぐに悪化した。
祖父の祖母や母に対するDVも再開され、毎日生きた心地がしない私は家で軍歌ばかり聴いていた。軍歌を聴き、三島を読む私を“ヤバくなった″と言いふらす友人も居た。
ヤマトを連れ、誰も知らない土地にひっそりと家出をする計画を、親友のみっきー&愛すべきゲイ友達の協力を得て、その後半年間行方不明になる家出をする事になった。
祖母と叔母だけには新しい携帯電話の番号を教えて内密に連絡を取った。
(またの機会にゆっくり後述する)
その時の精神病院訪問が2度目、今から約20年前の話である。
そして3度目は今回、本当に入院する羽目になった。
主治医の杉浦先生から『数年前に建て直したばかりで、とても綺麗で設備も整ってるよ、先生も看護師さんもとても優秀な人が揃ってるから安心してね』と言われ、紹介状を持って某精神病院を訪れた。
今どきは◯◯精神病院と言わないのであろうか、何とか医療センターと表記されている。
最初の印象は、少し郊外だけれど特急も止まるし駅からも近い。
精神病院と言っても田舎と違って町の真ん中にあるんだな…確かに綺麗だしパッと見、精神病院にまるで見えない…マンモス大学のようなつくりだな、と心の中で思った。
しかし入院2日前からストレス性の胃腸炎を起こし、プラス生理の初日にかかってしまった。胃腸もメンタルも子宮も痛いところだらけで、ロクに食事もとれなかった。
病院に着くと、あまりに顔色が悪いと言われ、5分後には車椅子に乗って院内を検査やら手続きのため移動した。
相方が外来医師と何やら話している間に血液検査、CT、コロナの検査を受け、あまりに腹が痛いので安置室のような所でたった1人で寝かされた。ナースコールもなく、寒気がした。
何だこの部屋は?
誰も居らずわからない。
そのうちまた車椅子に乗って外来医師の問診にいくつか答え、そこで腹痛がコロナのせいではないかとすったもんだしたが、地域医療の内科医師が在中しているという事で、そのまま病棟へと案内される事になった。
相方同席のもと、入院の同意書や院内の規則やら説明があったが、正直あまり覚えていない。
腹痛と錯乱状態で私は泣きじゃくっていた。
精神病院の入院には、本人の同意のもと入院する“任意入院″、本人は入院したくないが家族の同意がある“医療保護入院″、自傷や他害のおそれが強かったり警察に通報された場合などに適応される“措置入院″の3種類がある。
私の場合は、自身でも納得していた任意入院であり、いつでも退院できると説明があった。(但し医師の判断で72時間留まることもある)
相方が手続きやらを全て済ませて戻ってきた頃には、『これから閉鎖病棟入りまーす』というベテラン看護師の声に驚き、『え?解放病棟じゃないんですか?何で私が閉鎖病棟なの?何でなんで??怖い!やだ!』と支離滅裂な事を叫んだように記憶している。
『最初はみんな閉鎖病棟から入るんだって!だから大丈夫だよ!面会にもすぐ来るから!』と小さい子どもを必死になだめるように話す相方を、全世界が敵に見えたのは言うまでもない。
『よくも私を騙したな、閉鎖病棟なんて聞いてない!怖い、ヤダ!』と車椅子に乗って移動しながら叫んだように思う。周りの目など気にしている場合ではなかった。
『閉鎖病棟が嫌!』と入院した事もない私が言ったのは、昔観た映画を思い出したからだ。
“17歳のカルテ″という洋画で、母から『あんたは絶対観るな』と禁じられていた映画だ。
私が比較的冷静だったのは、病院到着後10分くらいで、売店の位置だけ確認した。
入院初日から突然閉鎖病棟に入れられるとは思っていなかった。解放病棟とばかり勝手に思っていた。
(説明はされていたが頭に入っていなかったようだ)
キャリーケースと荷物の入ったバックを相方が抱え、ベテラン看護師に車椅子ごと運ばれる途中、やけにドアの数が多い事に気づいた。
ひとつのドアを開ける度に、セキュリティカードのようなものをあてると、ピピーッと音が鳴り、鍵がガチャリと開く冷たい音がする。
これから私の入る病棟へ向かうまでの間にドアがいくつもいくつもある。
そうか!ここは精神病院だった、しかも閉鎖病棟へ向かっているこの廊下は全てロックされているんだ!!
突然、プリズンブレイクという脱獄モノの洋画を思い出した。
『どうやってココを脱獄しよう…無理だ、このセキュリティの堅さは…』早くもこんな事を思った。
病棟が5つ以上もある大きな精神病院、中庭の芝生は綺麗でアイスを食べている患者らしき人も見かける。
でも待って!閉鎖病棟なんてそんなの聞いてない!
(何度も言うが、後で思い出すと確かに説明はあり、ハイと同意もしていた)
胃腸炎と生理の初日が重なり、ハライタで苦しいわ、閉鎖病棟と聞いて錯乱状態に陥るわ、相方まで私を陥れる裏切り者に見えた。
そのまま最後のドアの前で相方とはバイバイ。
『ここから先は患者さんのみの病棟になりますので、ご家族の方は入れません』と告げられ、ピピーッとセキュリティカードをかざすと最後のドアのロックがガチャリと鳴り、ドアが開いたと思ったら、即ドアがガチャリと閉まった。嫌な音。
よく覚えてないのだが、車椅子で泣きながら閉鎖病棟に入り、他の患者さんを見る余裕もなく、錯乱状態のまま突然1人ぼっちの個室に入った。
4人部屋と聞いていたのに…
『閉鎖病棟にぶち込まれた』と失望した瞬間だった。
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