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もしかしたら

 過去の吐き出し記事を3本、吐き出した感想を1本書いた。
その翌日、何となしに思ったことがある。

バカ○○

 ○○には私の名前が入る。兄の名前は入らない。子供の頃は母からも兄からもそう呼ばれていた。当時も〈なんでバカ○○って呼ばれるんだろう〉と考え、名前が2文字だからゴロがいいからかな。と思っていた。
 毎日泣いて怒られ叩かれたまに蹴られ…それゆえにバカ○○と呼ばれる。

 だからできるだけ泣かないように我慢した。泣いてしゃくりあげるのも必死で止めようとしていた。もしかしてコレが私が彼を亡くした後にマトモに泣けない原因だろうか?と思いついたのだ。
 そう考えて見れば本や映画で感動してもこぼす涙は1粒2粒だ。どんなに感動しても涙が溢れた途端に涙を止めることが最優先事項になる。たとえ深夜にひとりで映画を見ていても、涙を流しながら映画を見ることは私が許さなくなっていることにも気がついた。

涙を止めるのは簡単だ。一旦心を断ち切ればいい。感動も寂しさも悔しさも感じる心を断ち切れば涙は止まる。このもしかしたらが真実だとしたら、私は泣くことが、あるいは心を動かすことすらトラウマになっているのかも知れない。

白髪とお金

 ちょっと考えを広げてみた。自分がいけない事だと思っていること無駄な嫌悪感なのかもと思えることがあった。

 基本スッピンなのだが、白髪染めをするようになった。丁寧に染めないというか、地肌を染めてしまいそうでビビリながら染めるので少し白髪が残ったりするけれど、気持ちが上がる。
 衣類は中古が多いけれど、自分に合ってる色だなと感じると嬉しくなる。
仕事の後にコンビニにより甘いおやつタイムも幸せだ。

 書いていて自分で驚く。白髪染めもスキな服を買うのも、コンビニでおやつを買うのも当たり前な事かも知れない。それに罪悪感があった。
これができるようになったのは彼と死別してからだ。

 まぁ白髪は彼と出会った頃は少なかったし、その後は彼が「お前、白髪増えたなぁ!」と言えば「お前のせいじゃ~」と笑っていた。服はほぼ買わなかったし、必要に迫られたら底値探訪をして買って貰っていた。おやつは、買い出し担当の彼が毎度冷蔵庫に値引きシールのある何かを補充してくれていたので、幸せなコーヒータイムがあった。

 そして繰り返し言っていた。「お前、グルメって言葉が嫌いだって言うけれど、お前は美味しいものをちゃんと喜んでいるぞ」

自分のためだけにお金を使うことに呪縛があるのもトラウマなのだろうか。
その部分も掘り下げる必要があるように思えた。それと同時に少しずつ自然とトラウマを破りながら生活しているのかもと思える部分もあるようだ。

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