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タンポポの綿毛と本質

残念なもの

 朝、ゴミ出しに行って目についたソメイヨシノのさくらんぼ。
さくらんぼと言えばサクランボ!なので、ソメイヨシノのさくらんぼを見ると心は勝手に少し残念に思ってしまう。
 ガクに絡まり飛べない綿毛も残念に感じる。飛べない豚はただの豚であって、飛べない綿毛もただの綿毛だ。しかし本質は種の部分であって、サクランボも綿毛も本質は〈種〉なのだから、私の気持ちを差し引けばどっちも立派な種である。

死別の気持ち

 この珍妙な理論は死別した時に味わった。
まず、彼を喪った事で仕事やら家やら失った私は周囲から〈残念〉に思われた。当たり前の日常、当たり前の老後、痛手に感じるものは気にも留めないでいた日常であって、残念に思われたり心配された家も仕事もなんとかなる程度のものであった。だから今日のわたしがある。
 本質が食い違っていると心配されているのが辛い。私に住む家があり仕事に行く日々を過ごしている私の現状を知れば「良かったね」となるのだろう。

自分の気持ち

 そしてこの珍妙な理論は罠でもある。死別のどん底に落ちていると、会いたい、声が聞きたい、触れたい…と、どうしようもない事ばかり考えている。だから思わず口に出るのが「どうしよう」であっても、頭の中はやはり、会いたい、声が聞きたい…の無限ループなので何かを考えることなんて出来ない。

 本質の部分は〈喪った相手を好きな気持ち〉だ。この気持は失っていないし何も変化しない。綿毛の部分が〈会いたい、声が~〉なのだろうか。

 でも、自分の気持ちの一番の敵は「立ち直らなきゃ」と感じた自分の気持ちだったと思う。それでも何もできなくてひたすら彼の事を考えたり写真を見つめて過ごした時間が必要だったと思う。綿毛の部分を十分に慈しんだからこそ、本質の種の部分の大切さを想える。出会えて良かった。一緒に暮らせて良かった。楽しかった。ありがとう。そんな種を育み続けられる有難さを噛み締められる。

ヒトの気持ち

 職場の先輩の凡ミスが続いている。ご主人を亡くしてから1年と数ヶ月。
会社規定の所定の忌引日数+αで復帰されて〈普通〉に働いておられる。
 千差万別の家庭があり、関係性もそれぞれだろうから何も言わず、寄り添いもせずに〈普通〉に接している。

 凡ミスにご自身を責められる姿を目にして「いいんですよ。居てくださるだけで安心感あるんですから」と声を掛けたけれど、死別の部分ではあえて寄り添う言葉を掛けられなかった。どうしようと悩んだけれど、やはり寄り添えない。彼女が大切にしている部分を私は知らないのだから寄り添えない。ゆえに〈普通〉にしている。

 寄り添えてないのに寄り添ったつもりになってくれる事ほど、つらい時期には重荷になってしまう。だから安易に「人の気持ちに寄り添う」とか言えない。ガクに絡まったタンポポの綿毛は「飛べなくて残念だ」と思っているだろうか。その綿毛は、大きく育って幾つもの花を咲かせる事ができたタンポポが根ざした大地に一番近くいるのだから。


 これが死別から2年7ヶ月の日にち薬の効果。まだ普通に彼を思って暮らしている。日常生活に差し障るように大きく落ちることは無い。
 でも、星空も花も、目にする1コマを彼に話している。
〈話しただろうな〉と落ちることなく「良く一緒に星空見てたよね」と声に出さずに話している。

 死別からは立ち直るんじゃなくて、学生から社会人になるように、新しい環境に馴染んでいくことだと思う。新しい家族のカタチは他人から見れば後ろ向きなのかも知れない。それは他人には想像できない暖かさに守られている新しい環境なのだから。

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