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小さな呪い
Give and Take
「お前のはやらずぶったくりと言うんだ」
言葉の前後が思い出せない。たぶん「この世の中はGive and Takeで回っている。おまえのはやらずぶったくりと言うんだ」だったかも知れない。
言われた小学生の時にも自分が何をできるか、何をGiveできるのか考えた。自分が子育てしている時も考えた。〈私はこの子から何かしてもらいたいか〉
シングルマザーなので不自由だと感じれば不自由である。息子に頼めばご飯も炊いてくれていたし、お風呂掃除もやってくれた。しかし、息子は○○やったからコレが欲しいとは言わないし、私も見返りに何かを与えるという発想は無かった。普通に我が子の存在がかわいいし、喜ぶかなと思えばそうしてみただけだった。
何故に母は子育てにGive and Takeという考えを持ち込んだのだろうか。
そしてこの一言は歪みを生む。〈Giveできる事を考える〉という思考回路は〈自分軸〉と正反対に進む。
嫌われないために、あるいは人からどう思われているのか常に不安になる。
彼のもとに引っ越す前に母に言われた言葉は「お前は何処の誰とも上手くいかない」だった。
私にはGive and Takeという言葉は非常にネガティブでねちっこくて嫌らしい気持ちになるフレーズである。それは親の愛は無償の愛であるという絵空事を教えてくれた。
お金
〈やらずぶったくり〉と言われるのは何かをせがんだ時だ。中学に入り部活の遠征に出かけるときに帽子を被ってくるように指示があった。帽子が無かった私は母に当時流行っていたアポロキャップをねだった。
「キャップは男の子が被る物だ。女の子はハットだ」と母は何かのイベントで配布されたチューリップハットを出して来た。長男だから男だからと兄が優遇されていると思っていた私は男になりたかったし、断固拒否して数日言い争いをしていた。それを聞きつけた兄が「俺のクラスの女子もみんなアポロキャップ被ってるよ」という一言で私は帽子を買って貰えた。欲しかった帽子を買って貰えた喜びと、私の数日に渡る説得もお願いも兄の一言以下の価値しかないのだと実感した。そしてこの帽子の値段は私にとって勿体ない価格なんだとたぶん学んでしまった。
好奇心が旺盛なこともあり、アレコレとやってみたいことが思いつく。そして欲しい物が出てくると私は紙に書き出す。まるでそれが欲しい物を供養するかのように書いて終わらせる。たぶん今でもそうなのだろう。自分にお金を使う罪悪感は消えない。
衝動買いとかショッピングしてストレス発散は夢の世界だ。コンビニで数百円のお菓子を諦めるし、自分が買っていいのか悪いのか決められない。
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