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笹団子が霜降り肉になる日

お盆

 実家の墓参りにも行かずお盆になった。自分用の笹団子を届けてくれる黒猫さんは、もう1つ荷物を持っていた。彼の実家に送った笹団子は和牛になって届いた。

お母さん…すみません!

送料込みの最安値を検索しまくって送ったのに申し訳ない。わらしべ長者になるには私の気は弱すぎるようだ。
 今年のお盆に学んだ事は、彼実家に送った物を自宅用にも買ってしまえば
〈彼と一緒に同じものを食べられる〉ということだ。彼があっちに行ってしまっているかもと考えて、私がめげる必要がなくなる。

哲学

 古来〈哲学者〉とはセレブな職業であったようだ。まぁそりゃそうだろう。金にもならない事を延々と考える学問なのだから、喰うに困らない環境は必須だったのだろう。

 しかし死別することで思考が哲学めいてしまうとは思わなかった。自分をうまく分析できていないけれど、マイナス思考とはちょっと違い、もう少しベクトルが斜め上に行っている。
 マイナス思考でもプラス思考でもない、斜め上の思考。
マイナス思考の根源に〈絶望〉があるのだとしたら、斜め上の思考の根源には〈虚無〉がある。

マイナス思考の極限が〈○ぬしか無い〉のであれば、プラス思考の極限は〈生きているに限る〉なのだろうか。私の頭の中ではどちらも〈虚無〉である。振り切れるような大きなゆらぎは起きなくなった。これは平和とか穏やかという言葉を当てはめるべき心情なのか疑問であるが。

知っているつもりだった事

〈死は全ての人に平等にやってくる〉特に考えもせずに、そりゃそうだと思っていた。

 知っているつもり、分かっているつもりだった事が根底からひっくり返さる。彼という存在の喪失/彼と過ごすはずだった既定路線の将来の喪失は見えていたものを失ったので自覚できた。
 しかし、自分が理解していたハズのものが天変地異のように崩れ去った事による喪失には気が付きにくい。その逆もまた然り。自分が信じていなかったと思っていた存在を信じてしまう自分の姿にも戸惑いが無くならない。

 平等な死とは何ぞや?天寿を全うしようが急逝しようが平等であると。
では不平等とは何ぞ?

 乗り越えられない壁がある。
明確な予定では、私と彼は70歳を過ぎてからでも仕事をしていただろう。
もはや〈事業〉とも呼べないレベルで「そろそろ作ろうかね?」とかやっているだろうと話していた。

そして今、老後の不安とか蓄えとか言われてもノープランである。若い頃に老後とか言われても現実味が無くて何も考えられなかったけれど、今は
〈自分の老後なんてあるのか無いのかわからないもの〉すぎて考えられないのである。自分の老後よりも巨大地震の方が現実味がある。
もっと言えば、老後なんていつまでもあってもらったら困るくらいだ。

 この壁の向こうがグリーフから抜け出た世界なのだろうか?


業務連絡


 ベッドに横になり、部屋の電気を全部消してから天井に向けて腕を伸ばしてみた。
 天井の闇に紛れた私の腕は肘から先が見えなかった。
グーパーグーパーと手のひらを動かしてみても闇の中で何も見えなかった。
見えないけれど確かに存在している。

 君の存在ってこんな感じなのかな。確かに存在しているのに見えない。
こんなに大好きなのに...、自分の大好きという気持ちすら信じられなくなってきたよ。これは愛なんかじゃなくて妄想だったりして!?と考えると自分にビビる。実際に〈現実でも妄想でも〉大差ないんだよね...。

9月2日が三回忌だってお母さんが教えてくれた。記念日反応の起きる日が増えていくのかな。でも、実はもう自分の気持ちが落ちているのか普通なのか全然わからないんだ。原点を見失ってしまったんだ。フラットな気持ち。
限りなくマイナスなのか自分の平均点すらわからないんだ。凪だね。これでいいんだ。


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