私を 想って 第七話
涼花さんがお店を開く週末を迎えたが、妙さんの捻挫はまだ良くなっていないようで、再び私が和さんのお世話をすることになった。
怖いから嫌だとは言えない。
「ごめんね、今日も鞠毛さんに頼んでしまって。午後には砂山さんが来てくれるけど、何かあったらすぐにメールしてね」
涼花さんは私の気持ちには何も気付いていないのだろう。私だってこの気持ちをどう説明していいのかわからない。いつものように涼花さんは笑顔で仕事に出かけていった。
今日も和さんのお茶は麦茶ですごそうかと思ったが、用意しているお茶が減っていないことを気がつかれたらまずいと思い、十時のお茶は涼花さんが用意したきつい香りのお茶を出した。
先週の日曜日の豹変した和さんの姿が思い浮かんだけれど、今日は文句も言わずに全部飲み干してくれた。何事もなく、過ぎたことにほっとした。
昼前、バツの悪そうな顔で、篤人がやってきた。
いつものようにバタバタと家の中に入ってきたが、今日は少しおとなしい。
昨日電話がかかってきて、明日行ってもいいかと聞いてきた。いつもはそんな連絡もなしに勝手にやってくるのに。気をつかっているかもしれない。もしかしたら心配してくれているのかな、優しいところもあるんだ、と感心していた。
しかし、いつもの調子で「小説の応募が八月末なんだけど間に合うかな?」と電話してきただけだった。だから篤人に「能天気でいいね……」と、嫌みを言ってしまったのだ。
「あれからどう?」
「特に何も」
「そっか、今日もお昼持ってきたから」
日曜日と同じ紙袋から、キュウリとトマトとおにぎりを取り出した。
「で、この前の続きになるけど、オレいろいろ調べたんだ。おばさん、薬剤師だっただろ。今はハーブ育てているし、薬品とか薬草って、量を間違えたら、薬じゃなくて毒になる。だから仁史さんが毒を盛られたっていうのも、否定しきれない。あと、和ばあちゃんのこと。認知症じゃん。お金あるのに施設に入れないのは、何かあるんじゃないかって、つい疑いたくなるんだよ」
「疑いたくなるって……。そんなこと言わないでよ」
「ちょっと待った。オレは噂話から、可能性の話しをしているだけで、おばさんのことを本気で疑ってる訳じゃないし」
「それでも、やめて。冗談でもそんな話しはもう聞きたくない」
「まぁまぁ、そんなに深刻になるなって。ただ、おばさんが犯人だったとしても、意外じゃないなぁってだけだよ」
「犯人って……お父さんは無事に帰ってくるよ。それを疑っているのなら、もう話したくない」
「それは困る。ゴメンって。そういうつもりじゃなかったんだよ」
むっつりと黙り込んだ。私は不安でたまらないのに、それを楽しむような篤人の態度が嫌だったし、傷ついた。
いつもなら、何でも許せてしまえる篤人の人好きのする強引で明るい性格も、今は気に障る。
「なあ、どうしたら許してもらえる?」
「……とりあえずお昼の準備して。そうしたら考える」
「分かったよ」
今まで見たことがないくらいにしょんぼりしている篤人を見て、少しだけ許してもいい気持ちになった。
「それじゃ、和さん呼んでくるから」
「了解」
台所の準備を篤人に任せて、和さんを部屋に呼びに行くと和さんは、座椅子に座ってテレビを見ていた。
「和さん、お昼にしよう」
テレビを消し、和さんと二人で台所へ向かう。大丈夫、今日も大丈夫、そう心で繰り返す。
「なあ、昼飯が三人分用意されてるんだけど、オレが来るっておば、じゃなくて涼花さんに言ったか?」
台所では、篤人が困惑顔で待っていた。
「ううん、昨日は、特に話しらしい話もしなかったし、何も言ってないよ」
「それじゃ、なんでオレの分まであるんだよ。……カメラとか、盗聴器とか、あるの?」
後半は小声になって部屋をキョロキョロと見渡していた。本気で何か仕掛けられていると思っているようだ。
「そんなの、あるわけないじゃん。ここは、勝手に人の家に入っていくような所だよ。そういうのは、もっとプライバシーを重視するところじゃないと、意味ないと思う」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。篤人のお母さんにでも聞いたんじゃないの。涼花さんを疑うより、その可能性の方がよっぽど高いと思うけど」
「まぁちゃん、ケンカしてるの?」
「違うよ、ちょっとした意見交換だよ」
私の剣幕に驚いたのか、和さんが不安顔になっていた。
篤人に目配せをした。とにかく昼食を無事に済ませるべきだ。その意図はすぐに篤人もくんでくれた。お昼のお茶も和さんは黙って飲み、何事もなく昼食を終えた。
身体中に力が入っていたみたいで、ホッとしたら疲れがでて大きなため息が口からでた。私呼吸止めていたのかも。ゆっくり息を吸う。
「さすが、カフェやってるだけあるよ。おばさん料理上手いね」
篤人は、あれだけ涼花さんを犯人扱いしているのに、用意された料理をペロリと全部食べてしまった。どういう精神構造をしているのだろう。
「麦茶もらうよ」
そう言って、篤人がヤカンからコップに注いだのは、和さんに飲ませるお茶だった。
「うわ、なんだこの匂い! この麦茶ヤバくねーか」
「それ、涼花さんが和さんに飲ませるように作ったお茶。麦茶は隣のヤカンだよ」
「それにしても強烈な匂いだなぁ。もしかして、毒だったりして」
篤人は冗談のつもりで笑いながらそう言った。でもタイミングが最悪だった。まだ和さんがいたのだ。
篤人の言葉を聞いた和さんは、日曜日のように急に叫びだした。
「毒だよ! あの女に仁史は毒を盛られた。絶対許さないよ!」
二度目だったからか、篤人が一緒だったからなのか、この前のように動けなくなることはなかった。
「和ばあちゃん、どうしたんだよ」
「あの女がやったんだよ!」
和さんは目を三角につり上げ、口角に泡を吹いて叫んでいる。
真っ黒な瞳はどこを見ているのかわからない。
「最初は、都会育ちで気の利く良い嫁が来たと思ったさ。それなのに、私のことを病気だって言うんだ! そのうち、仁史も病気だから、入院しないとダメだなんて言い出した。仁史は病気一つしたこのない丈夫な子なのに。これはおかしいと思ったね。財産を乗っ取るつもりだったんだよ。
だから田んぼへ突き落としてやったんだ。悪運が強くて本人は怪我一つしなかったけど、お腹の子は流れて、二度と子供が産めない体になったさ。ざまあみろだ。跡取りが生めないなら、そんな女はこの家にいる必要がないから出て行けって言ったのに、仁史が執着してね。あの性悪女に騙されているのも知らずに。それで結局毒を盛られて殺されたんだよ」
はあはあと呼吸が荒くなっている和さんの手を篤人が握り、どうしたんだよ。落ち着いてくれよ、と言っている。
「和さん、私、まぁちゃんだよ。落ち着いて、お願い」
この前とは逆に、私が和さんのことを震える手で抱き閉めた。和さんの表情も口調も怖かった。でも、私に乱暴なことはしない。なぜかそう感じていた。すごく時間が長く感じたが、実際には数分の出来事で、和さんはすぐに落ち着きを取り戻した。
「まぁちゃん、ゴメンね。怖かった?」
私は無言で和さんを抱きしめ続けた。骨張った和さんの体。かさかさの肌。でも、ちゃんとあたたかい。和さんの息づかいが耳元で聞こえる。小さいけれど、心臓の鼓動も感じ取れる。こんな風に、誰かを抱きしめたことは初めてだった。生きている。当たり前だけどそう感じた。
和さんはしきりに「私の可愛いまぁちゃん」と、繰り返しつぶやいていた。しばらくすると、和さんは何事もなかったかのように洗面台へ行き、歯を磨いて部屋に戻っていった。
「ゴメン、油断していた。まさか、和ばあちゃんがまたあんなことになるとは思ってもみなくて」
「もういいよ。和さんは和さんだし、病気だから。でもね、それでも、私は不安なの。今まで一度も不安だなんて感じたことはなかった。お父さんは必ず帰ってくるって信じて疑っていなかったのに、今はすっごく不安なんだよ。涼花さんが何かするわけないでしょ。涼花さんがどんな人か、ずっと一緒に過ごしてきた訳じゃないけど、それくらい分かるから。……なんか、ごめん。篤人に当たるなんて、何やってるんだろう私」
篤人が、和さん用のお茶が入ったコップに鼻を近づける。
「匂い、マジでヤバイよな。これって本当に毒でさ、おばさん、オレらに自分がしていることを知って欲しくて、わざとやってるとか」
「なにそれ。馬鹿みたい」
茶化そうとする篤人の手からコップを奪い取って、一気にお茶を飲んだ。
びっくりするほど本当に凄く苦かった。鼻の奥まで、苦さで覆われたような感じだ。
「おい、本当に毒だったら、どうするんだよ!」
「別に死んでもいいよ」
ヤカンに残っているお茶も、全て飲み干すつもりだった。もし涼花さんが殺人鬼で、このお茶が毒だったなら、本当にそれで死んでもいいと思った。
それよりも、このお茶が毒ではなく、涼花さんは見た目の通り優しい人で、そんな涼花さんを疑う篤人を黙らせたかった。
「待てよ、オレも飲むよ……ぐば、にげー! 毒じゃなくてもこの苦さで死ねる感じ」
「ほんと馬鹿みたい」
口の中に残る苦さで、涙が出てきそうだった。
やけになって、ヤカンに入ったお茶を半分くらい飲んだけど、苦さに耐えきれずそれ以上は飲むことができなかった。
口の中の苦さを消そうと、二人で水と麦茶と牛乳を何度も飲んだ。それでも、口の中に残る苦さは、少しも消えないままだった。
「死なねーなー。やっぱ、毒じゃないな」
「やっぱって、ものすごく疑ってたくせに」
「本気で疑ってた訳じゃないさ。可能性の追求だよ」
水分でふくれたお腹が苦しくて、二人で台所の床に寝転がった。
「和ばあちゃんの話し、本当なのかな」
「たぶん……和さんの中では、本当のことなんだよ」
「涼花さんを疑うようなこと言って、ごめん。おじさんも無事帰ってくるよ。ただ、その理由が知りたいだけだったんだ。今日はもう帰るよ。口の中が苦すぎて、気持ち悪くなってきた。オエっ」
篤人はお腹をさすりながら立ち上がり帰って行った。
のろのろと起き上がりテーブルの上を片付け一息ついていると、砂山さんが遊びに来てくれたので、少し部屋にいますねと伝えベットに倒れ込んだ。
第一話はこちらから