私を 想って 第八話
めずらしく、涼花さんは夕方に帰ってきた。早めにお店を閉めてきたそうだ。そのため、いつもなら涼花さんのいない週末の夕食だけど、三人そろって食べることになった。
昼間和さんの口から聞いた涼花さんと、目の前にいる涼花さん。その二人のイメージがかけ離れていて、どうしても重ならない。
それは、涼花さんの怒っている姿を一度も見たことがないからだ。
涼花さんはいつも笑顔で和さんのお母さんになりきり、私と父の面倒を見てくれていた。自分でお店を持ちながら、家事もこなす、理想の母親。
そうだ、きっと私は涼花さんに、母の姿を重ねていたのだ。
血のつながりはない。本当の母親じゃない。涼花さんを母親と認めてはいけないような気がした。そうしないと死んでしまった母に申し訳ない。母との記憶はないけれど、そんな風に思っていた。それでも、心のどこかで涼花さんのような人が母親だったらいいな、と思っていたのだろう。その気持ちがどんどん増えて溢れ出てこないように、しっかりと蓋をして距離をとっていたことに気がついた。
穏やかな涼花さんの顔を盗み見る。
この前言っていた、流産をしたことは和さんが関わっているの? 和さんが言ったように、本当に田んぼに突き落とされたのだろうか。
もしそれが本当なら、どうしてその和さんと、こんなに落ち着いて生活できているの?
仁史さんを殺したと近隣に触れ回られたのに、ここで和さんの面倒を見ながら生活しているのは、なぜなんだろう。
「お母さんのお料理美味しいね。幸せだね、まぁちゃん」
「和ちゃん、お茶もしっかり飲んでね」
「まずいけど、お母さんが言うから、頑張って飲むね」
まずいねと言いながらも、和さんはお茶をごくごく飲んだ。
突然、和さんがその動きを止めた。飲みかけの湯飲みが手から落ち床に転がった。お茶がこぼれ、強烈な匂いが広がる。ぼうっとしていた和さんの目が大きくギラギラと輝きだす。
「……あんた、まだこの家にいたのかい。厚かましいにもほどがあるよ。仁史を殺したってのに。この人殺しぃいい!!」
和さんは隣に座る涼花さんを睨みつけた。つかみかかろうとしたのだろう。急に立ち上がろうとしてバランスを崩し、そのまま座っていた椅子ごと後ろへひっくり返る。動きの全てがスローモーションのように見えた。あっ! と思ったとき鈍い音がした。和さんの頭が、床にぶつかった音だった。
あわてて駆け寄ると和さんの体はぐったりとしていて、まぶたは閉じられたままだ。
そのとき、後ろから小さな声が聞こえた。
和さんではない、涼花さんの声。
振り向くと、涼花さんが立ったまま和さんを見下ろしていた。唇を震わせいるのに、口元がかすかに笑っている。目尻には、涙が浮かんでいた。
和さんが倒れたのに、どうして笑っているの? 何の涙なの?
そして、漏れ聞こえてきたような、かすかな声。
その声を頭の中で再現する。それは確かに
「お義母さん、記憶が戻ったみたい」
と言っていた。
この言葉の意味することは、何だろう?
それからのことはあっという間だった。
すぐに救急車が来て、涼花さんは和さんに付き添い一緒に乗って行った。気がつくと救急車のサイレンの音を聞きつけたのか、家の周りに人だかりができていた。
砂山さんは「大丈夫、大丈夫」と、私の背中をなでている。
近所の人達が何事かと遠巻きに様子を見ているのに、今自分がここに立っている実感がわかない。
人だかりの中から、篤人と、篤人のお父さんが近づいてきた。
「何があったのか、教えてくれるか?」
私は、夕食の場で和さんが椅子から転げ落ちて頭を打ったことを伝えた。でも、激高した和さんのことと、うっすらと笑っているように見えた涼花さんのことは、教えなかった。
「もし男手が必要ならいつでも遠慮なく言ってくれ。夜中でもかまわないから」
私はありがとうございますと返事をして、家に入り玄関の戸をカラカラと閉じると、周囲のざわめきが急に遠のいていった。足の力が抜けストンと座り込む。
誰もいない、空っぽの家。
強烈なお茶の匂いが鼻につき、蛍光灯の光がやけにまぶしく感じた。
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