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『身体論のススメ』

批評ゼミ、7月のテーマは身体論。
読書会で扱った本は下の本。


身体論とはどういうジャンルか。まず、デカルト的心身二元論がある。「わたし」の存在の根拠は存在を疑う「わたし」であり、精神なのだと言う。身体はただの入れ物に過ぎないと。「我思う、ゆえに我あり」ってやつだ。ただ勿論反論も出てくる。

本当に心と体ってきれいに分けられるものなのか?例えば、小さい時ケガをしたらお母さんに「痛いの痛いの飛んでいけー」と言われたことはないだろうか。そういう言われたところで物質的な痛みが減るわけではない。だがしかし、楽になったりもする。精神と肉体の繋がりを示す一例だ。

こちらは心と体を分離しないで考えるため、心身一元論と呼ばれる。OK。体はただの入れ物だって、そんなドライな考え方はおかしいと思っていた。肉体にこそ、心が宿っているんだよ。だが、こちらの考えにも欠陥はある。人間の肉体は細胞からできているが、その細胞は細胞分裂を繰り返し、2、3か月でほぼ全ての細胞が入れ替わってしまう。

ほぼ全てだ。おいおい、じゃあ生物学的には全く別の体になっているってことじゃないか。じゃあ、じぶんってなんなんだ?俺たちを俺たちたらしめる根拠はどこにあるんだ?——それこそが身体論だ。

精神によっても規定しきれず、体(物質)によっても規定されない「わたし」というこの不思議な存在。有名な議論をいくつか挙げよう。例えば、車を運転しているとき、慣れてくるとまるで自分の身体を動かすように車を動かし、そして長年乗り続け愛着を持つと自分の車を誰かに乱暴に触られることをまるで自分の体を触られるように嫌がらないだろうか。

この時、文字通り車は自分(わたし)の一部となっているといえる。つまり、身体は「拡張」する。ボディタッチをされて嫌がり、「私に触らないで!」とある女性は言う。しかし、こういったシチュエーションの多くは、服の上から彼女を触った時ではないだろうか。

正確には、「彼女の身体」は触っていない。しかし多くの女性は服の上から触られただけで自分の身体が触られたと思うだろう。そう、この状況では彼女の身体は服にまで「拡張」しているのである。「わたし」というのは、拡張するものである。ということは?もちろん収縮することもあるだろう。

考えてみると、自明であるはずの「わたし」というものの存在根拠の脆弱さに気づくのである。



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