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【創作】すまいる~後編~


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⑦現場

現場に入る事を決心した俺は早速誕生日会の次の日から働き始めた。
ユニフォームを着て現場に現れた俺をスタッフたちは歓迎しなかった。
「本社の人間の気まぐれには付き合いきれない」「どうせすぐやめる」「遊び半分で現場を混乱させないでほしい」
そういう批判を俺に隠すことなく堂々と口にしていた。

だけどそんな言葉は俺には関係なかった。俺は利用者の笑顔を守るために自分の今やれることをやるだけだと思っていた。
もう俺に迷いは一切なかった。

これまで介護現場で働いたことがなかった俺は、想像以上の現場の壮絶さにいかに自分が世間知らずだったかを思い知らされた。
重度の皮膚疾患のある利用者の背中の湿疹や昨夜から交換されていないオムツの匂い、そして認知症の方が忘れてしまうことに対して苦しんでいること。

そこには俺が知らないことばかりがあった。
これまでの自分の経験や常識は全く通用しなかった。
イチから、いやゼロからのスタートだった。

最初の1週間は筋肉痛で身体がバキバキで歩くのも辛かった。
いろんな匂いが鼻に残りご飯が喉を通らなかった。
だけどそれが現場だった。こんな事で弱音を吐いていては話にならなかった。

1ヶ月も経つ頃にはご飯をおかわりできるくらいには慣れていた。
たくさんミスをしてスタッフからたくさん怒られたが、「本社の人」と呼ばれていた俺はいつの間にか「越野さん」と名前で呼ばれるようになっていた。

現場に入って2ヶ月目辺りから少しずつシステム変更に着手した。
当初は現場から拒否反応があったが、以前と違いスタッフは俺の話に耳を傾けてくれた。
俺が現場で手取り足取り教えるという約束で渋々ながらもシステム変更に合意をしてくれた。

システム変更と同時期に外回りを始めた。
まずは俺が単独で事業所を回った。そこで聞いた話や要望などをスタッフに共有した。そのうち興味を持ったスタッフが俺と一緒に外回りをするようになった。
気が付くと俺抜きでも外回りするようになっていた。


俺が現場に入って数か月、利用者は少しずつだか増え始めていた。
目標値にはまだまだ足りていなかったが、大きな進歩だと俺は思っていた。
この実績を手塚社長がどう判断するかは分からないが、この調子で改善を続けていけば希望の家を立て直すことが出来ると俺は信じていた。

手塚社長に呼び出されたのはそんな時だった。

■■■

⑧事業譲渡

本社にある社長室の扉をノックすると「どうぞ」という手塚社長の声が聞こえた。
扉を開けて部屋に入り「失礼します」と頭を下げる。顔を上げて目の前にいる人物を見て俺は声を失った。
手塚社長の向かいにはコンサル時代同期だった上村が座っていた。

手塚社長は自分の隣に座るように俺を促した。
俺は視線を上村に向けたまま手塚社長の隣りに座った。
上村は俺を見下すようにニヤニヤとした表情で「ご無沙汰しています。越野さん」とわざとらしく他人行儀で言った。
俺は湧き出る怒りを抑えて「どうも」とだけ応える。
上村の目的が何なのか、さまざま考えが頭の中をよぎる。

「上村さん、本日はどのようなご用件ですか」

手塚社長が上村に尋ねる。上村はカバンから資料を取り出すと俺たちの前に差し出した。資料の表紙には【希望の家 改善計画】と記載されていた。
俺たちが表紙を目にしたことを確認して上村は饒舌に話始めた。

「弊社の重要な顧客である伊藤病院様の関連企業である御社がデイサービスの運営に苦しんでおられると耳にいたしました。
そこで出過ぎた真似かもしれませんがこちらで経営改善のプランを立てさせていただきました。まずは資料をご覧ください」

上村は俺たちの前にある資料を1枚めくった。【事業譲渡について】とデカデカと書かれた文字が俺の目に飛び込んできた。
事業譲渡?希望の家を売るということか?
抑えたはずの怒りが再び俺の中から湧き出た。俺は声を荒げて上村に詰め寄った。

「事業譲渡ってどういうことだよ!」

上村は動揺する様子もなく「まぁまぁ」と俺をなだめると、また軽い口調で話した。

「落ち着けよ越野。赤字部門を事業譲渡するのは経営戦略の常とう手段だろう。それにお前もコンサルの端くれならしっかりと数字を見てから物を言えよ」

上村はそう言って資料を軽く叩いた。俺は再び資料に目をやった。
事業譲渡先を見ると大手介護グループの名前があった。
テレビCMなどでもよく見かける名前で全国展開しているほどの大きなグループだった。
大手に経営を任せれば安心とでも言いたいのだろうか。
必ずしも大手だから大丈夫ということはない、そんなことはコンサルの端くれの俺でも知っていることだ。

そう上村に抗議しようとした瞬間、俺の目に売却価格が飛び込んだ。その金額に俺は目を疑った。その価格は俺の想像を遥かに上回っていた。桁を間違えていないかと思わず数えて確認する。
狼狽える俺を見て上村が満足げな表情で手塚社長に言った。

「いかがですか手塚社長。ここまでの好条件はそうそうないと思います。もし前向きに検討してくださるのなら、すぐにでも先方との面談をセッティングいたしますが」

自信たっぷりに言う上村に俺は何も言えなかった。
希望の家はここ数カ月で少しずつだが利用者数は増えてきている。しかしいまだ赤字は解消されておらず、まだまだ利用者を獲得していかなければならない。
この先、利用者が獲得できるかは不透明であり何の保証もない。
それならばここで高値で事業譲渡するのは経営者として決して間違った判断ではなかった。

黙って資料を眺めていた手塚社長が俺を見つめるとおもむろに口を開いた。

「越野君はどう思う?」

俺は手塚社長の問いかけにすぐに応えることができなかった。何が正解なのか、どうするべきか分からなかった。
俺はもう一度資料に目をやった。売却価格の右下辺りに【売却条件】が書かれていることに気が付いた。

【現スタッフは全員引き継がない】
いくつかある条件の一つにこう記載されていた。おそらく大手介護グループには優秀な人材が豊富にいるのだろう。
大手には大手のやり方があり、逆に今のスタッフがいるとやりにくいこともあるだろう。

仮に事業譲渡した場合、今のスタッフはどうなるのだろうか。
山口さんは優秀だからきっと引く手あまただろう。
他の介護スタッフも人手不足の業界だ、すぐに次の職場は決まるような気がする。
高齢のスタッフはどうだろうか、やっぱり再就職は厳しいのかもしれない。

そして利用者たちはどう思うんだろうか。
皆さん、納得されるのだろうか。スタッフが変わっても介護を受けられるなら問題ないと思われるのかな。

そんなことを考えた瞬間、笑っている利用者の顔が頭の中にたくさん浮かんできた。
作品を完成させて喜ぶ人、将棋に勝って満足する人、ゲームではしゃぐ人、そして誕生日を祝ってもらい泣き笑いする人。
そんな利用者たちの隣りには必ずスタッフが一緒に笑っていた。

俺は決意は固まった。
利用者たちには今のスタッフじゃないとダメだ。”俺たち”じゃないとダメなんだ。俺は手塚社長に自分の気持ちを伝えた。

「僕は売るべきではないと思います。今いるスタッフ達は全員希望の家に必要だと思います」

俺の言葉を聞いた上村が信じられないとばかりに首を横に振った。

「はぁ、これだから花村一派はダメなんだ。情で経営はできないんだよ」

上村の言う事は最もだった。情だけでは経営はできない。
だが良い経営には必ず良い人材がいる。
希望の家の利用者達には今のスタッフが必要だ。
利用者達を笑顔にできるのは今のスタッフじゃないとダメだと思った。
俺は手元に持っていた資料を捨てて席から立ち上がる。そして手塚社長に頭を下げて頼んだ。

「希望の家の利用者さんたちは働いているスタッフたちのことが本当に大好きなんです。一緒に現場に入ってみてつくづくそう感じました。
事業譲渡をしたら会社として利益が確保できるのかもしれません。だけど利用者さんたちの笑顔は守ることはできないと思います。
お願いします手塚社長、必ず僕が…いや僕たちが希望の家を立て直します!
希望の家を売らないでください!お願いします!!」

俺はきっとコンサルタント失格だろう。ただそれでも良かった。
いつの間にか希望の家は俺の”希望”にもなっていたのだ。

向かいに座っていた上村が立ち上がり俺たちの方に歩いてくる。
そして俺と手塚社長の間に入り俺の肩を叩いて言った。

「お前は相変わらず甘ちゃんだな。精神論で経営が成り立つなら俺たちコンサルはいらないんだよ!ねぇ手塚社長」

手塚社長は表情を崩すことなく「希望の家は売りません」とだけ言った。
俺は手塚社長の言葉がすぐに理解できずにいた。上村は同じ調子で軽口を叩こうとした。

「ほら、聞こえたか越野!手塚社長は希望の家は売らないってさ。え?売らない?売らないだってー!!!」

上村はまるで金魚のように口をパクパクさせていた。
コンサルタント的には間違いなく飛びついてくる案件だと思っていたのだろう。実際に俺も手塚社長が事業譲渡という選択をしたとしても仕方ないと思っていた。

会社から売却を成立させるよう言われてきているのか、上村は手塚社長に考え直すように何度も訴えていた。だけど手塚社長の売らない姿勢は一貫して変わる事はなかった。
その毅然とした態度にどうやら上村も根負けしたようだった。
売却には一旦諦めた様子だったが、思い通りにいかず腹が立ったのか強がるように手塚社長に言った。

「手塚社長のお気持ちは分かりました。このお話は一旦持ち帰ります。しかし伊藤病院様の関連企業の社長としてそのご判断はいかがなものかと思います。このことは伊藤院長にキッチリご報告させていただきますからね!」

上村の言ったことは負け惜しみに聞こえるが、ただこんなに良い条件の事業譲渡を突っぱねたとなると伊藤病院から多少のお咎めはあるのかもしれないと思った。
伊藤病院の前担当として伊藤院長に謝罪に行くべきか、そんなことを考えていると手塚社長は臆することなく上村に言い放った。

「その必要はありません。”弟”には私から言っておきます」

俺の聞き間違いではなければ手塚社長は今確かに弟と言った。
手塚社長の弟?誰が?伊藤病院の院長先生?伊藤院長が!?

「お、おとうとー!?」「お、おとうとー!?」

俺と上村の声がシンクロする。初めて息が合ったかもしれない。
憎き上村とそんな日が来るとは思ってもみなかったが、それも仕方がないと思えるくらいの衝撃だった。

どうやら手塚社長は伊藤病院で看護部長をされていたようだった。
伊藤院長とは本当の姉弟きょうだいで、定年して株式会社すまいるの社長に就任するまでずっと一緒に働いていたそうだ。
ちなみに手塚は旦那さんの名字らしい。

手塚社長は俺の方を向いてウインクして見せた。俺はいろんな事があり過ぎて思考回路がショート寸前だった。上村も何も言えずただ目を白黒させている。
そんな上村に手塚社長ははっきりとした態度で言った。

「上村さん、あなた方のやり方は少し強引過ぎると思います。確かにお金は大切ですがもっと働いているスタッフやお客様に目を向けるべきよ。弟にも、伊藤院長にもそう進言しておきます」

上村は必死で謝っていたが、手塚社長の態度は変わる事はなかった。
結局、上村はうなだれるように落ち込んで帰っていった。
杉本部長から大目玉を喰らうのは目に見えていた。


上村が帰って社長室で二人きりになると先ほどの喧騒がウソのように静寂が俺たちを包んだ。
俺はゆっくりと頭の中を整理していた。上村が事業譲渡を提案してきたこと、手塚社長が伊藤院長の姉だったこと、一気にいろんな出来事が起こったがとにかく1番大事な事は希望の家が売却されないってことだ。
俺は改めて手塚社長にお礼を言った。手塚社長は「とんでもない!」と逆に俺にお礼を言われた。

「今日はありがとう。上村さんから『提案がある』と言われた時、あなたにも話を聞いて欲しかったの。現場のスタッフたちと一緒に汗を流しているあなたの意見を聞きてみたかった。現場に行って良かったようね」

手塚社長にそう言われて俺は数カ月前の自分を思い出していた。
スタッフのことは全く考えず自分の考えだけを押し付けていた。
今日の上村と全く同じことをしていた。現場が反発するのも無理はなかった。
山口さんがいなければ俺も考えを改めることはできなかったかもしれない。
俺は心の中で山口さんに感謝をした。


手塚社長は穏やかな表情で俺を見ながら優しく語り始めた。

「花村さんの言う通り、あなたに頼んで正解だったわ」

不意に花村部長の名前を耳にした俺は驚いて手塚社長を見つめた。手塚社長は俺を気にすることなく話を続けた。

「少し昔の話を聞いてもらって良いかしら?
10年前にうちの伊藤病院は経営難に陥っていたの。それを助けてくれたのが花村さんだった」

手塚社長の口から10年前の出来事が語られるのを俺はジッと聞いていた。

■■■

10年前伊藤院長が病院を引き継いだ時、病院の経営状態はガタガタだった。
患者数は落ち込み、人件費や材料費などはずさんに管理されていた。
このままでは病院を潰すしかない、そう思っていた伊藤院長の元に現れたのが花村部長だった。

たまたま営業に来たのか、それとも内情を知った上で来たのかは定かではないが、伊藤院長たちは藁をもすがる思いで花村部長に助けを求めた。

「任せてください。一緒に笑いましょう」

事情を全て聞いた上で、花村部長は笑顔でそう答えた。
その表情があまりに自信たっぷりで伊藤院長や手塚社長は心の底から安心されたそうだ。

その日から伊藤病院の改革が始まった。

花村部長は毎日病院内を駆け回りたくさんの現場スタッフの声を聞いた。そしてその声を院長たち経営陣に漏らすことなく伝えた。
また院長たち経営陣の思いを出来るだけ速やかに現場スタッフたちに伝えた。そうやって双方の軋轢を無くしたそうだ。

院長の思いが現場スタッフに伝わり始めた頃、ようやく本格的に改善に着手をし始めた。
信頼関係が出来上がっているからか、非常にスムーズに改善は進み半年後には黒字に転じることができたそうだ。

伊藤病院と花村部長の付き合いはそこからずっと続いた。
担当が俺に変わっても花村部長は伊藤院長の元を度々訪れていた。
しかし派閥争いに花村部長が負けてしまい、この付き合い終わりが告げられた。花村部長は会社を去る前に伊藤病院を訪ねてこんなお願いをしたそうだ。

「越野をよろしくお願いします。アイツなら伊藤病院さんのために精一杯頑張るはずですから」

伊藤院長にそう頼んで去っていったらしい。自分のことよりも俺のことを気遣ってくれるところが花村部長らしいと思った。
花村部長が俺に辞めるなと言った意味が分かった気がした。
伊藤病院となら俺がこれまで通りの仕事ができると花村部長は考えたのだろう。
ただ俺は伊藤病院の担当を外されてしまった。まさか杉本部長がそこまでするとは花村部長も想定外だったのかもしれない。

担当を外された俺を花村部長はとても心配していたみたいだ。俺に直接連絡したら俺が無理して頑張ってしまうと思ったみたいで、わざわざ伊藤病院にお願いをして俺を雇って欲しいと頼んでくれたようだった。
西村さんからの見計らったかのような連絡はそういうカラクリだったのだ。
花村部長らしいなと思った。

花村部長は元気にしているのだろうか?今は何をやっているのだろうか?
俺は手塚社長に花村部長の近況を尋ねた。
手塚社長の話では新たに医療機関専門のコンサルティング会社を立ち上げ元気にや頑張っているとのことだった。
もうすぐ本稼働するようで、伊藤病院は近く花村部長の会社に乗り換えるらしい。

俺は安心するのと同時に花村部長に対する感謝の気持ちが湧いてきた。
知らず知らずのうちに俺は花村部長に助けられていた。
やはりこの人には敵わない、そう思って花村部長の笑った顔を思い出した。

手塚社長から花村部長に会うかと聞かれたが、今はやめておいた。会うならちゃんと希望の家を立て直した後だろう。そうじゃないときっと叱られると思うから。


俺は社長室を後にして希望の家へと戻った。
すぐに俺の元に山口さんが駆け寄った。

「社長の話って何でした?」

山口さんに何から説明すれば良いか迷った俺は「とりあえず最高だった」とだけ伝えた。俺の意味不明な返答に山口さんはポカンと口を開けたまま鳩が豆鉄砲を食ったような顔していた。

■■■

⑨すまいる

社長室でのあの騒動から数カ月が経とうとしていた。
俺は既に現場を離れて主にマネジメント業務をやっていた。
現場でスタッフと一緒に汗を流すことは少なくなった俺だったが、それでも出来るだけ現場には顔を出すと決めていた。

この日も俺はある大切な用のために希望の家を訪れていた。
どんな予定があろうがこの日だけは絶対に希望の家に行くと前々から俺は決めていた。

この日は井上さんの105歳の誕生日会だった。
俺の人生を変えたあの出来事から1年の月日が流れていた。
希望の家ではあの日と同じようにフロアには綺麗な飾りつけがされていた。
井上さんも同じように垂れ幕の前でジッと座っていた。
司会を務めるスタッフがマイク片手に奥からやってきて大きな声で話し始めた。

「それでは皆様!井上さんの105歳のお誕生日会を始めます!」

フロア中に拍手の音が響き渡る。俺も精一杯の拍手を贈った。
利用者の手作りの作品をプレゼントしたり、みんなで歌を唄ったりとあの日ような幸せな時間が辺りを包んでいた。

俺はフロアの1番後ろからその光景を眺めていた。
1年前は何も感じてなかった俺が、今は目の前の利用者の誕生日会に感傷的になっている。人生とは本当に面白いと思う。
ふと気が付くと俺の隣に山口さんが立っていた。
山口さんは誕生日会の様子を見つめたまま俺に尋ねてきた。

「あれから1年ですね。どうですか?長かったですか?あっという間でしたか?」

山口さんに聞かれて改めてこの1年を振り返る。
あっという間だった気がするが、長かったのかもしれない。
正直どちらかは分からない、けれど楽しかったことだけは間違いない。
俺は山口さんにそう伝えた。山口さんは何も言わず穏やかな表情で誕生日会を見つめたままだった。

前月、希望の家は数年ぶりに黒字を計上した。つまり利益が出たのである。
まだたったひと月だけ結果が出たに過ぎない。それでもこの結果をみんなで喜んだ。
絶対に俺1人では成し遂げられなかった。スタッフたちには本当に感謝をしている。

特に山口さんがいなければここまでこれなかっただろう。山口さんには返しきれないほどの恩を受けた。
俺は山口さんの方に向き直すと深々と頭を下げた。

「ここまでこれたのは山口さんのおかげです。山口さんがいてくれて本当に良かった。ありがとうございました」

そう言って顔を上げると山口さんは困惑した表情を浮かべて少し照れながら俺に言った。

「え、やだ。愛の告白?勘弁してくださいよ。私には旦那も子供もいるんですから」

突然山口さんにそんなことを言われて、俺は慌てて否定する。

「はぁ?なな何言ってるんですか!全然違いますよ!やめてくださいよ!」
「分かってますよ。冗談ですよ」

山口さんと俺は一緒になって笑った。
ひとしきり笑い合った後、山口さんは真面目な顔で俺に言った。

「越野さん、1年前私に言ったこと覚えていますか?」
「え?なんだろ?いろいろ言ってるからどれのことですかね?」
「”一緒に笑いましょう”って言ってくれましたよね。覚えていますか」

俺はハッキリと覚えていた。
希望の家の応接室でバカみたいに大きな声で山口さんに叫んだあの日。
希望の家を絶対に立て直して一緒に笑い合うんだ、俺は本気でそう思っていた。
俺が覚えていると答える前に山口さんが続けて言う。

「一緒に…一緒に笑えましたね!」

山口さんはそう言ってまた笑った。
その眩しい笑顔を見た時、涙が込み上げてくるのが分かった。

「あれ〜?もしかして泣いてます?」

ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んでくる山口さんを必死で止める。
それでもしつこく食い下がってきた山口さんだったが「あ、そう言えば」と何かを思い出したようで、覗き込むのを止めた。

「聞きましたよ。おめでとうございます。介護事業部の統括責任者に就任されたそうで」

きっと手塚社長から聞いたのだろう。来月から俺は介護事業部の統括責任者を任されることになった。
希望の家だけではなく来年度にオープン予定の入居施設の管理も任されることになった。
山口さんは「良い事思いついちゃった」と言って急に悪い顔になった。

「良い機会だから今みんなに発表しちゃいましょうよ!おーい!!ちょっと重大発表がありまーす!」

山口さんは大きな声で司会のスタッフに声を掛ける。その声にみんなの視線がこちらに集まった。
俺は急に無理だとか何も準備していないからとか適当に言い訳をつけて山口さんを止めようとした。でもそんなごまかしは当然の如く山口さんには全く通用しなかった。

「もうそんなのいいから。ほら統括責任者さん、バシっと決めてこーい!」

山口さんは俺の背中をバンバンと叩いて、俺を前へと押し出した。
それと同時に周囲から拍手が巻き起こった。
俺は照れながら拍手の渦の中、利用者の隙間を抜けていき井上さんの隣り立った。司会のスタッフから「お願いします」とマイクを手渡される。
俺はみんなの顔を眺めながら口を開いた。

「こんにちは、越野です。皆さんのおかげちょっとだけ偉くなれました!」

そう言って俺はみんなにピースサインを見せる。
そんな俺を見てスタッフも利用者も、みんな笑っていた。

■■■


おしまい


#創作大賞2023
#コぐるみコラボ
#着ぐるみちゃん本当にありがとう

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