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【創作】すまいる~中編~


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④希望の家

希望の家は市内の中央部辺りに位置していた。
比較的人口が多く高齢者の人数も多い地域であることから立地は悪くないと言えた。

手塚社長から事前に希望の家の責任者の方へ俺が行くことを連絡してもらっていた。
午前中は入浴やリハビリなどで忙しく、来るなら午後にして欲しいと聞いていた。
だが、俺はあえて午前中に希望の家を訪ねることにした。忙しい時間帯をこの目で見ておきたかったのだ。

希望の家の玄関に入ると受付には誰もいなかった。フロアを見ると3,4人のスタッフがせかせかと忙しそうに動いていた。

「おはようございます。本社から来た越野です」

そう声をかけるが聞こえていないのか振り向くスタッフは誰もいなかった。
仕方なく俺は近くにいたスタッフに責任者を呼んで欲しいと声をかけた。
知らない顔の俺に呼び止められスタッフは怪訝そうな顔を向けたが、俺に少し待つよう言うと奥の方に歩いて行った。

一人残された俺はぐるりとフロアを見回した。
スタッフに支えられながらフロアをゆっくり歩く人、一生懸命何かを作っている人、コーヒーを飲みながら新聞を読む人、いろんな人がフロア内に混在していた。

「あのう、お手洗いは空いていますか」

ふいにある利用者から声をかけられた。
どうやらトイレに行きたいようで空いているかを俺に確認された。
「すみません、僕は分かりません」と利用者に伝えるが、俺の声が聞こえていないのか、もう一度俺に「お手洗い空いてますか?」と聞いてこられる。

この方は耳が遠いのかもしれないと思った俺は先程より大きな声でゆっくりと一語一語丁寧に伝えた。

「ご め ん な さ い。ぼ く は ト イ レ の ば しょ を し り ま せ ん」

すると突然その利用者が怒りだした。
「変なしゃべり方で私をバカにして!」そう言って俺に詰め寄ってきた。
慌てて謝る俺と怒る利用者の間にスタッフらしき小柄の女性が割って入ってくる。

「野田さん、ごめんなさいね。この方今日初めてここにきたんです」

利用者の耳元でそう話すと先ほどまでの怒りが嘘のように落ち着かれる。
そして利用者の顔を真っすぐに見て「トイレ、空いてるよ」と少し大きな声で伝えた。
利用者は満足そうに頷くとお手洗いの方へ歩いていった。
小柄の女性は俺の方を振り向くと鋭い目つきでジロリと俺を見た。

「責任者の山口です。お約束は午後からと伺っていましたが」

山口さんは約束が違うことに納得いかない様子で少し語尾に熱がこもっていた。
自分の意見をはっきり言う姿から気の強さが伺い知れる。
俺はこれまでこういう人たちとたくさん関わってきた。その扱いには慣れているつもりだった。

「本社の越野です。お約束と違い午前中に伺って申し訳ありません。出来れば先に施設を見ておきたくて。大丈夫です。お忙しいと思いますので私一人で勝手に見学いたします。お手を煩わせることはありませんのでよろしいでしょうか」

こういう時はまず謝罪をする、そしてこちらの要件をしっかりと伝える。
下手に言い訳やごまかす方が不信感を持たれてしまう。
真摯に対応すれば相手の態度も軟化してくれるだろう。それに俺一人だけで見学する分には業務に支障をきたすことなくきっと問題はないはずだ。

「よろしくありません」

てっきり山口さんからは「いいですよ」という返事があると思っていた俺は「へ?よろしくない?」と素っ頓狂な声を出してしまった。

「見知らぬ方が施設内をウロウロされては利用者が混乱します。午前中は全ての利用者さんの入浴とリハビリがあり対応できないとお伝えしたはずです。午後から出直してください」

山口さんはそれだけ言うとふいと踵を返してまた奥の方に戻っていった。
この時の俺はきっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔していたに違いない。

■■■

一旦本社に戻った俺はデイサービス責任者の山口さんの経歴を確認していた。
年齢は俺よりも少し上で専門学校を卒業してからこの会社に入社したようで社歴はもう10年以上経っている。
入社以来ずっと希望の家で働いており、今年度から新たに責任者になったみたいだった。

山口さんより年上のスタッフは何人かいるがそれでも彼女が責任者に任命されているのはそれだけ彼女が優秀なのだと思う。
午前中の俺への態度からきっと利用者のことを第一に考えて仕事をしているのだろう。
利用者を守るためには本社の人間だろうが容赦はしないと言ったところか。

実はそういう方ほど信用できる人が多い。
自分のことよりもお客様を優先できる人はやっぱり好感が持てる。
希望の家をより良くしたいのは俺も山口さんも同じなはずだ。
まずはきちんと山口さんと話をしよう、そう思いながら俺は再び希望の家へ足を運んだ。

希望の家に行くと受付には既に山口さんが待っていた。
俺に気が付くと玄関の扉を開けて俺を招き入れる。

「先程は失礼しました。ではまず施設内をご案内いたします」

悪いのは約束を破った俺の方だったが、午前中のことをぶり返したくないのだろう。余計なことはせずさっさと要件を済ませたい様子が分かった。
スタスタと歩いていく山口さんの後に俺も続いた。


「こちらがお風呂場です。大浴場は階段を下って入るタイプですからまたぎが不安定な方でも安心して入れます。機械浴は座浴ざよく寝浴しんよくの2種類あります。寝たきりの方でも入浴は可能です」

山口さんの説明は端的で非常に分かりやすかった。
こちらの質問にも的確に応えてくれた。この施設の事を熟知しており分からないことはないのだと思う。やはりこの人はとても優秀だ。
他のスタッフは山口さんの隣りで歩く俺を疑いの目で見ていた。
本社の人間が何しに来たんだ、そんな風に思っていたのかもしれない。

山口さんからひとしきり説明を受けた後、俺たちは応接室の椅子向かい合わせで座った。山口さんは施設見学の感想を俺に聞くこともなく、単刀直入に疑問をぶつけてきた。

「ここを潰すんですか?」

これだけ優秀な人だ。きっと希望の家の苦しい事情を理解しているのだろう。そして俺がここに派遣された意味も自分なりに解釈しているのだと思う。
俺は首を横に振り「いいえ」と答える。
俺の言葉を信じたかは分からないが、山口さんの目は先ほどより柔らかくなった気がした。

「手塚社長からは希望の家を立て直して欲しいと言われています。僕はそのために来ました」
「立て直せるんですか?」

そう俺に聞く山口さんの目は少し潤んでいるように見えた。
希望の家を立て直すことは現実的にはとても厳しいと思う。
少なくとも俺一人では絶対に無理だ。働いているスタッフの意識が変わらないことには実現は不可能だろう。

俺は正直にそう山口さんに伝えた。この人には嘘やごまかしは通用しないと思った。
俺の話を聞くと山口さんは何かを考えるように目を閉じた。
束の間の時が流れる。
山口さんはゆっくりと瞼を開けて話始めた。

「私は学校を卒業してこちらに入社しました。なんにも出来なくて周りに迷惑ばっかりかけていた私をみんながここまで育ててくれました。
一緒に働くスタッフや優しい利用者さんたち、私は希望の家が大好きなんです。お願いします!どうか希望の家を助けてください!そのためなら私は、私たちは何だってします!」

山口さんの目から大粒の涙がこぼれた。「すみません」と言って山口さんはすぐに涙を拭った。
山口さんの話を聞きながら、俺は花村部長と仕事をしていた頃を思い出していた。
コンサルを受ける企業は現状に問題を抱えている場合が多い。たくさんのお客様から「助けてください」と言われた。
その度に花村部長は「任せてください。一緒に笑いましょう!」と応えていた。俺はそんな花村部長が1番好きだった。彼のようになりたいと何度も思った。

「山口さん」

山口さんが真っ赤な目で俺を見つめる。俺は真っすぐに山口さんの目を見つめてはっきりと応えた。

「任せてください!みんなで一緒に笑いましょう!!」

決して広くない応接室に俺の声が響き渡った。
部屋の外にいる人たちにも漏れ聞こえ、何事かとざわついている。
自分の声が想像以上に響いて慌てふためく俺を、山口さんがフフフッと笑った。

■■■

⑤衝突

俺は数日の間、何度も希望の家を訪ねた。スタッフの動きや利用者さんの様子などを確認するためだ。
もちろん全てを把握できたわけではなかったが、それでもおおよその問題点は見えてきた。

希望の家はあらゆる面で効率がとても悪いように見えた
古いタイプのシステムを使っており、介護記録などは一旦手書きで書いたあといちいちパソコンに入力していた。
しかも施設内にパソコンが1台しかなく、わざわざ順番待ってデータを入力している状態だった。

しかし、これは新しいシステムや設備を導入することで大幅に改善できると考えていた。
タブレットを使って手書きの作業を無くすことで余計な仕事が減るはずで、そうすれば余った時間を利用者のケアに向けることができる。

また営業活動をほとんどしていないことも問題だった。
当たり前だが待っているだけで利用者が来てくれる施設と言うのは相当魅力がある限られたところだけだ。
残念ながら今の希望の家にその魅力があるとは思えなかった。
新たな利用者獲得のためにやはり地道な営業活動が必要だと思っていた。

これまでの経験から俺は経営改善に近道はないと思っていた。
地味で地道な事を一つ一つ着実に実行することで少しずつ改善に向かうのだ。
魔法のようにある日突然改善されることなんて絶対にない。
経営はそんなに甘いものではない。

そのことをスタッフ全員に知ってもらう必要があった。
そして全員で協力して改善に取り組んでいかないと希望の家を立て直すことは不可能だと思っていた。

俺は山口さんにスタッフを集めて説明会を開きたいと相談した。
山口さんはてっきり賛成してくれると思っていたが意外にも乗り気ではなかった。
忙しい現場に時間を取らせることに躊躇しているのかもしれない。

現場が忙しいことは俺も百も承知だった。当日は時間を取らせないように要点をまとめて出来るだけ簡潔に話をするつもりだった。
ただ、それでも山口さんは「うーん…」と首を傾げた。

こういうことはズルズルと先延ばししても仕方がない。
俺は今一つ納得していない山口さんを強引に説得し、スタッフへの説明会をセッティングしてもらった。
山口さんは最後まで渋い顔をしていた。

■■■

「…つまりこのシステムを使用することで、これまで皆さんが行っていた作業がかなり短縮できます。短縮できた時間を利用者さんへのケアの時間をより充実させたり、これまで残業してやっていた事務作業の時間に充てることが可能になります!」

俺は声のボリュームを上げながらスタッフたちを見まわした。
誰からも反応はなくみんな俺が渡した資料をジッと見ている。
俺は気にせず続けた。

「また今後は営業活動にも力を入れたいと思います。待っていても利用者は増えません。持ち回りで営業をしましょう!みんなで力を合わせて希望の家を改善しましょう!!」

俺が説明を終えても誰も口を開かず閑静とした時間が流れた。
沈黙に耐えられなくなった俺はスタッフに意見を求めた。

「何か質問とかはありませんか?何でも良いです。皆さんの思っていることを教えてください!」

俺はスタッフ一人ひとりの顔を見つめた。ある年配の男性スタッフと目が合った。そのスタッフはめんどくさそうに右手を挙げた。
俺が「どうぞ」と話すように促すと、送迎運転手をやっているという年配のスタッフが話し始めた。

「俺は難しい事は分からないけどさ、やれ効率だ、無駄な作業だって言ってるけど、俺たちにとっては新しい事を覚える方が効率悪いと思うよ。
何だっけ?タブレット?そんなもんよりも慣れたやり方の方がよっぽど効率が良いよ」

そのスタッフが話し終えるとうんうんと頷くスタッフも何人かいた。
何かを変える時には必ずこういった「今までのやり方が1番」という意見がある。新しい事を覚えるのには苦痛が伴う。これまでのやり方が長ければ長いほどその大変さは大きくなる。その気持ちはとてもよく分かる。
だけど、これまでのやり方で結果が出ていない以上変えていくしかなかった。

俺は再びスタッフたちにこれまでのやり方を変えていかないと希望の家が潰れてしまうかもしれないと話した。先ほどよりも強く訴えた。
スタッフたちにこのままでダメだということを分かってもらいたかった。
最前列で俺の話を聞いていた山口さんが浮かない表情をしているのが気になった。

俺の訴えを聞いてある女性スタッフが「あのう」と言って手を挙げた。
俺の想いが通じたのかと期待したが女性スタッフの話は全く違っていた。

「私も今のままの方が良いと思います。これまで何度もシステム変更の話は出ていて何回か試したこともありましたが全て上手くいきませんでした。これまで通りのやり方が1番うちに合っていると思います」

女性スタッフの隣にいた男性スタッフも同意見だと言った。
それに続くように周りのスタッフも少しずつ同調し始めた。

俺は焦った。このままでは元の木阿弥になってしまう。
なぜみんなは分からないんだろうか。今のままでは希望の家は確実に潰れてしまうのに。あなたたちは希望の家が潰れても平気なのか!そんな言葉が口から出かかった。しかしそれを言ってしまうと余計にこじれるのは分かっていた。

「皆さん聞いてください!このまま運営を続けていくのは非常に厳しい状況なんです。だからとりあえずシステムからでも変えていきませんか?もちろん僕も手伝いますから!」

もはや説得というより懇願に近かった。
何でも良いから現状を変えたかった。一歩だけでも先に進みたかった。
だが現場スタッフたちはそんな俺に甘くはなかった。
先ほどの年配の男性スタッフが俺に向かって叫んだ。

「現場をろくに知らないヤツが何言ってんだ!」

あまりに稚拙な意見に俺は思わず男性スタッフを睨んだ。
しかし、周りのスタッフたちもそれに応えるように俺を非難した。

「いきなり出てきて勝手な事を言わないでください!」
「あなたに現場の何が分かるんですか!」
「結局お金儲けしたいだけなんじゃないの」

俺はただこの希望の家を良くしようとしているだけなのに、あなたたちを守るために必死になっているのに、”おまえら”は何でそれが分からないんだ!
俺は湧き出てくる怒りを抑えることが出来なかった。

「う、うるさい!!だから今のままだとここが潰れてしまうんだよ!何でそれが分からないんだ!!」

俺は叫んだと同時にしまった!と思いすぐに口を噤んだ。しかしもう後の祭りだった。
次々と俺には罵声が浴びせられた。もう現場は収拾がつく状況ではなく説明会どころではなかった。
俺は助けを求めるように山口さんを見る。山口さんは俺と目を合わせることなく黙って俯いていた。

■■■

結局あの後スタッフたちは怒って帰ってしまった。希望の家には俺と山口さんだけが残った。
がっくりとうなだれている俺に山口さんが缶コーヒーをくれる。
俺は缶コーヒーを開ける気力もなく、山口さんに呟いた。

「山口さん、なんでなにも言ってくれなかったんですか」

もちろん悪いのは全部俺だという事は理解してた。ただ、どうにもならないこのむしゃくしゃした気持ちを誰かに伝えたかった。

「あそこで私が越野さんの味方をしちゃうと、私もみんなと対立することになります。そうなるとこれから誰が越野さんと現場を繋ぐんですか」

山口さんは俺に怒るわけでもなく至極冷静にそう答えた。
ああ、この人はやっぱり優秀なんだと改めて思った。無様に失敗した自分と比べてしまい、ますます惨めになる。
さらに落ち込む俺を山口さんは「まぁまぁ」と慰めてくれる。
俺とは対象に山口さんに落ち込んでいる様子は全くなかった。

「山口さん、なんか普通ですね」
「はい、だってもともと成功するとは思っていませんでしたから」

俺は山口さんの言葉に耳を疑った。
もともと成功すると思っていないのなら説明会を開催する意味はない。
動揺する俺をよそに山口さんは平然としている。

「ええ。だって越野さん現場のこと何も知らないでしょ。そんな人に何を言われてもスタッフには響かないですよ」

説明会で年配の男性スタッフに言われた言葉を山口さんも口にした。
俺は心の傷がさらに開いた気がした。
分かっていたなら止めてくださいよと山口さんに抗議する。
「だって越野さんやるって聞かないから」と山口さんから笑われた。俺はそれ以上何も言えなかった。

俺は現場を知らない事がそんなに悪い事だとは思えなかった。
現場を知らなくても改善に向けて正しい事を言っているのなら耳を傾けても良いような気がした。
そう山口さんに伝えると、彼女は少し考え込んで「じゃあ…」と俺に問いかけてきた。

「越野さんが説明会で”持ち回りで営業をしましょう”と言ってましたが、一件一件外回りするよりもインターネットに掲載した方がより多くの人の目について効率がよくないですか?」

山口さんからいきなり営業に関する質問をされ戸惑いながらも俺はその問いかけに答えた。
インターネットは確かに多くの人の目につくかもしれないが、ほとんどの場合は心に残らない。しかし直接会って話をすることでより強く相手の印象に残ることがある。結果的に足を使って営業をした方が利用者獲得には効率が良いと言える。
山口さんは営業経験がないから分からないんだろう。そう得意げに言う俺に山口さんは笑って言った。

「ほら、越野さんだって”営業を知らない人”の意見には聞く耳持たないじゃないですか」

俺はそう言われてハッとした。山口さんの言う通りだった。
自分達の仕事を知らない人からの言葉なんて全く響かない。俺は自分の思いばかり先走って現場スタッフの気持ちなんて全然考えていなかった。
もうこれ以上落としきれないくらい落ちた俺の肩を山口さんが叩いた。

「大丈夫です。ここまで落ちたら後は這い上がるだけですよ。それよりも一つ提案があるんです。越野さんにやって欲しいことがあるんですよ」

山口さんはそう言うとニンマリと笑った。
俺はまるでいたずらっ子のような山口さんの表情に不安を覚えていた。

■■■

⑥幸せな日

俺は山口さんからの提案にまだ答えを出せずにいた。
それが希望の家やスタッフを守るための最善の策とはどうしても思えなかった。
山口さんの提案は「一緒に現場で働きましょう」ということだった。
現場スタッフと一緒に汗を流すことで現場の仕事が理解でき、スタッフ達とコミュニケーションも取れて一石二鳥だと言っていた。

現場を知らないヤツの言葉は響かないのなら現場を知るヤツになれば良い、それはすごく正論でごもっともな意見だった。だけど、俺はその考え方に否定的だった。

俺はコンサルタント時代から経営陣は経営陣、現場は現場という考え方だった。
本社サイドの人間は現場スタッフと一緒に汗を流すのが仕事ではなく、他にやるべきことがあると思っていた。

例えば金策だったり、例えば採用だったりと現場スタッフができないことを本社サイドがやるべきだと思っていた。
逆に現場はお客様に対してサービスを提供するのが仕事だと思っていた。
餅は餅屋という考えで俺はこれまでコンサルの仕事をしていた。

ここで俺が現場に入り現場に染まってしまうことで、希望の家が抱える本質的な課題を見失ってしまうのではないかと恐れていた。
そもそも先日あれだけ揉めた現場スタッフと一緒に良い仕事が出来るとは思えなかった。
あの人たちはきっと俺と一緒に仕事をするのは嫌だろうし、俺も正直嫌だった。

かと言って他に案があるわけでもなかった。
結局答えを出せないまま数日が過ぎた時だった。山口さんから一通のメールが届いた。

【明日14時から希望の家で利用者さんの誕生日会を行います。気晴らしに良かったら来ませんか?】

山口さんの気遣いが本当にありがたかった。きっとくすぶっている俺を少しでも元気づけるために誘ってくれたんだろう。
このまま本社でウジウジ悩んでいても仕方ない、俺は誕生日会に行くことにした。

■■■

約束の時間に希望の家に行くと既に誕生日会の準備は整っていた。
折り紙で作った輪っかやお花をフロアのところどころに飾りつけていてとても華やかだった。
正面には垂れ幕が貼ってあり【井上さん、104歳のお誕生日おめでとうございます!!】とデカデカと書かれていた。

垂れ幕の前には一人の男性利用者が腰かけていた。
おそらくこの方が今日の主役の井上さんだろう。
黙ったままジッと一点を見つめている。
井上さんの前を囲むように他の利用者達やスタッフが座っていた。

「104歳おめでとうございます」か、それは本当にめでたいのだろうか。
井上さんはここまで生きることを果たして望んでいるのだろうか。
そんなことを考えていると奥の方からマイクを持った山口さんがやってきた。そして元気よくみんなに語りかけた。

「皆様、お待たせしました!それでは井上さんの記念すべき”104歳”の誕生日会を始めさせていただきます!」

山口さんの宣言と共に会場から大きな拍手が巻き起こる。
また奥から別のスタッフが紙で作られた花束を持ってやってくる。
「こちらは利用者さんと一緒に作りました」と笑顔で井上さんに話しかける。井上さんは花束を受け取ると表情を崩さないまま軽く会釈をした。

その後はみんなで誕生日の歌を唄ったりスタッフが手紙を読んだりと誕生日会は進んでいった。
会も終盤に差し掛かり、司会の山口さんが再びマイクを持った。

「皆様、ここで本日の主役である井上さんからひと言いただきたいと思います。井上さんお願いします」

山口さんがそう言うと井上さんはよいしょと立ち上がった。山口さんは自分の持っていたマイクを井上さんに渡した。
104歳の方が一体どんな話をするか俺は興味深く見ていた。そもそも嬉しいや楽しいといった感情があるのだろうか、なんて失礼なことを思っていた。

辺りが静まり返る。この場にいる全員が井上さんに注目していた。
井上さんはふうと一息つくと、ゆっくりとでもはっきりと話し始めた。

「本日はどうもありがとうございます。今日という日が今まで生きてきた中で1番幸せな日です」

1番幸せな日、井上さんは確かにそう言った。
104年生きてきて1番幸せな日だと。

井上さんはマイクを持ったまま涙を流していた。
そして「ありがとうございました」と言って笑顔で頭を下げられた。
その場にいたスタッフはみんな泣いていた。他の利用者もみんな涙していた。山口さんも目頭を拭っている。

ふと気づくと俺は涙を流していた。

何に対して泣いているのか自分でも分からなかったが、溢れる涙を止めることができなかった。

「あー!本社の人が泣いてる!」

俺が泣いていることに気付いたスタッフに指を指される。他のスタッフや利用者が興味本位で俺を見る。俺は慌てて涙を拭うがなかなか涙は止まってくれない。見かねた山口さんがフォローに入ってくれる。

「さすが井上さんです!私たちだけではなく本社の方も泣かしてしまうとは。皆さん、もう一度井上さんに拍手を!」

再び会場に大きな拍手が巻き起こる。
井上さんはにこやかな表情で会釈をしている。
俺は力いっぱい拍手をしながらある事を思い出していた。

【お客様を笑顔にすることを第一に考えよう】

そうだ、そうだった。
俺はお客様を笑顔にするために仕事をしているのだった。
目先のことに拘り過ぎて本質を見誤っていたのは俺の方だった。

井上さんたち利用者の笑顔を守りたい。スタッフたちの笑顔を守りたい。
希望の家を絶対に潰すわけにはいかない。この時、俺はある決心を固めていた。


希望の家を後にした俺は本社の総務に電話をかけていた。
希望の家のユニフォームの在庫を問い合わせていた。

■■■

続く

後編はコチラ

#創作大賞2023
#コぐるみコラボ
#着ぐるみちゃん本当にありがとう

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