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価値観は違えど、理解しようとしてくれることがうれしかった


私はずっと同級生との人間関係が上手くいかないタイプの人間で、たまに心がしんどくなって突発的に休んだりしたことはあるけど、不登校になったことはなかった。

根が真面目だったからとか、授業に付いていけなくなるのが嫌だったからとか、そういう要素ももちろんあるんだけど、歴代の担任の多くが私に共感的に接してくれていたからだと思う。

基本的に、私は学校の先生が好きだった。「同級生なんて子どもだし、話してもつまらない」なんて子どもじみたプライドが邪魔して同級生と上手く行かないから、話し相手になってくれる大人が好きだった。

小学4年生のときの女性の担任とはあんまりそりが合わなくて、生意気ざかりというのもあって定期的にバトってたんだけど、(「静かにしないと出て行ってもらうよ!」にマジで出ていったタイプのクソガキだった)基本的にはそれ以外の担任との関係は良好だったと思う。

小学3年生のときの担任だった30代くらいの男性教員は、どんどん児童の良さを引き出してくれるような人で、授業が全部面白くて、勉強への意欲が湧き出てくるようだった。なんかポイント制みたいなものがあって(いまとなっては賛否は分かれるかもしれないが)、自分から手を挙げてよく発表していたのを覚えている。この先生、今は教頭をやってるみたい。

小学5・6年生のときの担任は40代くらいの男性教員で、4年生で教師に対して失望してすさんでいた私をすぐに改心させてくれた。おかげで教師への反抗期は1年で終わってしまった。綺麗にまとめたノートや、気合の入った作文をよく褒めてくれた。休み時間に一人で本ばかり読んでいることをほめてくれた。私が今、仕事で文章を書くことに携われているのも、この先生のおかげかもしれない。この先生は、2年前くらいに校長先生としてどこかの学校で名前が載っていた(今は定年かも)。

中学2・3年生の時の担任は、「心の学力が大事なんだ」なんていうのが口癖の、学校祭のライブでサザンの全力パフォーマンスを披露するような熱血系おじさんだった。技術科担当で、いっつもつなぎを着て校内を練り歩いていた。1年生の時に「苦手なタイプだなあ、担任にならないといいなあ」と思ってたんだけど、蓋を開けてみれば中二病メンヘラの私にも共感的に接してくれて、ひそかに慕っていた。

私が中学で人間関係が上手くいかなくて、校区外の高校を受けるときには、定員の関係で受験が不利にならないよう尽力してくれた。(当時は校区外は数10%の枠でしか入れなかったのだが、その校区がある祖母の家に引っ越すということで校区内扱いにしてもらえた。ちなみに実際祖母の家から通っていたので、制度上問題はない)。受験前には技術科教員としての腕をふるって、全クラスメイトの名前入りの鉛筆をつくってプレゼントしてくれた。

ちなみにこの先生、3年ほど前に取材で行った学校の教頭になっていた。そこの校長先生に用があって訪問したんだけど、玄関までお迎えに来てくれたのがその先生で。気づいたのが会社に戻ってからだったのが悔やまれる。

実は、不登校ではなく授業を真面目に受けていた代わりに、学校行事だけは休みまくる生徒だった私。中・高の修学旅行と卒業式も欠席するという、担任泣かせの所業を繰り返していた。中学の卒業式を出ない代わりに後日、校長室に呼び出されて個別に卒業証書を授与されたんだけど、そのとき担任がさみしそうな顔をしていたのを覚えている。きっと、クラス全員そろって卒業式を迎えたかったんだろうな。今さら謝っても仕方ないから、まあいいんだけど。

高校1年生のときの担任は50代男性で、愛想もなくすごい偏屈なんだけど、振り返ってみるとナンバーワンで大好きな先生になっていた。バレンタインチョコ渡すくらい好きだった。

個人面談で私が「人と上手くいかなくて…」と相談したとき「俺にはそうは見えないけどな」とポツリと言われたことが、なんだか嬉しかったのが一番最初の記憶。ちょっと文章にすると突っぱねられてるように感じるかもしれないけど、「ああ、私ちゃんと普通に見えるんだ」って安心したんだよね。

クラスに向けて「俺は基本的にお前らのこと嫌いだから」って宣言するくせに、球技大会でクラスがいいところまで行った時には「まあ、お前らはよくやってたと思う」なんていうツンデレぶりもたまらなかった。

こんな感じで、意外と共感的に接してくれたり、いろんな好きポイントがあったんだけど、一番印象に残ってるのは、夏休みに書いた読書体験記で賞をとったとき。

当時のことを思い出して学生時代に書いたブログには、こんな文章が残っている。

私が作文で賞を取ったとき、賞状とか盾とかをこっそり担任がくれたんだけど、その時の言葉が「クラスの前で渡すように言われたんだけど、お前はそういうの嫌いだろうと思って」って感じのもので、なんか、なんか嬉しかったんだよね。わかってくれてるなあって。
でもそれを渡すように言った図書の先生は、それを報告すると「嫌だと思っても皆の前で渡すことに意味があるのにー」って担任を軽く責めてて。確かにその考えもあるなと思ったし、やっぱり嬉しかったんだよね。
考え方は正反対だったけど、でもどっちも、私のことを考えてくれてたんだよなあ。

私はいわゆる「陰キャ」だったけど、確かに一人の人間として接してくれていたことが嬉しかった。

この担任は、私のキャラクターを理解した上で、「賞状をこっそり渡す」という選択をしてくれて、

逆に部活の顧問として私のことを見てくれていた図書の先生も、私のために「あえて皆の前で表彰されて自信をつけさせる」っていう選択をとろうとしていて。

全く逆の価値観なんだけど、どっちも私という人間を理解し、私のためになるような道を考えてくれたんだなあ、と受け取ることができた。

まあ、二人ともそんなに深い考えで言った言葉ではないんだと思うけど…。少なくとも私の歪んだ心にも深く刺さるくらい、印象に残った出来事だったんだ。

このあと2・3年生で結局また人間関係が上手く行かなくて、修学旅行・卒業式を欠席するわけだけど、まあ何とか30歳を超えるまで、ここまで生きてくることができた。

それどころか、今は辞めてしまったけど、数年間、教職に就くまでに真人間になった。修学旅行と卒業式をしれっと欠席する私がだよ。それは間違いなく、ここに書いた、またそれ以外にかかわってくれたほかの先生方の影響だろう。

でも。

私は私のような日の当たらない生徒を救い上げられるような教師になりたくて教職に就いたけど、自身の救済を動機としていた時点で上手く行くはずがなかったな、と思う。

それに子供のころの教室の中と同様に、職員室でもまた、多様性は歓迎されていなかった。チーム学校と言われるけど、求められるのは画一で、目立たないながら心に何か抱えた生徒を相手にするような時間は許されていなかった。

やんちゃで手を焼く生徒か、不登校にまで落ち込む生徒か、とにかく問題を起こす生徒には何かしらの手を打つけど、とりあえず真面目に学校に来ている生徒を誰も構いはしない。生徒は平等っていうけど、いわゆるモブに、感情移入する人はいない。一人ひとりに丁寧に接することができない上に、学校を取り仕切る先生の価値観を押し付けられるのがもどかしかった。

いつかnoteで、教員だったころの話や辞めたときの思いなんかもまとめたいな。

私の思いは遂げられなかったけど、少なくとも私の子どものころには確かにそういう先生がいて、そういう先生に救われていたことは覚えていたい。

#忘れられない先生 #学校 #教育


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