後輩たちの希望の星? 俺が?

筋ジストロフィーを患い、車椅子で生活をしている私は、現在県内の大学へ通っている大学生だ。介助が必要な障害者を受け入れた例は私が初めてで、新聞やテレビでも何度か取り上げられたことがある。

その新聞やテレビを見た支援学校の後輩の親や障害児の親は口を揃えて私のことを「希望の星」と言ってくる。

この言葉を聞いて、嬉しさはある反面、「自分はそんなに大それた人じゃないのに…」と勝手に辛くなる時がある。この「希望の星」という言葉は自分に使うにはもったいない言葉のようにいつも感じているからだと思う。

確かに、県内の大学に初めて介助が必要な学生が入ったことは大きな進展で、そういった意味では私は道を切り開いたパイオニアだと言えるだろう。

しかし、振り返るとそれは私の力で切り開いた訳では無い。どちらかと言えば切り開いてもらったという言い方のほうが正しいのかもしれない。

支援学校での恩師と呼べる先生との出会いや進学に向けての手厚い協力体制、大学側の手厚い受け入れ準備など、周りの人の協力のおかげで大学に通うことが出来ているだけだ。

まさに人が敷いたレールに乗っているだけで、私が血のにじむような努力をした訳では無いのだ。

このことは、私と私に関わった1部の人にしか分からない事実で、これを知らない人は私が声を上げたり、努力をしたりした結果が大学進学に繋がったと思っているだろう。しかし、上に述べたように実際そんなことはない。

「希望の星」という言葉と、1部の人しか知らない「本当の私の姿」とのギャップにいつも苦しめられている。これが私が感じる「希望の星」という言葉への違和感の正体なのだろう。

本当は私は希望の星と言われて素直に喜びたいし、実際に障害を持つ後輩達にとってそのような存在でありたいとは常々思っている。

しかし、外見ばかりを取り繕って、それに中身が伴っていない今の私では本当の意味での「希望の星」にはなれない。

何をすれば希望の星となれるのか、明確な答えはない。まずは、目の前のことに全力を注ぎ、決して見栄を張らず、等身大で生きていくことから始めていきたいと思う。

希望の星という言葉を受け入れられる時まで…







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