これまでがんばったこと

子どもが好きだから学校の先生になりたいなと思った。子どもと鬼ごっこしたら楽しいからね。だからなんとなーく教育大学に入って、社会科教育専攻だったから社会学や現代政治学、歴史学などを勉強した。たくさん本を読んだ。たくさん新聞も読んだ。たくさん勉強した。大学時代は中学校の社会科の先生になるつもりだったんだ。


けど…。

実際に最初赴任した学校は僻地も僻地。いや、ド僻地。冬はマイナス30度を超える、全校生徒7人の小中学校だった。ちなみに中学生は一人だけ。 その学校で働いた時の一番印象的なことは子供達との思い出ではない。同僚との思い出でもない。

でっかいカメムシがどこからともなく降ってきたことだ。

朝一番の仕事は体育館掃除から始まる。カメムシを掃除機で吸う仕事だ。1日1回じゃ足りない。3回くらい体育館を掃除機で掃除する。毎回新しいでっかいカメムシが出てくる。掃除機が臭い。 カメムシの数は多いけど、中学生は一人の学校だ。僕はもちろん小学生と関わる機会がすごく多かった。その時思った。小学校の先生の方がぼく向いてるかもなって。

次の年。小樽で特別支援学級情緒学級担任になった。試験勉強と同時並行。そんな甘くなかった。僕の受け持った子供は6年生の男の子。あー、とか、うーとかしか言わない。ときどきンフッ!って笑って、泣いたり、笑ったり、怒ったりする子どもだった。トイレの流れる水が怖い子どもだった。 その子とのコミュニケーションも授業も全然上手くできなかった。他の先生が僕を手助けしてくれた。ありがたかったし、尊敬したし、嫉妬もした。上手くできなくても仕方ないって自分が思えるくらい毎日毎日、準備した。朝4時に起きて教材を作る。午後11時になるまで教材を作る。他の先生が30分でできる授業準備を僕は3時間かけて準備した。でもつらくなかった。その子の笑う顔を想像しながら、その子が昨日よりもおとといよりも少しでも興味を持ってくれる授業ができたらと考えると、つらくなかった。でも眠気には勝てないから、学年集会とか職員会議で寝てたら、他の先生に「おい」って言われた。ごめんなさい。 それでもその子どもがパニックに陥った時の対処とかあんまりうまくできなかった。けど、できないから考えた。自分もできることが増えた。 卒業式の日。泣いた。めちゃくちゃ泣いた。相変わらず最後まで癖の強いコミュニケーションをとる僕の生徒だったけど、ちなみに癖の強さでは実は僕も彼に負けてない。ちなみにその年、めっちゃくちゃ可愛い彼女ができた。札幌に。だから札幌の小学校教員採用試験を受け直すことを決めた。「俺その子と結婚しよう!」

次の年。自分に自信があった。不安の強い生徒の担任だったが、たくさんアイデアを考えて学校が楽しくなる工夫をいっぱいした。生徒とハロウィンのダンスの動画をQRコードにして全校生徒に見てもらうとか、お祭りとかいろんなことした。

特別支援学級の担任を2年間した後、通常学級担任として札幌に行った。 札幌の先生になった時も僕は相変わらずだった。1時間の授業を作るために2時間とかかけていた。当たり前だけど、体も追いつかなかったし、仕事も追いつかなかった。やらなきゃいけない仕事ができない。寝る時間がない。仕事でもミスをする。慌てる。授業がうまくいかない。汗かく。慌てる。子供が喧嘩する。慌てる。授業が止まる。子供が大泣きする。 10月くらいに教頭先生に言われた。あなたの学級は学級崩壊です。 いじめがおこった。授業中僕の声は届かなかった。なんか頑張れなくなってきた。朝も夜も辛くなった。 頑張れない自分がまた嫌いになった。でも頑張ると辛かった。面白いアイデアとかそんなこと考えてる場合じゃない。なんとかしないと。なんとかしないと。 放課後は毎日電話した。ごめんなさい。僕の力不足です。でもなんとかしますって言った。でもなんとかなんてできなかった。 授業の準備をもっと効率的にできるようになりたかった。けど、そんなことはできず、明日の授業のための準備に日々追われる。学校行事や、採点業務が後回しになり、管理が行き届かなくなる。 たくさんの先生に協力をお願いし、一人で捌ききれないと思った時は、職員室に行くことができるようになった。 やってもやっても業務は終わらない。頑張れば報われる、努力することそのものに意味がある。そんなのうそ。そんな甘い世界ではなかった。結果が求められる。努力は当たり前。どのようにして要領を掴めるか、それが僕にはできなかった。

でも、周りの先生が助けてくれるようになった。教科担任制になり、僕が持つ教科はごく少数。社会科も算数も管理職の先生が来てくれたり、隣のクラスの先生が来て教えてくれたりするようになった。 幸か不幸かわからないけど、僕は眠たくなったらどんなに眠ってはいけない状況でも、眠りたくない状況でも眠ってしまう。学年打ち合わせも職員会議も寝てしまうのだ。そしてついていけなくなる。ついていけなくなるのはまずい。だから録音をして家に帰って繰り返し聞くようにする。当たり前だが24時間じゃ足りない。 ストレスフルな日々の中で、3月で退職することを決めた。自信がなくなった。この先教員を続けることに自信がなくなったし、何よりやりたいと思わなくなった。

そして転職を考えている頃。ワーキングホリデーを知った。 『頑張れば報われる。』 そんな世界にもう一度戻ってみたかった。英語学習はやれば上がる。たしかに人と比べて習熟が早い遅いはあるけど、必ずやれば伸びる。不器用な自分でも。だから僕は英語学習に打ち込むようになった。オーストラリアに留学するという目的も持って。 オーストラリアで生活することは簡単なことではなかった。でも、誰に迷惑をかけることもない。できなかったからと言って、いじめが起こることでもないし、別に大したことは起こらない。だからちょっとでもやりたいなと思うことはどんどんやった。オーストラリアの学校にも言った。ジャパニーズフェスティバルを開いて、外国人と文化交流のイベントも開いた。家庭教師を始めて、いろんな人と繋がった。学校職員の言語療法士の方と一緒に仕事をした。

たくさんの出会いと挑戦をする中で、ぼくは行動力を磨いた。僕自身と向き合うこともできた。

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