どうしたら自信がつくのか、自己肯定感が育まれるのか。

どうしたら自信がつくのか、自己肯定感が育まれるのか 巷では自信をつけさせるために褒めるだの、失敗させないだの、スモールステップで達成感を積み上げるだのなんだのという。間違ってはいないと私は思う。しかし、褒められたら自信がつく。そんな単純な話ではない。

例えば、私自信を例に挙げても私は自信もなければ自己肯定感も高くない。むしろ低い。 しかし「なんかできるぞ」と思うタイミングもあれば、「俺なんてどうせ」と思うタイミングもある。1日、1年と生きていたら誰にだってそういうものはタイミングなんじゃないかと思う。

ただ自信があるように見える人は何をやってもうまくいくようにもみえる。反対に自信のないように見える人は何をやっても失敗しがちにも見える。

自信とは自分を信じること。どんな困難や佳境に立たされても、なんらかの根拠や根拠すらない根拠を持って自分を信じて挑戦したり、あきらめない努力ができる者もいる。

自分を信じることができる根拠は他人から褒められることで与えられるものだろうか。違う。他人に褒められようが褒められなかろうが、自信のない奴は自信がないし、自信のある奴は自信がある。その違いはなんなのか。


例えばある企業の中で業績を上げ、昇進していくサラリーマン。彼が独立して起業しようとする時に、周りからの評価は高いはずなのに企業となると自信がなくなってしまう。これはどうしてか。彼がこれまで業績を上げることができたのは、ある種この企業の中で守られてきたから今の地位があるかもしれない。全責任を負って、リスクを背負って、起業すると途端に自信がなくなってしまう。


似たような例はたくさんあるようにも思う。ある起業の中で他者からの評価を受け成功したとしても、その評価は企業に守られてきたからこその成功であって、実際に個人で社会の中に飛び出せば、自信とはなんであったのか。

すなわち、自信とは、いかに自分自身でリスクを覚悟で挑戦し、自分自身の力で成し遂げることができたかだと思う。

ただなかには自分自身が成し遂げたことの価値に気付かず、自信がない者もいるように思う。

自信などなかったのに、人に言われてみると自分自身のインボルブメントに気づき、実は自身が挑戦を続け、成功体験をすでに得ていることに気づかされることがある。いわば他者からの言語化によって気づかされることもある。

実際に不安になり、自信を失っている彼の認識が、他者が言語化することによって認識を変えることはあるのではないだろうか。

褒める。成功させる。こうした言葉ばかりが一人歩きして、褒めて育てろだのなんだのと言われることが多い昨今。しかし、当たり前のことをやって褒められたって嬉しくもないし、むしろその希薄なコミュニケーションにがっかりすることすらある。 自信のないものに対してに対して他者ができることは、他者から見ている世界と本人から見ている世界のずれを言語化し、本人の認識に歪みがあるときに新たな角度からその事実に対する「言語化」をしてあげることだと私は思う。

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