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言葉を使っているのか使われているのか

 インターネットを使った広告収益という稼ぎ方が大衆にこれだけ浸透したのは、いつ頃からの話だろうか。個人的な体感としては、2011年のあの震災以降な気がしている。(震災と関連があるのかないのかはわからないが、あくまで体感だ)

 決して自分は懐古主義者ではないと言いたいが、これから話す内容には否応なくノスタルジーが混じるのは避けられないかもしれない。だが「昔はよかった」などという論調へ持っていくつもりは毛頭ない。ただこれは、単純に、現在のWebに記事を書く大衆への個人的な恨み節であり挑発であり罵倒であり、個人的な自らに対する戒めなので、そういう論調を目にしたくない者はさっさとこのブログから退出し、せいぜい「銭を稼ぐために魂を売る方法」などとググられるがよろしい。ではさっそく始める。

 Web向けの記事を書いた経験がある人ならいまや知らない者はいないだろうが、ネットに書かれる文章には読まれるための最低限のルールというものが存在する。たとえばそのひとつに、ある記事についてなにかを書こうと思えば、それにまつわる単語なり、単語の組み合わせなりを、あらかじめリサーチし、よく検索されているキーワードを活用する、というものがある。それの何に目くじらを立てる必要がある?と疑問に思わない者は一昨日きやがれ。

 もっと話を具体化してみよう。つまりこれの何が問題であるかというと、例えば、「生きにくさ」について思ったことを記事に起こそう、となって「生きにくさ」という単語を使った記事を書いたとする。そしていざ、Webに記事をアップしようというところで、はたとひとつの問題に行き当たる。

「閲覧者数など気にしない」という書き手であれば、これはノープロブレムではあるのだが、「広告収入」「バズりたい」という浅ましい考えを持っている書き手であれば、ここで大事な「忖度」が必要になる。

 それはつまりこういうことだ。最初に思いついた単語、自分の中から生まれてきた単語が「生きにくさ」であったとしても、ネットでよく検索されている単語が「生きづらさ」であれば、己の中から生まれてきた言葉、思念を捻じ曲げなければ、検索にヒットしづらくなる、というジレンマに悩まされることになる。これがいわゆるネット用語でいうところの「SEO対策」の一環であり、「言葉を蔑ろにして銭を稼ぐ」という、いかにも心の貧しさを体現した哀れな愚民どものやりそうなことである。

 そもそも「よく検索されている単語」というのは、あくまでブラウザ上、インターネット上での、もっと言うと、「テキストデータの集積」の話であって、その言葉を辿ったからといって、あなた自身が真剣に欲している情報、取り入れたい考え方には出会えない可能性のほうがむしろ大きいのだ。(そもそも論として、ググって悩みを解決しようとすること自体が誤りといえば誤りなのだが)

「単語の意味を知りたい」「今日の月齢が知りたい」程度のことであれば、検索エンジンというのは大いに役立つし、よく調べられている言葉を使って調べたほうが、自己の欲する情報へ、最短距離でたどり着けるだろう。だが、それが「真剣な悩み事」であればどうだろうか。もし、多くの人が調べたところにその対策なり解決策なりが掲載されているのであれば、この世にはとっくにその悩みを抱えている人などいなくなっているはずである。

 人間の悩みとは、そんな、検索エンジンで調べて解決できるような悩み事であろうか。あるはずがない。

 たまにこんな経験はないだろうか。「〇〇ってクズやなあ」と思い、そういった文脈の情報を探ろうとしても、「〇〇がクズってほんとう?」などといった、「クズ」というキーワードを盛り込むためだけに第三者的視点から付けられた、何を主張したいのか判然としない、中立を装った腹の立つタイトルのクズ記事を。で、お前の結論はなんやねん、と。何が言いたいねん、と。そう思われるのは無理もない。なぜならそこに、主張などないのだから。あるのは己の尊厳と魂を売り払った、乞食根性だけである。とくに否定的なキーワードに関して、この傾向が散見されるように思う。「否定の打ち消し」。こちとら、否定のままを探しとんのじゃぼけえ。

 先日、大型書店に赴いてたまたま文章を書く棚を眺める機会があったのだが、そこでは「バズる文章」なるキーワードが幅を利かせていた。

 「バズる」とはつまり、SNSなどを介して、瞬時に大勢の人間の耳目を集めることであり、(良くも悪くも)人気者になれるということである。

 この体験にはさぞ、ドーパミンとアドレナリンの大量分泌が伴うのであろう。鳴りやまない通知、自身の与り知らぬところでの評価、悪評。それでも注目されるという快感に比べれば、一瞬の快楽は頂点に達するのであろう。広告を付けた記事であれば、なおさらチャリンチャリンと銭の貯まっていく音に正気を保っていられなくなるかもしれない。バズりドラッガーの誕生である。おめでとう。

 言葉まで金に換算しようなどと流行らせたのは、一体誰なのか。言葉や語彙の貧しさは、そのまま社会全体の、ようするに私たち一人一人の暮らしの貧しさの現われなのではないか、と訝ってしまう。

 あらゆる御託を並べて、「『バズる』ことを目指すのは悪いことではない」「いい面だってある」「むしろいい面のほうが多い」などと転倒した意見を述べる輩がいるが、笑止。

 私がこれまで述べてきたような「バズる」に対する後ろ向きな意見は、「バズる」を信奉するドラッガーに抹殺される傾向にあるが、あらかじめ「バズる」ことは悪くない、と釘をさすあたり、心のどこかで後ろめたさを感じていることの証左ではないか。

 迎合するのは簡単だ。努力という名の、ただ流行に身を任せた言動を「選んで」いけばいいのだから。

 言葉を蔑ろにする者は、歳を取って気付いたときにはもう遅い。自分の中で自分が感じている言葉を発する、いや、感じ取る力さえ弱まって、掬い取ることができなくなっている。

かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。(by 『風の歌を聴け』村上春樹)

 そう遠くない未来に待っているのは、そういう言葉の貧困に喘ぐ者たちの呻き声だ。もちろん、その呻き声さえ、誰の耳にも届きはしない。言葉を発する力さえ持ち合わせておらず、当の彼ら自身でさえ、その蟠る感情がなんなのか、認識することができないのだから。

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