【小説】孝行者
磨き上げられた上品な木目の上で、金の天秤が鈍い光を返す。
蒼い血管の浮いた手が白銅の硬貨をつまみ、落とす。左の皿に、一枚。
硬い椅子の上で畏まる希望者の善行、一つ分。
次は青銅の硬貨を、右の皿に、一枚。
悪行、一つ分。
天秤の両手に硬貨が積み上がる。左にわずか傾いて。
硬貨を仕分け終えた男は天秤の目盛を読み、仕立ての良いジャケットの背を伸ばした。
告げるのは裁定。希望者に相応しい金額。
希望者は地に伏さんばかりに頭を下げて、受け取った札束を胸に抱える。
男は有り余る財を持っていた。
個人ではとても使い切れないその財を、彼は人に与えようと考えた。
最初に彼は川岸の葦原を訪れた。車窓から見た段ボールハウスにぴかぴかの革靴で踏み入り、「いくら欲しい?」と訊いた。
身なりの良い闖入者に怒ったり怯えたりしていた住人は、やけを起こして「一億ありゃあ悠々自適だろうな」と言い放った。
男は「そうか」と札束を百個置いて行った。
住人は乾いた口をあんぐり開けて、夢のような豪邸とだって交換できる紙の山を見ていた。
噂はすぐに広まって、彼の財産を管理する事務所には長蛇の列ができた。人々は我先に彼の施しを求めた。
幼児を抱えた片親は、今日のおかずを買う金を。
金の指輪のにやけた夫婦は、旅行のための飛行機代を。
男は各人が望むだけの額を惜しみなく与えた。
それぞれの理由、それぞれの必要を尊重した。
ありがとうと言われるだけで幸せだった。
毎日毎日与え続け、ついに財にも底が見えだした。
男は考えた。求められるままに与えることはもうできない。ならば公正に分配しなければ。
彼は事務所の真ん中に天秤を据えた。
財を求める者は、書類に名前と連絡先を書かされて追い返された。今日のパンを求める者さえも。
彼は人を使って援助希望者の過去を暴いた。そしてこれまでの行いを天秤にかけた。
善行は左に、悪行は右に。
天秤の傾きが彼の与える金額を決めた。
悪人は一銭も受け取ることができなくなった。
単純な損得勘定が街の人々の行動を変えた。
善いことをすれば金銭的援助を受けられる。
悪いことをすれば援助額が減る。
壁の落書きは消え、路上のゴミは減り、道行く人々は手助けを必要としている人がいないかと目を光らせた。
善人は豊かに、悪人は貧しくなった。
彼に気に入られれば豊かに、嫌われれば貧しくなった。
彼は親を大切にする人だった。
放っておいても膨れ上がる財産を遺してくれた父祖に感謝していた。
天秤に置かれる硬貨の重さが親子関係に左右されるのは自然だった。
親孝行は左に。
親不孝は右に。
ある日、三人家族が事務所にやって来た。
人当たりの良い父親。
不幸そうに潤んだ瞳の母親。
血の気のない顔でぼんやりと斜め上を見つめる幼い娘。
妻の病を治す金が要ると父親が言う。
健気な娘は母親の治療のために輸血用の血を提供している、と。
痛ましいことだねと言って男は彼等を帰らせる。入れ替わりに入ってきた希望者は背を丸めて俯いている。
幼い娘の献身は街で評判になっていた。
病を押して貧血の娘を看病する母親のことも。
母親の病名は調べがつかなかった。かかりつけの個人病院には良い噂がなかった。
調査結果を報告したが、よほど難しい病気なのだろうと男は気にも留めなかった。
裁定を受けに来たのは両親だけだった。
娘は黒い四角の中で恥ずかしそうに笑っていた。
重度の貧血による心不全。
容体の悪化した母のため、血液型の合う自分が血をあげるのだと周囲の制止を振り切り、輸血の翌日に突然逝ったのだと母親は涙を零した。
娘の死を無駄にしないために何としても病を治さなければならないと父親は力説した。
男は目頭を押さえて尊い親子愛に賛辞を贈り、硬貨を鷲掴みにして天秤の皿にばらばらと落とした。
天秤の針は左に振り切れた。
子を亡くした親による申請が増えた。
素性を調べると彼等には共通点があった。
大病治癒の奇跡を研究する会という名目の宗教団体。男が多額の財産を差し出したあの娘の両親が起こしたそれに、どの親も入れ込んでいた。
男は首を傾げたが、困っているのならばと資金援助は惜しまなかった。
それは突然のことだった。
いつものように銀行へ行くと、男の口座の残高が全てゼロになっていた。
彼の父の仕業だった。
男の亡き祖父は死にたくないと言いながら惨めに死んでいった、この金を蘇生の研究に充てる、それこそ究極の親孝行だと男の父は言った。
彼にも資金を差し出すという親孝行の機会を与えているのだと。
彼はその論理に納得した。
彼が街に広めてきた道徳の敷衍に過ぎなかった。
男は無一文になった。
辛うじて住む場所は残してもらえたが、彼は金の稼ぎ方など知らなかった。それまで知る必要がなかった。
突然の解雇に使用人達は悪態を吐きながら去って行った。
彼はしばらく街を彷徨っていたようだ。
金を出す人間がいなくなっても、彼が撒いた善悪観は街に根付いていた。
彼が辿り着いたのは例の宗教団体だった。
彼の父親もそこにいた。
広い講堂で正座する参列者に、血を抜かれて殺された娘の遺灰がひと匙ずつ配られる。
援助金の一部を受け取って協力した医師が演説している。
命を投げ出して親に尽くした娘の愛が奇跡を起こし、母の病は完治した。
素晴らしい孝行。
尽くし尽くされる模範的な社会。
――ありきたりな言葉。
――彼が望んだ世界。
祀られた娘の母親が参列者の列を縫って進む。――最初から病気などなかったことは、看護師の一人が白状した。
「お前も座って、聖灰を受けなさい。少しはあやかれるように」
男が私の腕を引く。
骨壺を抱えた母親が目の前に来ている。
私は壺をひったくり、自分の頭の上にひっくり返した。
真っ白な灰と砕かれた骨が、髪や服の隙間から肌を覆い、宙に踊って星屑のようにきらめいた。
「満足ですか、お父さん」
男に宛てた私の言葉は、星の間の真空に虚しく溶けた。
男は怒りも忘れて両手に灰を掻き集めていた。
(了)
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