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【小説】案山子 最終話

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▼第1話


 ホウコはずっと書写をしていた。月が出てからも机に覆いかぶさるようにして続けた。

 皆が寝静まり、小鳥の攻撃が止んだ夜明け前の静かな時、足を引きずり、身体を揺らしながらホウコはぼくのところにやって来た。

「オオアカさん、いますか?」

 巣のところに声を掛けると、オオアカさんが細長い鼻を出す。

「オオアカさん、どうかわたくしを齧ってください。愛の花の根を傷付けないように、わたくしの肉を裂いて蔓を外してください。わたくしには愛の花のゆりかごとなる資格がないのです」

 オオアカさんは小さな口から歯を剝き出した。

「嫌だね。そんなことしたら天使に殺されちまう。別にいいじゃないか、殴られても追い出されてもいないんだから。償いとやらをしてればいい」

 ホウコは目を見開いたままオオアカさんを凝視する。

「わたくしは僕を信じられないのです。今日一日、叫び出して何もかも滅茶苦茶にしてしまいそうになったことが何度あったか分かりません。僕は異常なんです。わたくしが死んでも愛の花だけは救わなければなりません。だから」

「平気さ。いつも通りに暮らしてりゃそのうち忘れる。そんなもんさ」

 オオアカさんはキイキイ言いながら僕の腿の巣に帰って行った。

 ホウコは顔を上げてぼくを見た。

「カカシさん、お願い……」

 ぼくは両手に持っていた鏡を床に叩き付けた。ガシャンと大きな音がして鏡が砕け、住人達が何事かと飛び起きる。

 三角形の破片を手に取り、ホウコに向ける。そして背中の蔓を掴んで引き上げ、切り裂いた。

「やめて――どうして!」

 ホウコが金切り声を上げる。

 周りの人々が喚く。

「カカシだ」

「愛の花に選ばれなかった子が」

「どうして急に」

「役目なんて与えず追い出しておけば」

 勝手に言わせてどんどん切る。やがて愛の花の塊がホウコの身体から外れ、どさりと床に落ちる。ホウコは呆然と立ち尽くす。

「叶えてやった。お前の本当の望みを」

 僕の言葉に、ホウコは子供のようにきょとんとして首を傾げる。

「取り押さえろ」

「いや、追い出してしまえ」

「裏切者」

「ホウコを守れ」

「天使様、天使様は……」

 天使は来ない。月光に映し出された怪物の姿を人々に見られたくないからだ。

 いつの間にか戻って来たオオアカさんがホウコを見上げて叫ぶ。

「お前さんだけならまだ戻れる。残って天使に誠心誠意謝罪しろ。でなきゃこの世で一番惨めで汚らわしい冒涜者として死ぬことになるぞ」

 ホウコは視線を彷徨わせ、薄く微笑んで「そっか」と言う。浮いた血管のように全身に這う根だけが残った身体に、新しい緑が芽吹く。葉が開く。赤ん坊の手の平のような葉が。

 ホウコの全身から細い蔓が伸び、逃げようとしたオオアカさんを捕らえる。丸々と太ったオオアカさんは易々と捕まる。

「やっと分かった。僕、本当は嫌だったんだね。上辺だけ善良な天使どもも、天使に媚びるだけのみんなも、みんなの嫌な気持ちを食ってここに縛り付けるオオアカさんも」

 オオアカさんは蔓に絡まって無様にもがく。

「オイラはそいつらのために食ってやっただけだ。苦しいのは誰だって避けたいだろう。お前さん達はずっとここにいるのがお似合いで一番幸せ――」

 蔓が太り、オオアカさんを締め上げる。ミシミシと音がして、オオアカさんの甲高い声が途絶える。

「嫌い。全部嫌い。何もかも嫌い。一番嫌いなのは、嫌いなのに好きな振りして、憎みながら喜んでた僕自身」

 静かだった。住人達は向こう側の隅に固まって身を寄せている。指を組んで祈りを捧げている者もいる。

 その中の一人が一歩踏み出し、床に落ちていたホウコの筆を投げた。父だった。

 別の一人はプランターの土をホウコに向かって投げつける。

 一人ずつ、手近にある物を投げる。徐々に大きい物が飛んでくるようになる。

「殺せ」

 誰かが叫んだ。

「殺せ」

「失せろ」

「薄情者」

「裏切者」

 いつも穏やかだった温室は、かつてないほどの騒ぎになる。人々の身体から雑草が伸びる。誰も気付いていない。誰も取り除かない。

「行こう」

 ぼくはホウコの手を取った。指先まで雑草の蔓が絡んでいた。

「どこに?」

 ホウコは焦点の定まらない目でぼくを見る。

「外に」

 ぼくは片手にホウコを、もう片方の手にホウコから取った愛の花の株を引きずり、いつもの片隅に向かった。背の高い植物の植木鉢の裏に扉がある。隠すというにはあまりに杜撰ずさんだ。

「どうしてこんなところに出口が……」

 ホウコは口を開けて錆びた扉を見ている。

「ずっとあった。誰も見ようとしなかった。誰も出ようとしなかった」

 力を込めて押すと扉は悲鳴のような軋みを上げて開く。隙間から見える紺碧の空。凸凹した大地を覆う草が小さな黄色の花を付けている。ぼくはいつも見ていた。ホウコにも見せてやりたかった。ずっと。

 偽りの愛の株を外に投げ捨てる。途端に群がった白い小鳥が蔓を千切り、葉を引き裂く。蕾は暴かれ、花弁が血のように乾いた土を彩った。

 ホウコの手を引いて外へ踏み出す。小鳥が寄ってくる。

「逃げ出せたのね」

「良かった」

「悪魔の手から」

「洗脳されて」

「可哀想に」

「可哀想」

 ぼくは手の甲で小鳥達を払い、「向こうに行け」と恫喝した。

 ぼく達の他は誰もいなくなった。小鳥は飛び去り、残って夢を見続けることを選んだ人間どもはもう追って来ない。

「不思議だね。僕達二人、全然違うと思ってたのに、同じ人間みたいだ。同じ葉っぱの裏と表なんだ」

 ホウコは歩き出す。ぼくも並んで歩く。硬く身をよろっていた古い蔓が崩れていく。ホウコの蔓も歩くたびぽろぽろと落ちる。

 優しい色の朝日が顔を出す。日の光の熱を直に感じる。

 繋いだ手を若い蔓が柔らかく包む。そうしてどこまでも歩いて行く。

(了)


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