校長トリセツふざけんな

臨時的任用教員という立場は、年度勤務の発令を受けて勤務をするものなれば、人間関係や同調圧力が無意味に発生するまえに異動が可能であることが利点となる、とは以前の記事にて記述した通りである。

しかるに、新たな年度となれば、新たな職場予定地に出向き、新たな管理職を選ぶことができるのがこの立場の強みでもある。
多くの現場で、私は「副校長」の無能さに呆れ返ることが多かったものであるが、今回は「校長」が幼稚過ぎて話にならないパターンに出会ったため、割と真面目に述懐を為す。

面接につき、そも、初対面に名乗らない人間が、教育現場の経営を任されている立場にあるというのが不快の発端である。
あたりまえながら職場を多く見てくれば、人間性を見た経験も増えるわけで、どうもこの管理職にある人間は、自分の責務についての弁えがないらしいと、面接時点で説教をするところであった。

この人物の開口は「コミュニケーションスキルはありますか」であるのだから、難癖はいくらでもつけられるところである。挨拶もまともにできない人間が、言語学をフィールドにする人間に何を質問しているのだろうか。自身のコミュニケーション能力がいかほどか弁えがないのだろうか。
続けて、この質問意図として「今まで臨時的任用の人たちが、精神的に弱ってすぐに辞めてしまってきたために」と添えた。

つまるところ、辞める人間がいるのは本人の弱さやコミュニケーションの不足が原因であり、自分の管理能力の責任ではない、との言い訳であるように私には思われた。

そしていざ面接を終えると、次のような文書を渡された。
それが、この記事のタイトル「校長のトリセツ」である。

つまるところ、こやつの管理の下に入ると、管理職のご機嫌取りをも業務とせよ、という馬鹿げた話になる。

もはや10年ほども前になるのか、西野カナの「トリセツ」という楽曲があるが、あれは「好きなあなただけにワガママを言えるワタシってカワイイでしょ?」という準メンヘラの、十代後半とかせいぜい二十代前半の女性がやるから共感があるのであって、六十歳前後のハゲかけた人間がやっても気持ち悪いだけだと思うのは私だけではないはずだ。

この文書そのものも、まあ、アホらしい独裁的な思想をビラにしてチンドン屋にバラ撒かせているような代物で、こいつは自分でトリセツで他者に要求することを、自分ではできない・やらない・気づかないのであろうことが垣間見えた。一番強烈なのは「◯◯な仕事を、私は一番嫌います」という文言であり、いみじくも全体の奉仕者かつ最低限教育公務員である身分の者が、仕事を好きか嫌いかで判断するのであれば、管理職ながら自己の管理すらできないことを自明したに過ぎぬものとも思う。すると、教育目標「自主自律」とはどのような意味をもっていて、果たして彼はどのように自分を律している状態であるのか、はなはだ旧態然の「仕事をさせてやるんだありがたく思え」という経営感覚の欠落をも感じとれる。

ただし、これには大きな利点がある、といえばある。

敵は校長一点であり、同僚や直接の上司となる主幹とは、共通の敵があることで結束ができるということだ。

臨時的任用の私には大いに関係がない。

公務員であり続ける、教育公務員であり続けるためには上司のパワハラにも目をつむりやすいのが学校職員たちのおおいなる足かせであり、重すぎるクビキでもある。

せいぜい1年間の使い捨て人材の私などには、別に来年は公務員でなかろうとも大した問題ではないわけで、すなわち、このトリセツによる利益は私には存在せず、ただただ紙と時間と読む労力の無駄であると言わざるを得ないものである。

転んでもタダで起き上がりたくないので、これをネタにして少々手荒い真似でもしてみようかと連載する。

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