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「訳詩」考 03

今はCDの時代もDVDの時代も過ぎ去り
ネット配信による高画質・高音質の
デジタルメディアが主流となっているが、
私が大学に入った40年前の頃は
やっとCDなるものが出回り始めた時期だった。

初めて聴いたCDは確か
カール・ベーム指揮の『第九』、
思った以上に音がキンキンと聴こえてきて、
あまり良い印象ではなかったと記憶している。

当時の私は友人から中古のレコードプレーヤーと
プリメインアンプを譲ってもらったばかりで、
暇を見つけては中古LPを買い漁りに都心に出ては
神田や馬場、池袋の中古レコード屋を巡ったものだった。

ある日、友人から
「ヴンダーリッヒというテノールはいいぞ。」
と紹介され、神田で1枚の中古LPを入手した。

それはグラモフォンから発売されていた
『奥様お手をどうぞ/フリッツ・ヴンダーリッヒ』
という廉価版LPで、
オペラ歌手によるポピュラーソング集という
まあ、よくあるパターンの一枚だったのだが、
B面の冒頭の曲を聴いた時は
心底ど肝を抜かれてしまった。

これが、私にとって
『グラナダ』という曲を聴いた最初であった。

※ ※ ※ ※ ※


この『グラナダ』という曲、
テノール歌手のポピュラーナンバーとして知られており、
特にドミンゴやカレーラスなど
スペイン系歌手にとっては十八番とも言えるものだが、
曲の生まれはスペインではない。

メキシコの作曲家アウグスティン・ララ
(Augstin Lala 1900-1969)が32歳の時に書いた作品で、
未だ見ぬグラナダの地に想いを馳せた内容となっている。

さて、今回ここに掲載すべく
色々と対訳を調べてみたのだが、
なかなか妥当なものが見つからぬ。

自分の好きな曲に関しては、
歌詞(原語歌詞)からくるイメージが
既に独自に出来上がってしまっているせいか、
自分の中の詩のイメージと、
レコード解説などに書かれている
歌詞対訳の文章からのイメージの差が、
違和感となってしまうのだろう。

例えば、曲の中の一節だが、
私の手許にあるCDリブレットには
以下のように書かれている。

Granada, tierra ensangrentada
en tardes de toros;


闘牛の昼さがりには
血に染まる土地、グラナダよ

(濱田滋郎訳/Grammophon
 『ドミンゴ・スーパー・ベスト』CDリブレットより)

この対訳は逐語訳として完成しており、
これでも十分に歌詞の意味を読み取ることはできる。

しかし、文字の配置、文章の構造が
日本語とスペイン語で異るため、
曲のフレーズやリズムが一致しないのだ。

文法上仕方のない事ではあるのだが、
対訳から曲のイメージ・原詩のポテンシャルを
素直に喚起できない大きな原因でもある。

歌詞を単語別に切り分け、
それぞれの意味を書き出してみると
以下の通りとなる。

「Granada,」    グラナダ
「tierra」       土地・大地
「ensangrentada」  血で汚す・いきり立つ
「en」       ~に
「tardes」      午後
「de」       ~の
「toros;」       闘牛

見てのとおり、先の対訳とは言葉の並びが
逆になっている事が判るだろう。

「グラナダよ、血に染まる土地、闘牛の昼下がりには」
とでも訳すべきなのだろうか?
しかしこのままでは、
おかしな日本語訳になってしまう。

だが、本来の歌であれば
「tardes de toros」に向かって
盛り上がりを見せているのに、
その部分の対訳を見ると
別の箇所の言葉が記されているのも、
ううむ、違和感を覚えずにはいられない。


ちなみに、私がコンサートで歌う際の
パンフレットに載せる訳詩を掲載してみる。

文法的に正しい訳ではないが、
なるべく曲の構造や雰囲気に合わせて
単語を繋いでみた。

「ああ、あいつはこういうイメージで歌っているのだな」
とでも思ってご笑読いただければ幸いである。

・・・・おっと、
極めて個人的な好みにより「文語調」です。

※ ※ ※ ※ ※


"GRANADA"  Augstin Lala

Granada, tierra soñada por mi,
mi cantar se vuelve gitano
cuando es para ti;
mi cantar hecho de fantasia,
mi cantar, fior de melancolia
que yo te vengo a dar.

Granada, tierra ensangrentada
en tardes de toros;
mujer que conserva el embrujo
de los ojos moros;
te sueño rebelde y gitana
cubierta de flores,
y beso tu boca de grana,
jugosa manzana
que me habla de amores,

Granada, manola cantada
en coplas preciosas;
no tengo otra cosa que darte
que un ramo de rosas,
de rosas de suave fragancia
que le dieran el marco
a la Virgen Morena.

¡Granada, tu tierra está llena
de lindas mujeres, de sangre y de sol!!


グラナダ  (訳詩:小迫良成)

グラナダ、夢に描く大地よ
汝に歌を歌わんとするとき
我は流浪の民の如くになる
いざ歌わん、夢幻織りなす歌を
いざ歌わん、憂愁なる花の歌を
それ汝に捧げん。

グラナダ、血のあふれる大地よ
灼熱の日差しと闘牛の舞う午後よ
ムーア人の瞳のごとく不思議を秘めたる女よ
夢に見るは異教の民、花に包まれた女よ
口づけせん、汝の深紅の唇に
林檎の果汁の滴るがごとく
溢るる愛を囁く唇に

グラナダ、小粋な娘よ
数多(あまた)の歌に謳われるものよ
我が捧ぐるは、只一束の薔薇の花のみ
されどその薔薇は柔らかく、芳しく、
褐色の聖母たる汝の額を飾るにふさわしきもの

グラナダ、汝満ち溢れたる大地よ
美女と、深紅の血と、そして太陽に!

 ※褐色の聖母※
 かつてカトリック両王が褐色の聖母像に礼拝した後、
 グラナダを攻略し「レコンキスタ」を完成させた事に由来

※ ※ ※ ※ ※


外国の曲を歌う歌手にとっては
避けては通られぬ道ではあるのだが、
この「詩の翻訳」という作業、
やってみると結構大変だったりする。

漫然と文章の意味を知るという事と、
言葉のニュアンスや韻、
その単語ひとつに込められた
作者のイメージまで考えながら
「文章を作り出す」という事の違いを、
改めて思い知らされる。

世に訳詩・訳詞というものは数あれど、
「名訳詩」「名訳詞」
と呼ばれるものが極めて少ないのも、
うなずける話ではある。

外山正一らの『新体詩抄』が
発表されてから7年後の明治22年、
雑誌『国民之友』の付録として
訳詩集『於母影』が発表された。

編集は森鴎外。

彼は詩集の目次において、
それぞれの詩の表題に
(意)(句)(韻)(調)という印をつけた。

言葉の意味・文章からくるイメージ・韻などの音感、
これらの要素を組み合わせ、
翻訳の手法を四種に分類したのだ。

構造の違う外国語の詩・・
それをどのように翻訳するのか、
何を強調し何を切り捨てるのか、
明治の文豪達も
さぞや頭を悩ませていたのだろう。

※ ※ ※ ※ ※


1997年の1月中旬、
私はグラナダの町を歩いていた。

長年憧れてきたアンダルシア地方だが、
1月のかの地はさすがに寒かった。

町に到着した時は雨、
アルハンブラ宮殿を見学している途中で
やっと雨が上がり
雲の切れ間から陽が差してくる。

濡れた宮殿の中庭は物憂く、どこからか
タルレガのギター曲『アルハンブラ宮殿の思い出』の
メロディが浮かんでくるような情景であった。

対するに、ララの曲のイメージは初夏、
6月に行われるグラナダの祭と、
その祭の最中に行われる闘牛だろうか・・・
あくまで鮮烈に、
土と花の匂いでむせ返るような情景が
この「グラナダ」という曲からは浮かんでくる。

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