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”悟りを開いた人”に俺はなる

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。

『ヨハネの福音書』冒頭より。

神様がいると仮定してみる。
ここでいう神様とは、テルマエ・ロマエのような
衣装を着た、古代ギリシャのおじさんではなく
この世のあらゆるものの、初めに”あたる”概念だとします。

「宇宙作っちゃう!?」と神様は考えたとき
「まずは”言葉”ないと始まらないよねー」
ということで、”言葉”を作ったのだと
僕は解釈しています。


話は変わって短い小説を読んでみてください。

【どうしたら悟れるかな?】

とある時期の東南アジアにて
見習いの修行僧が言う。
「悟りってぶっちゃけムリゲーじゃないですか? 
だって、お腹はどうやっても空くし
夜になったら眠くもなりますよね。
仮りに”悟り”に近いものを、得たとしても
食欲と睡眠欲には勝てませんよね。
だから、悟れない。という結論だと
思うんですよ。」

先輩の修行僧がいう。
「だから中道って教えがあるのさ。
絶食するでもなく、暴飲暴食するでもなく
生きていくのに足りるぐらい食べようね。
それと、普段の生き方も同じだよ。
何事も真ん中ぐらいが良いんだよ。
それが中道っていう考えかただ」

見習いは返答する。
「でも、それだと食欲に捉われてますよね?
寝るのも、8時間ぐらい寝とけってことですよね」

先輩は答える。
「そうだな。何事も極端は良くないって
話だと思うぞ。
ブッタさんは、土に埋まってみたり
何日も座禅組んでみたりしたが
「いっこうに悟れねーな」と感じていた。
色々、苦行を続けた結果、
「苦行してもキリなくね?」
という結論に至ったんだ。 
そんで、スジャータさんのミルク粥食べて
あまりに美味すぎて、中道!中道!って
なったんだと思うんだよ」
「じゃあなんで
俺たちは修行を続けてるんですか?
答えは中道なんでしょ?」
「中道は悟りに至るための一つの考えであって
悟りの全てではないのよ。
般若心経を理解するだけでも大変なのよ。
大般若経なんて600巻もあるんだぜ。
読破するだけでも、ムリゲーだろ?
そもそも、知ることと悟ることは似ているけど
だいぶ違うんだよ。
「どう違うんですか?」
「例えば、生まれながらに
目が見えない人がいたとして
この人に「空は青いんだよ」って教えても
一度も景色を見たことの無い人にとって
どう空が青いのかは理解出来ない。
だから、毎日お経をあげたり、座禅を組んだりして
悟りとは何か?に向き合うことでしか
悟りとは何か?の答えは得られないんだ」

「そもそも”悟る”の反対語ってなんなんですかね」
「人によって違うだろうけど
俺は”捉われる”だと思うよ」
「じゃあ”捉われる”は?」
「さっきの食欲や睡眠欲もそうだけど
それだけではなく、友達が出世しただとか
お隣さんがお高い車買って悔しいっ!だとかも
捉われだろうね」
「もっと根源的な答えは無いんですか?」
「なら ”初めに言葉ありき 
    言葉は神とともにあった” だな
俺と君を分けて考えられるのも、言葉だろ?
仏様とそうでない人を分けるにも言葉が必要だろ?
言葉があるから、友達との格差に捉われ
お隣さんの高級車も元をたどれば言葉にいきつく」
捉われるということは
悟りから遠ざかるということだと思うよ」
「仏教じゃないですよね?」
「引用はヨハネの福音書だなww」

と、悟り問答を
書いてみて解ったのは

”悟りを解説しようなんて無理”

ということでした。


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