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血の気を減らせない

「すぐそこでやってまーす。おねがいしまーす」

中年の男性が、小さなビラを手に、道行く人々に声をかけていた。

その後ろには、白地に大きな赤十字。
そう、献血だ。

日本出張の合間の週末。
土曜日に東北から関西に移動したので、日曜は久しぶりの丸一日自由な時間だった。
ずっとガイジン達と行動していたので、ひとり時間を楽しもうと京都に行くことにした。

まず桂離宮の当日入場にダメもとで挑戦。お庭をたっぷり堪能し、そこから京都に行ったら必ず訪ねる龍安寺。バスで四条烏丸に出てから、錦市場に立ち寄った。
夏に日本に帰郷することがめったにないので、どうしても抹茶のかき氷が食べたかったのだ。

最後に肩までお風呂に浸かろうと、東本願寺まえのホテルで日帰り入浴し、スッキリさっぱり。
京都タワーを見上げながらそろそろ帰路につこうかというところだった。

日曜日の夕方5時。
このまま梅田のホテルに帰っても、特に何かする予定はない。
ロンドンを出る1か月ほど前から医者にいわれて、節酒とダイエットを始めていた。
だから、いつもだったら出張中に何回かはひとりで飲みに行くけれど、今回は、おつきあいで飲む以外、ほとんどホテルの部屋でデパ地下総菜を食べていた。

「どこでやってるんですか?」

私は、男性から地図のついたビラを受け取った。

かっこいいことを云うつもりはないけれど、最近、自分ができることについて考えることが多い。

部下にできるだけ事前に方針を伝えるだけにして、表舞台には彼らに立ってもらう。
工場のひとたちに、彼らがお休みを返上して生産してくれている製品がヨーロッパでどんな効果を上げているかわかってもらう。

これまでは「自分」のがんばりをわかってもらいたい、評価されたいと思ってきたけれど、最近の私は、誰かに働きかけることで、後に何か残したいと考えてしまう。
それは、こどもを産むことがないまま、ここまで来てしまったことへの罪滅ぼしなのかもしれない。

だから献血しようと思ったのかしら。
ぼーっととりとめなく考えていたら、エレベータが献血センターのある階についた。

足を踏み入れると、そこには私が思っていたのとはまったく違う明るいスペースが広がっていた。
書棚やドリンクバーが設置されている。
奥に、白い病院ベッドが並ぶのに気づかなかったら、うっかりマンガ喫茶にきてしまったと思うところだ。

「献血ですか?ありがとうございます。これまでに献血されたことはありますか?コロナワクチンは受け終わっていますか?」

にこやかに、関西弁のアクセントで、男性が話しかけてきた。

献血をしようとするのは初めてではない。
でも、献血をしたことは、ない。

20年ほど前のことだったろうか。
やはり、ふと献血をしようと思ったことがあった。

脂肪たっぷりのからだのせいか、私は、あまり血管が表面にでていない。
健康診断の採血でも、唯一右ひじの内側にでている血管を使ってもらうしかないと経験で知っている。
一度は、そこもうまくいかず、手の甲から採血されたことがあった。
だから、その初献血の時にも、最初に感染症などの確認をするといわれたから、それは手の甲でとらないと、本採血では使える血管がなくなりますよと看護婦さんに伝えたのだ。
けれど、若い看護婦さんは手の甲を避け、ひじの内側で感染症検査の採血をしてしまった。

当然、いざ本採血となったとき。
別の看護婦さんがバンバンいろんなところを叩いてみたけれど、針を刺せるほどの血管がでてこなかった。

ぺこぺこ謝る献血センターの方からパック入りの飲み物をもらって、なにも提供できていないのに悪いなあと恐縮しつつ献血カーを去った。

それ以来、なんとなく気まずい感じで、献血を試す気にはなれなかった。

「じゃ、まず看護師に腕をみてもらうことにしますね。うちの看護師さんたちはみんな腕がいいから、大丈夫だと思いますよ」

センターの男性は、私の説明を聞き、そういって私をまず看護婦さんの前に連れて行った。
説明通り、看護婦さんは、さささと両腕、手の甲を見渡して、だいじょうぶ問題なく検査も採血もできますよと太鼓判を押した。

「じゃ、書類とか書いてもらって、呼び出しまで待っててくださいな」

連絡先には東京の実家を書き記し、職員の方に手渡すと、私はウキウキとマンガ棚へと向かった。
ああ、「のだめカンタービレ」なんて久しぶりだ。
そう思って、数ページ開いたところで、カウンターに呼び出された。

本人確認をというので、バッグの中のパスポートにするか財布に入れている日本の免許証にするか一瞬考え、免許証を渡した。

「お話されてた通り、以前に登録がありますね。その情報と同一人物だという確認をしたいので、住所をいってください」

うーん、その時は果たして神奈川に住んでいたときか、すでに東京に戻っていたときか。

「神奈川ですね」

カウンターの方がヒントをくれる。
となると、20年前に3年ほど住んでいた住所。町の名前まではいえるけれど、番地はまったく覚えていない。

「じゃあ、電話番号は?固定でも携帯電話でもいいですよ」

さらに、まったく覚えていない。

「いやあ、もう海外に引っ越して長いものですから」

というと、カウンターの女性の目が眼鏡の奥でスッと細くなった。

「海外ですか?日本に着いたのはいつですか?」

そう云いながら、注意書きと書かれたラミネートシートを指でしめす。そこには、海外からの入国日から4週間以内は献血できないと書いてあった。

えっ。

帰国から10日以上経ってるし、ワクチンだって受けているんだから大丈夫だろうと安易に考えていた私が悪かった。

指を挟んでいた読みかけの「のだめカンタービレ」の漫画から、すっと指を抜いて。

「す、すみません。わかっていなかったので、すっかりみなさんのお時間を無駄に頂戴しちゃいました。もっと早くお伝えしておけばよかったですよね」

平謝りの私に、カウンターの女性は、それでも汗ふき取りシートの粗品をくれて、またお願いしますといってくれた。

チーン。

エレベータで地上にたどり着いて、ふたたび京都タワーの前に立ちながら、またしても献血までたどりつけなかった自分のふがいなさを感じた。

なまじいいことをしちゃおうなんて気分が高揚していた分、感じるカッコ悪さったら、このうえない。

あーあ。
血の気はたっぷりなのになあ。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。