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あなたの宗教、わたしの宗教

ロンドンに住んでいると、お役所書類や任意アンケートでよく訊かれる質問がある。

「あなたの宗教はなんですか」

海外渡航のマナー本には「宗教と政治の話を持ち出してはいけない」と書いてあったような気がする。けれど、そもそも、日本でだっていきなりそんな話を持ち出すひとはいない。

宗教という話題は、海外では実は思ったほどタブー視されていない気がする。

ロンドンの職場では、ヒンズー教の人、イスラム教の人、クリスチャン (カソリックやプロテスタント、イギリス国教会も)、あるいはクリスチャンの国で産まれたけど洗礼を受けてない人、ユダヤ教の人…いろんなひとが普通にいる。
生活習慣に密接に関連しているので、宗教の話をタブーにしているわけにはいかない。豚、牛、卵、マッシュルーム…。会社の宴会で誰が何を食べられないのか考慮するのはごく当たり前のことだ。

アメリカにいたときも、宗教はごく一般的な話題だった。
日本人ってどんな宗教を信じているの?
教会みたいなところには通っているの?
特に、アメリカの、小さな町に住んでいたころ。
信じるものは何なのか、と面と向かって訊かれることは多かった。
相手が通う教会に誘われることも多かった。
その小さな町の人がもつ敬虔な信仰心と熱心な勧誘は、自分の宗教観というものを再度考えるきっかけにもなった。

宗教的価値観が生活の基幹をなしている人にとって、自分の行動規範の基準である宗教について語るのはごく自然なこと。そして他の人の宗教について尋ねるのもごく自然なことなのだろう。
だから、日本人がマナー本に従って、会話を幕引きしようと「無宗教です」などと答えたら、なぜ?どうして?と、もっと多く質問されてしまうに違いない。



苦しみや痛みを抱えているとき。救われたいと思う気持ちは人種や信じるものを越えて共通だ。
その救われたい気持ちが、いろいろな形で発露し宗教を生み出したと私は思う。

ユダヤ教、キリスト教やイスラム教といったアブラハムの宗教も、ヒンズー教や神道のような多神教も、かたちはどうあれ、「人間を超えた存在」を人間の想像力こそが作り出したわけで、すごいことだと私は思う。(もちろんこんなことを創造説を信じる保守派の人たちに言ったら怒られてしまうのだけれど)

神はいるのか、いないのか。
私は、「自分がどう世界を見たいか」に拠っていると思う。
自分が「神が存在する世界」を望むのか、それとも「神のいない世界」を選ぶのか。自分次第で定義は変わる。

「空飛ぶスパゲッティーモンスター教会」について聞いたことはあるだろうか?
人間が何者(=創造主)かによってつくられたのだと信じ、類人猿から進化したと認めない宗教的保守派の人々へ、痛烈な皮肉として、科学を信じる男性が立ち上げたパロディ宗教である。

「神が存在する世界」と「神のいない世界」。

それぞれ、自分たちの信じるものに従い世界を見ている。
そして、その価値は、お互い、その外側からは理解し難い。

私はずっと、「どこかにすごい全能者が存在し、それに対し祈れば苦難から救われる」という考え方が腹に落ちなかった。

「… 私はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間……このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」
フェレイラはまるで吼えるような叫びをあげた。
「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。」

「沈黙」(遠藤周作)

中学の課題図書で読んだ遠藤周作の「沈黙」は、読むのが痛く辛く過酷だっただけでなく、たくさんの疑問を私に与えた。

なぜ人々は沈黙を繰り返す神に忠誠を尽くせるのか、命を捨てられるのか。

もしも親が、姉が、友人が、自分のことを無視したら絶対許せない。
じゃあ、どうしてこの本の登場人物たちは「一番愛してもらいたい存在」からの沈黙に耐えられるのだろう。
私だったら、沈黙に耐えかねて、自分で行動したくなる。



「あなたの宗教はなんですか」と訊かれたとき、私は「仏教の考え方に共鳴しています」とこたえている。
別に、XX宗といったものに属するわけでも、朝起きて線香を焚きお題目を唱えるわけでもない。
考え方として、「超人的な何かに救ってもらう」のではなく、「自らと対峙し煩悶し、最終的に自分で自分を執着から自由にする」初期仏教の考え方に共鳴するということだ。

私の祖父は、曹洞宗の僧だった。
かつて「おじいちゃんち」とは薄暗いろうそくの光に照らしだされる仏像たちが睨みを効かせているお寺のことだった。
そこは、私にとって近寄りがたく怖い場所だった。

小さい頃の私は、キリスト教の神様にあたるのが、仏教のお釈迦様だと思っていた。そしてその「すごいひと」に救ってもらうために仏像の前でお題目を唱えるのだと思っていた。

私の中学校には「年間研究」という課題があった。
中学校三年になると、何かひとつ一年間を通して調べ続けるものを選ばなくてはならない。
私がテーマに「仏教」を選んだのは、禁忌感と怖さに満ちた寺のイメージを解き明かしたい気持ちと、それが自分のルーツに関わっているという好奇心からだった。

仏教の最初といえば釈迦だろう、と初期仏教から調べ始めた。
そこで、いまの日本で一般的な浄土真宗や真言宗といったいわゆる大乗仏教ではなく、自らを救うために己と対峙する小乗仏教の考え方に出会った。

「沈黙」を読んで以来「超人的な誰かが自分を救う」という考えに疑念を抱いていた私にとって、その「自分で自分を救う」小乗仏教の考え方はすっと腹におちた。

苦難を乗り越えるには、その苦しみのもととなっている執着を自分自身で乗り越える。
祖父が歩いた禅の考え方が、しっくりと収まった気がした。

柳澤桂子の「生きて死ぬ智慧」という本がある。

柳澤桂子さんは今年83歳の生命科学者で歌人。
コロンビア大学院で博士号を得た後、日本で分子生物学の研究に勤しむなか激しい痛みとしびれを伴う原因不明の難病に倒れた。
ところが、病因が解明されないがために、その病は心因性だとみなされ、医者からも家族からも、気のもち方が悪いからだと責められ、そのうち自分自身を責めるようになってしまった。
この「科学者でありながら科学の限界に苦しまされる経験」は30年以上も続いた。
ようやく彼女の病気はセロトニン不足による全身性の脳幹の病気だと解明するものの、さらに、脳脊髄液が漏れる脳脊髄液減少症、そして狭心症とつぎつぎ病苦が彼女を襲った。
そんな中、「人生とは苦。ならばいかに救われるのか」を問うようになり、たどり着いたのは「色即是空」を説く般若心経だった。

その著書「生きて死ぬ智慧」には、科学者でありつつ、厳しい人生を歩んだ行者としての柳澤さんの般若心経の解釈が、美しくそして平易なことばで記されている。

一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです

このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることができるようになります

宇宙のレベルで考えれば、すべてのものは原子の濃密にすぎず、すべてが「ない」けれども「ある」。
その「空」の世界が見えたとき、執着の気持ちは無くなり、苦難を超えることができる。

彼女がしるす般若心経には、科学を信じる心と宗教的何かを信じる心が同居できている。
だって、どちらも、真理を追究したいと願う人間のきもちが生み出したものだから。

「あなたの宗教はなんですか」と訊かれたとき、私は「仏教の考え方に共鳴している」とこたえる。

そして、続ける。

自分を幸せにするか不幸にするかは、すべて、自分がどう世界を捉えるかにかかっている。

私は、誰かに救ってもらおうと他力本願にすがり祈るよりも、苦しみを乗り越えようと自ら行動するほうがしっくりくる。
だからたまたま仏教の考え方が腑に落ちるにすぎない。

他の人たちが、どんなものを信じようと、それはその人次第だ。
その人が救われるのならば、その何かを信じることで心に平安が訪れるのであれば、それがその人にとっての真理なのだろう。

ただ、宗教は人を自由にするものであって、縛るものであってはならない。だから、自分にとっての教えを、他の人に押しつけたり勧誘するのは筋違いだ。

いろんな背景の、いろんな言葉の、いろんな文化の、いろんな宗教のひとたちと交流しロンドンで暮らすなかで、これが私なりの宗教観だ。

そして、いまでは、私は、他の人に宗教について尋ねるのが好きになった。

「あなたの宗教はなんですか」

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