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パスポートの中の貴重品

日本のパスポートの「強さ」についてのnoteを読んだ直後、こんな過去記事に出くわした。

2019年3月25日ブラジル政府はこのほど、日本人旅行者に対するビザ取得義務を6月17日から撤廃すると発表した。観光、商用、トランジット、芸術・スポーツ活動などを目的としてブラジルを訪れる日本人は、90日間までの滞在に加えて、90日間までの延長が可能となる。

ブラジル、日本人のビザ取得が免除に、6月17日から
2019年3月25日
https://www.travelvision.jp/news/

これまでビザが必要だったブラジルの取得義務が3年前に撤廃された。

ますます日本のパスポートの強さに磨きがかかるということか。

撤廃の半年ほど前。
あれは2018年の初夏のこと。
プロジェクトが南米展開のフェーズをむかえていた。

その前の年にはメキシコとパナマで開催したワークショップ。次はコロンビアとブラジルの予定だった。

私はその直前のタイミングでアメリカ妹と姪っ子とスペインのアンダルシア地方にホリデーに行くプランがずいぶん前から決まっていた。

まずイギリスからスペインに行ってホリデーを過ごし、そこからそのままコロンビア。それからブラジルへ移動し、イギリスに戻ってくるという1か月以上の長丁場。

そもそも、いま思い起こせば、最初から波乱ぶくみだったのだ。
最初に、プロジェクト事務局のメンバーが、「ブラジルのワークショップはサンパウロだ」というので、チケットを買っていた。

「あ、すみません。リオの間違いでした」

うんうん、いいよ。サンパウロ→リオのチケットを買えばいいし、移動は週末だから別に急がないし。今気づいてよかったねー。

それだけのはずだった。

ところが。
スペイン、アンダルシアのホリデーに出発まで1週間を切った、金曜日のことだった。
巨大なビックリが降ってきたのだ。



たまたまその日は自転車通勤せずに、バスに乗っていた。

灼熱のアンダルシアから、ボゴタ、そして冬のリオをみんなカバーする洋服を詰めないといけない。
気温を確認しておこう。

「ブラジル、リオデジャネイロの天気」を、何の気なしに日本語で検索したのがよかったのだ。

「日本から、ブラジルへおでかけですか?ビザの準備はお済みですか?」

という広告が携帯画面にぽんっと上がった。

え?
ビザ?

「あ、すみません。アメリカ人もイギリス人もEU人も必要ないから、確認がもれていました」

サンパウロとリオを取り違えていた事務局の若者がシラッという。
ぜんぜん、よくない。

ブラジルへのしかも仕事で入国するビザの申請。
って、今日はもう金曜の朝。
マドリッドへ出発するのは水曜日。

週末をはさんだ実質3日で発行してもらわないと間に合わない。
そんなん、できるんですか。

「日本人のことはよくわからないので、自分で調べてください」

耳から湯気が出ている気がしたけど、こういうときは自分で解決するしかないことも、私は経験から痛いほど知っている。

「ごめん、パニックモード!今日は、仕事できない!」

チームのみんなに宣言し、とにかく検索しまくった。

これが、ガイジンとして第三国に暮らすツライところだ。日本語で探すと在日ブラジル大使館の申請方法がでてきちゃうし、英語でイギリスからと検索すればイギリス人向けの情報がでてくる。

どうにかして、情報がみつかった。
通常ビザの発行は1週間、ビジネス渡航の場合は、その旨会社からの手紙が必要。
緊急発効については…相談すること。
でた、ザ・交渉次第。

「とにかく、会社からの手紙の手配を進めてください」

手紙を待つ間、もしもの場合を考えて、「ボゴタのブラジル大使館で日本人がビザ申請する場合」というオプションについても検索した。
でも、もし、コロンビアにいる間に発行できなかったら?
パスポート返してもらえなかったらどうするの?

いやいや、やっぱりなんとかしてロンドンで発行してもらわねば。
これがだめなら、アンダルシアの休日はあきらめなくてはならないかもしれない。

できあがってきた役員のサインつきの手紙をリュックに放りこみ、私はオフィスを飛び出して、パスポートを取りにまずは家へむかった。

とにかくブラジル大使館で交渉だ。
受付時間は3時まで。

ところで、ブラジル大使館ってどこ?

家でパスポートをわしづかみ、今度はセントラルロンドンへ移動しつつ、ブラジル大使館の場所を検索する。
トラファルガー広場の近くか。
よし、それならピカデリー線で一本だし、いける。間に合う。

「みんなねえ、よく間違うんだよね。ここは大使館。ビザは領事館ね」

受付のおじいさんは、いい飽きたという表情でドアの外を指さした。

「ここから、地下鉄だと3-40分かな。オクスフォードサーカスだよ」

えっ。
すでに時間は午後2時半。あと30分で受付時間が終わってしまう。
この国のクローズ時間に関する厳密さといったら、スーパーだって携帯ショップだって、閉まる10分前にはドアにカギをかけてしまうくらいだ。

やばい。地下鉄は一本じゃ行かない。かといって走るには距離がありすぎる。

タクシーなんて都合よく通りかかるかしら?
と、表に出た瞬間、オクスフォードサーカスと書かれた二階建てバスが目の前でドアを開けた。
おしっ。

ハアハアハアハア。

バスの中で息を整えながら、今度は大使館、ではなくブラジル領事館として場所を検索する。

はたして、それは、一大ショッピングストリートのど真ん中にあった。

2時55分。

クラシックな木造ドアをブンと開ける。
と、受付の男性が目をあげた。

「ハアハア、あの、3日後に、ハアハア、ビザが、日本人で。ハアハア、出張で、リオに」

ことばにならない。

「ビザの受付ですか。3時までです」

受付の男性は、きっぱりという。

「ですから、ハアハア、緊急発行で、相談をしに、ハアハア」

チラリと腕時計をみた彼は、しぶしぶ階段を顎でさした。

ダッダッダッダッ。
階段を駆け上がり、ドアをあける。

だーん。

そこには、左に受付ブース、真ん中に椅子がずらり。
ブースで話をしている人がひとりいるだけ。
よし、これなら少なくともこの人が終わった後に相談はさせてくれるはず。
いや、させてくれ。

私の順番がやってきた。

「…と、いうことで、来週水曜のフライトでマドリッドにいって、10日後にボゴタ、そしてその後に直接ブラジルに行く予定なので、どうしても3日でビザが発行されないと困るんです」

パスポート、会社発行の手紙、銀行口座通知など必要書類を差しだしながら、私が事情を説明する。

対応してくれたのは、とても穏やかな40代くらいの小柄な女性だった。
ニッコリと笑顔を作って、時間を気にするようすもなく、彼女が答えた。

「まず、最初にもうしあげたいことがあります。
素晴らしいです。必要な書類にまったく不備がありません。
お話を聞いていると、日本人であるあなただけビザが必要なことに気づいたのは、今朝のことなんですよね?
そして今、午後3時です。ここまできちんと書類をそろえてくださったのですから、私も、なんとか頑張ってみましょう。」

ほめられた!

朝、バスの中でビザがいると発見してからずっと慌て続け、走り続けだっただけに、穏やかに微笑みながら、このバタバタな半日を認めてくれたことがジーンとしみてきた。
いかん、領事館なのに、ちょっと目が…

「でも、とにかく一番大事で、そして一番最初に必要なのは、代金分の為替なのです。それは手配してありますか?」

しまった。
在英日本大使館は現金のみ受け付けなもんだから、ここもきっと現金だろうと緊急時用のポンド札を掴んできたけど。
まさか為替とは。
うるっとしたものも引っ込んでしまった。

「…ですから、ここから数軒離れたところにある郵便局で為替を買って戻ってきてください。その間に私のほうは、こちらで何ができるのかを確認しておきましょう」

おお!
釣り針が、かかったときのような感覚。
溺れる者はわらをもつかむ。
とにかく、彼女にすがるしかなかった。

申請書類を彼女に託し、私はふたたび急ぎ足で今度は階段を駆け下りた。
あの受付の男性が「ポストオフィス?」とウインクしながら、玄関の外をさしていた。
さすが。

「もどってくるから、ぜったい鍵をかけないでよ」

ぶんぶん指を振りながら、そういって、私は郵便局へ走った。

「…はい、確かにお支払いいただきました。
あいにく今日は金曜日で、しかももう閉館時間を過ぎているものですから、こういった特例を判断する責任者がすでに不在なのです。書類は受け付けますが、ご要望のとおり来週あたまに発行するかは約束しかねます。ですので、この受付票には引き渡し日は来週の金曜と記入しておきます。
ただ、もし責任者に連絡がついたら電話するかもしれませんから、今日は携帯がつながるようにしておいてくださいね」

なんどもなんどもお礼を繰り返し、席を立った。
下りていくと、受付にはもう誰もいなかった。
4時すぎ。
閉館時間から1時間以上過ぎていたのに、あんなに気持ちよく対応してくれた。

やることはやったという脱力感。
一歩でた外側に広がるショッピング街の雑踏にうまく順応できないまま、ボンドストリートの駅に向かおうとして気がついた。

バスで帰らないと。

150年の歴史をもつロンドンの地下鉄は、携帯電波がつながらない。
だから、バスで倍以上の時間をかけて戻るしかない。

ブーブーブーブー。
バスに乗ってから20分ほどしか経っていなかった。
ダブルデッカーの2階席でぼんやりとハイドパークを眺めていたら、携帯が鳴った。

「ブラジル領事館です。責任者を捕まえることができました。会社からの手紙にサインをしたそちらの責任者の方から、領事館にお電話をいただき、あなたの渡航がどうしてもビジネスのために必要だということをご説明いただきたいとのことです」

サインした役員が、普段から廊下で世間話するような相手で助かった。
しかもギリギリ5時前だから、まだ社内にいるはずだ。
バスの中から、事務局に電話をいれて事情を説明し、その役員をつかまえてくれるように頼み、同時に私からもメールを送った。

「OK」

役員から短い返事がきて。
そして、数十分後。
領事館のあの女性から「すべてそろいました。週明けの月曜にメールをします」という連絡があった。

週末は、荷造りしつつも、まんじりともしないまま過ごした。
もし私がいけなくなったら、カディス駅からのレンタカーはどうしよう。
ジャネルはマニュアル車が運転できないし、そもそも私を運転者として予約してるし。
チケットを今から買い直すんだろうか。まいったなあ。

そして、月曜日。

「明日、用意ができますので、領事館の開館時間内に受付票をもって取りにいらしてください」

シンプルな、おしつけがましくないメールが、彼女から届いた。

金曜、月曜、火曜。
3日で発行された、私のブラジル入国ビザ。

あの女性が、決まりの壁を越えてあそこまで奔走してくれなかったら、かなわなかっただろう。

こんな経緯でようやくパスポートに貼られたビザは、だから、私にとってとても大事なものだったのだけれど。

今回のビザ取得義務撤廃によって、今後は発行されないと思うと、ますます貴重で大事なものになった気がする。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。