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個人的な教育の話18 横浜リターンズ 

始まり
 人の物語には始まりがある。始まったら最後、走り続けるしかない。
人には生きているステージがあり、「プラダを着た悪魔」のような成功物語ではないが、ステージを切り替える分岐点が必ずある。それも上にシフトするとは限らない。落ちることもある。

高校時代
 1970年代の高校生の文化圏 あの時代の高校生の文化圏は大枠2つあった。
グループ1
工業高校、バイト、暴走族、高卒か3流大学、アホ文化圏。
趣味は、 バイク、車、音楽(ロック)、ライブ

グループ2
普通科、受験校 大学受験、大卒(国立、医学区部)、エリート文化圏
趣味は、アイドル、音楽(フォーク)、映画鑑賞 

 私はグループ1に所属していた。都立の工業高校卒だ。高2の時クラスの半分が暴走族だった。
それでも、仲間は普通に就職し、親の家業をついだりしていた。

 私もグループ2の人間を身近に知らなかったら、その道へ行ったと思う。しかし、親戚の子供達が、東大、慶應、日本女子大と入学している。お袋も女学校卒で日銀のOLだった。親父も法政を卒業していた。弟は国立大学の附属高校へ通っていた。

どうして私だけ放置教育をしたのだろう。既にお袋も親父も亡くなっているので、それは闇の中だ。
この場合、選択肢として大学へ進学する。それしかなかった。

「お前が、大学進学か、頑張れよ!」と進路指導のオッサンは笑っていた。

 私は弟の中学校の教科書を借りて勉強を孤独に続け、2浪し、今で言う3流アタック大学へ入学した。
それでも今まで遊んでいた反動で大学の勉強は面白かった。
この辺りが私の分岐点だ。ここでの努力でステージが上がり選択肢が増えた。
大卒で東芝関連会社へ入社した。当時の大卒は組織での扱いが違った。

結婚
これは妻も含めて分岐点だ。
 この時代、サラリーマンにとって結婚式は必携。社内の人脈作りとなり、また上司からの信頼度が増す。
「あいつも、ようやく身を固めた」
独身だと半人前という時代だ。結婚すると流石にもう逃げ出さないだろうと、本音でつき合ってくれる。仕事も重要なものが多くなってくる。

 結婚式の費用、お祝い金も今と違い沢山くれるが、新婚旅行も含めて200万円程度は自腹となり、私の貯金は300万程度になっていた。
実家暮らしだったのと親のおかげで、なんとかこの程度で結婚生活を始められた。

1989年の引っ越し 昭和から平成へ
 結婚後、私は地元の東京を離れて縁もゆかりもない横浜の田舎、里山の一角にある団地(限UR)へ引っ越した。理由は妻の実家に近い、一番の理由は賃貸が安いことだ。
この頃、不動産屋が不当に暴れていた。今思うと、何か狂っていた。そんなバブル時代でも3Kで5万円だ。(1989年当時)

貧乏から始まる
 私達夫婦の目的は金を貯めることだった。妻も私も高校時代はグループ1の人間だった。ちなみに結婚当初、妻には今で言うリボ払いの借金があった。
「その借金は最悪だから」
私が一括支払いして肩代わりをした。
今も続く金融機関の得意技だ。さらに過払い金とかで、インチキ弁護士か出てくる。

節約生活開始
 この時代、不動産が高すぎ、当時から馬鹿げていると思っていた。その点、便乗値上げしない公団がまだマシだった。
固定費の節約。家賃は最低限。そして夏場はエアコンなし。冬場は室内気温が一桁。まさにサバイバル的な生活をしていた。妻もよくこれについて来たと思う。
ちなみに、この頃、近所に住んでいた服部文祥(現サバイバル家族)さんはまだ小学生だろう。

 物価がどんどん上がっていた時代だ。モノが値上がれば、消費税の税収は増える。増税して反感をかうよりわかりにくい。
インフレは増税としての姑息な方法だと思っていた。
給与がアップしているが、取られる分が知らずに増えている場合がほとんどだと思う。

子供が出来る
 結婚生活3年目に子供(息子)が出来、更に3年目に子供(娘1)が、更に4年目に子供(娘2)が出来た。
貧乏子沢山の例に漏れず、その道を歩んでいた。

 住んでみて分かったのだが、団地には子持ちの若い夫婦が多くいた。最初はなんでこんな不便な場所で生活しているのだろうと思っていたが、目的は同じで、お金を貯めて、ステップアップする為だった。だから10年以上経つと、家を購入して引っ越していた。

自然環境は抜群
 あの当時、団地から5分で里山となり、田んぼ、湧き水、湿地帯が広がっていた。子供達は小魚、カエル、ザリガニと取り放題だ。夏はカブトムシも捕れる。
自分達の子供の遊び場は野山だった。金がかからない。かつ教育的な遊びだ。自然の中での遊ぶことは、子供達の人生に大きな影響を与えていた。

 自宅で、夏場はヒグラシの鳴き声で目が覚める。それほど蝉が鳴く。カエルの合唱も凄い。
家の中にも沢山の虫が侵入していた。アシダカクモ、ゲジ、G、スズメバチ、スズメバチは掃除機で吸い取るのが一番安全な対処方法。そのあと殺虫スプレーを注入しておかないとバックしてくるから注意。

 ただ郊外の緑地は不法投棄が頻繁にあった。私設のマウンテンバイクコース、なんと10キロもある広大なコース。ここにもたまに捨てられていた。
これには本当に腹が立った。

 節約も外食しない、遊びなどに無駄金を使わないことで実施しているので、貧乏感はない。今風にいえばスローライフ?
さらに子供達を自然環境(寒さ、暑さ)にさらして甘やかさない。
その点で田舎の環境は悪くなかった。ここでは生活に見栄をはる必要もない。

 それでも子育ては精神的な危機がある。
2人目が生まれてまもなく妻は神経やられ入院した。この時、私は医者に怒られた。「子育ては大変なのだから、もっと手伝いなさい!」
男はわかってない。

 3人目が生まれたころ、古い団地の造りだと、たまに起こる。洗濯機の排水の水漏れ、それを2度起こした。そして妻が精神的に団地の人間関係に耐えられなくなっていた。
また、仲よくしていた家庭はどんどん一戸建てへ引っ越していた。
さらに自然豊かな里山にもダンプが沢山入り、ついに開発がはじまった。
里山は私の庭ではなくなった。

 後は、教育面で、どうしても安い賃貸団地が多いと偏差値が低くなる。治安悪化は必然。
今は高齢者が多いが、当時は、片親、外国人、何故か働かない人達が多くいた。
子供達はその中で生活していた。親がベースラインとなるので、それより上がる子は滅多にいない。さらに劣化していた。

 団地内に当時あったスーパーの前の広場では朝からおっさんが酒飲んでいるし、冬場、凍死者がでた。
後、だらしない極みで、火事が近隣で何度も起こる。また里山に捨てられた盗難車に中学生が放火するなどの事件もあった。

 潮時だった。私は会社を早期退職して、多めの退職金を手に東京の私の地元、多摩地区へ引っ越した。
これは背水の陣、逃げ場なし、1年間無職で会社を大手企業の部長の資金で立ち上げた。
その辺りはNoteでも何度か書いている。

横浜リターンズ 
 そして、あれから20年過ぎた。
2021年9月。妻の実家へ訪問した際、その地を再び訪れてみた。

 あの広大な里山は動物園と里山ガーデン(公園)になっていた。
郊外の観光地だ。多摩地区で言えば多摩動物公園、平山城址公園だ。
住んでいた団地は耐震で問題ないのか、建て替えせずそのままあった。今、団地は高齢者が多く静かだった。

俺の私設コース(個人的意見)が有料コースになっていた。
実際はもっと長いコースだ。もの凄いダウンヒルもあった。

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