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国立天文台(三鷹の天文台) 50年目にして初めての訪問 2 ジブリ的な建物と機器の宝庫だった。

<初めての天体観測
小学生5年生の時、調布市科学センターのセンター員になった。
今でもあるこのセンター員の活動内容はこんな感じだ。
毎年、調布市の小学生5,6年を対象に50人ほどセンター員が募集され、1年間、月に1回、大学教授などが来て、サイエンスの授業を受ける。または実験をする。会場は各小学校の持ち回りだ。
当時は凄い人気で、基本抽選だったけど、各小学校の生徒のレベル争いもあったのか、担任の推薦だった。

このセンター員になると1年間の最後の締めくくりに、班ごと(これは小学校をまたいだ班)でテーマを決めて研究する。そして最終日に発表会をする。
今から50年前、違う学校の子もいる班で研究テーマを決めて、研究して、その結果を発表する。場所も色々な学校に行っていたので、結構印象に残った活動だった。

その時の俺たちの班のテーマは、「冬の星座の観測」
星の定点観測をして、どんな星座が見えて、どのように動くかを観測した。毎日夜8時に空を見て、星座をプロットした。
この頃視力が裸眼で1.0程度だったけど、この観測のおかげで、1.2までになった。
ちなみに、この科学センター員時代に、三鷹の天文台へ行ってないのが不思議なのだが、記憶にない。
この観察のおかげで、今でも冬場、オリオン座を起点に三角点を結んで、星座を見つけることが出来る。おおいぬ、こいぬ。さて、わかるかなぁ。

天文台

<大正時代の天文台の役割
大正初期、三鷹の天文台では宇宙の神秘とか宇宙の謎を解明するのが主目的ではなかった。国の近代化が目的だったと思う。だから月や星の動きを観測し、気象観測、航海術での利用、時間の管理、緯度経度とかも含めた地形の測定などをしていた。

<現存する古い施設
 ■第一赤道儀室 大正10年建設
これはドイツの望遠鏡で、電気なしで90分星を追尾出来る。
1998年まで太陽を観察していた。

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■天文台校内古墳
第一赤道儀室の横にはなんと古墳がある。
ここは、はけ(国分寺崖線)の上にある高台なので、湧き水が豊富で、古代から人が住んでいた。武蔵野は豪族が統治していた。

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太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)昭和5年建設
この観測施設はアインシュタインの一般相対性理論により予見された「太陽の重力により、太陽光スペクトルの波長がわずかに長くなる現象(アインシュタイン効果)を検出する目的があった。
太陽光スペクトルは7色ある。つまり波長が7種類あることだ。この波長が長くなるのでしょうか、つまり色が変わることなのか、これ以上は理解出来ない。

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■レプソルド子牛儀室
このレプソルド子牛儀、天文台が麻布にあった時代 明治14年(1881年)、旧海軍気象台がドイツから購入して、時刻の決定、経度測量に使用されていた。その後、関東大震災で壊れなかったので、三鷹に移転された。

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■ゴーチェ子牛環
1904年フランスから購入。1982年まで天体観測に使われていた。その後、自動で星を追尾し続ける機能がついた望遠鏡に取って変わられた。おそらく三鷹の天文台が観測地として十分に機能していた時代の主軸だったはずだ。今やこの地も空気は澄んでないし、空も明るい。

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紅葉につられて、敷地の砂利道を歩いていると、不思議な構築物の跡を見つけた。
「なんだろう」

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続く。




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