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第19回 文字と位置――あきらどという立役者


 あきらどさんという方がいる。



 この一年間ぼくの作品の表紙デザインを担当していただいた方だ。おそらくはイラストを担当している三好まをさんに注目がいってしまっている現状だろうが、氏の手腕がなくては最近四冊の本は完成しなかったことは明らかであると、ぼくはここで強く言っておきたい。ほかの方々がどのような形で同人誌の表紙を作っていっているのかはあずかり知るところではない。しかしながら弊サークルの表紙制作のなかで、常にイニシアチブを握り、的確かつ迅速にあの灰色背景の平面世界を構築していたのはあきらどさんだった。
この一年間、ぼくは多くの人々のお世話になってきた。イラスト担当の三好まをさんや、新作の表紙モデルに協力していただいた犬居さんに関してnoteを書いてきたわけだ。その一つの区切りとして、ぼくは最後、この人の指が描いた軌跡について語りたいと思う。


『熱的死』という影


 さて、始めるとしてもぼくはデザインという分野にはからっきしだ。なんの体もなしていない感想文になると思われるが、まあ一つの公開ラブレターみたいなものなのだからどうなってもいいだろう。


 とはいっても、どのようにして語るのかという批評は提示しなくてはならない。ぼくは人文畑の人間で、作品について読解をするということを好む人間だ。平面理解を作品読解的にする、簡単に言えば「いろいろと深読みをしてみる」とするとしよう。

熱的死


 というわけでまず、一年ほど前の作品になる『熱的死』という作品の表紙を見ていただいた。読んでいない人にとっては知ったことではないだろうが、この少女が作中における誰なのかということは明確な回答が与えられていない。この作品のなかにおいて、主人公の心の内側には「女の子」がいるというモノローグが何度か挿入される。それはトランスジェンダー的な意味ではなく主人公の自意識にまつわる視点として存在しているのだが、細かいことは置いておこう。そして、主人公の頭の中にいる少女とうり二つの女の子と出会うというところから物語は始まる。表紙に描かれているイラストは、そのどちらかでありどちらでもある、というのがイラストを発注したぼく個人の考えだ。


 では、この表紙のデザインはどのようなものだろうか。少女が右に寄せられた隣に「熱的死」というタイトル文字。この文字は一からあきらどさんが制作したもので、既存のどのフォントでも表せない文字となっている。作品のタイトル文字を起こすとはどのようなものか、この『熱的死』という作品において少女の影にあたるものは、主人公そのものである。ぼくの小説とは一人称小説がほとんどとなっていて、書いている文字のほとんどが主人公が思ったこと、発言したこと、見たものである。『熱的死』という作品においては、文字とは男性のことであり少女の影だ。その文字を非常にとげとげしく、小さいながらも存在感があるような形で配置しているのがこのデザインだ。また、この一年間で唯一横書きでの題字となっていて、キャラクターが足を大きく横に広くスペースをとっていることとの調和という点でも、深く考えられているなとも思わされた。


『殺したい子』という等身大


 では次に『殺したい子』の表紙について考えてみよう。先程のような倒錯的な関係性はこの作品には存在しておらず、純粋な表紙の少女の視点から繰り出される世界の暴力について描いたのが本作だ。

殺したい子 表紙


 主人公のサクラはいつも音楽を聴いている。閉鎖的な人間関係のなかで、それ自体が嫌になってすべてを壊してしまう。そんな、どこにでもいる女の子だ。キュートな外見とは裏腹に、それ以上の感情を抱えている普通の人間だ。


 そういった、外側と内側がしっかりと二項対立的に立っていなくてはならない。この表紙のデザインにはそんな意図があるのではないか。『熱的死』と比べるとその差は歴然で、文字が占有しているスペースは飛躍的に増大し、キャラクターに寄り添う形で配置されている。文字の輪郭部分のピントがぼけて、若干曖昧になっている演出も、彼女の自他境界線の曖昧さの表現としてこれ以上にないものとなっている。図らずも、「殺」という殺伐とした単語とその造形が、危うさを膨張させていくようなのもおもしろく見える。『殺したい子』とは、等身大のまがまがしさ、人のどうしようもなさについて書かれた作品だった。それを規定したのは、むしろ表紙の方であるかもしれなかった。


『藍色まで野良猫』という心臓


藍色まで野良猫

 これまでとうって変わって、『藍色まで野良猫』のデザインはレイヤー的に多層である。背景に文字が入り、タイトルで挟み込むようにキャラクターが配置されている。


『熱的死』『殺したい子』という二作品と違い、『藍色まで野良猫』という作品は文体が大きく異なっている。視点は一人称視点と変わることはないが、主人公の視座が非常に低いところに設定されていて、知識も浅いところが多い。別の表現でいうのなら「素直」であり「愚か」である女性ノラネコが主人公なのである。


 この作品の表紙としてどのようなデザインが組まれたのか。これまでキャラクターの横に配置されていた文字が、太くキャラクターを貫く格好となっている。初めて文字がキャラクターの前景に躍り出ているわけだが、このことは作品を表現するうえで重要だ。この作品の内容は「愚か」な女性が愛する人を探す中で、常に事態を悪化させながら周りの人々を不幸にし続ける物語だ。書いた自分でいうのもなんだが、この主人公には深々と感情移入するのは難しい。どちらかといえば「子供を見るように本を読んでしまう」という演出になっていると思う。そっちに行ってはいけないと声をかけたくても、文字の向こうには声は届かないというもどかしさを描きたかったのだ。それはノラネコという女性の個性を、文字を媒介にして構築することを目的としていた。ノラネコにとって文字、作品とは彼女の内側に存在するのではなく、彼女の行動をただ写すことによって作品として成立させるという、視点人物でありながら読者の視点にはなりえないものになったのだ。


 彼女の身体は文字化、物語化することによる酷く傷ついていく。ボロボロになりながら疾走する彼女には、無慈悲な世界が必要だった。小説では、世界は文字によって記される。


 そしてこの表紙のタイトルは、ノラネコの心臓を貫いているのだ。
 


『爪紅乙女』という道標


爪紅乙女

 そして、今回の『爪紅乙女』もあきらどさんに協力いただいた。まだ作品のすべてを公開できたわけではないので、この表紙のデザインと内容を混ぜて書くということはしない。


 ただ、いずれにしても氏の存在がなければこの作品も、そしてほかの作品のビジュアルも決定されなかったであろうことは間違いない。

 いつだってあきらどさんは、ぼくに道を示してくれた。こうすれば本になる、こうすればぼくの意図する表象になると。

 それに感謝を抱きながら、ぼくは粛々と『爪紅乙女』にむけた作業を続けようと思う。きちんと作品を出す。それが協力してくれた人々に対し、唯一報いるということなのだろうから。

 以上ラブレターである。破いて捨てられるくらいなら、ぼくはここに一つ、想いを書いて終わるとしたわけだ。それでは。

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