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第8回 『Michio's Northern Dreams 』――風景と生命

 木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもって わたしたちを見つめている。                                                                                                   『Michio's Northern Dreams 2 ラブ・ストーリー』より

『Michio's Northern Dreams』というシリーズ名を持った本がある。星野道夫という写真家が綴った文章と、写真が並べられた小さな本たちだ。全5巻(文庫版では全6巻)にわたるこのシリーズは、2001年から2002年にかけて刊行された。このときすでに、著者である星野道夫が亡くなってから数年が経過していた。彼はこれらの本が出ているという事実も知らなければ、21世紀という時間が到来したことだって気がついていないだろう。

 ぼくはむしろ、20世紀の記憶自体、ほとんど持っていないのだが。

 星野道夫、アラスカの大自然の写真を撮り続け、国内外の雑誌などに取り上げられていた写真家であり、散文調の詩文なども高い評価を得ていたことでも知られている。96年8月、カムチャッカ半島でクマに襲われ死亡したのちも、展覧会なども多数開かれるほど人気の高い作家だ。
 
 少しだけ自分語りをさせてもらえれば、この星野道夫という作家はぼくが文学という世界に足を踏み入れようとことに決めることになる、きっかけとなった人物だ。彼が撮った写真と、彼が綴った文章に魅了され、ぼくは自分でも文章を書き、そして風景を見つめるようになっていった。彼について書いた文章が幼いなりに高い評価を受け、表彰状を受け取りに行った少年の日のことを今でも覚えているほどだ。どれだけ創作に苦しむことがあっても、まるで北極星を眺めるように、ぼくの往く道を決めてくれる存在として、この本は本棚から見守ってくれていたのだ。

 さて、本作が発刊されたコンセプトについて触れていこう。もちろんシリーズに収録されている文章、写真は星野自身が自選したものでもない。写真と文章が並んでいる本といっても、グリズリーの写真の次のページに、まったく別の動物について触れられたりするなど、単純なフォトブックという様相も呈してはいない。

  極北の地での生命の営み、めぐりゆく命、語り継がれる神話、失われた時間の記憶……。夫によって紡がれようとしていた「物語」を新たな切り口で再現したいーーそうした思いからこの"Michio's Northern Dreams"が生まれました。                                                                                         『Michio's Northern Dreams 1 オーロラの彼方へ』文庫版あとがきより

 手元の文庫版にはこのようなことが書かれていた。上記の文章は星野の妻である星野直子のものだ。数年ぶりにこの部分を読んで、ぼくは密やかな驚きを感じていた。断片的に語られる詩でありエッセイでもあるような文章、連続性が存在しないような画像の羅列から、「物語」が紡がれようとしていたのだと、彼女は書いているのである。保守的な考え方で言えば、物語というものは一定の連続性において、同一性を備えた存在(分かりやすくいうとキャラクターのこと)が語っていく事象のことを指す。本シリーズはこういった、一つの時間を読者に示すようなものはなく、実際に何度も星野が赴いていたアラスカの旅を細分化し繋ぎ合わせた結果、現実の彼の旅の順序とは違う形での風景と文章を提示するものである。彼の人生を物語とするとしても、この本はその連続性すら無視をしている。
 有り体に言えば困惑した。このシリーズから見出されるべき物語とはなんだったのだろうかと。

 ぼくが非常に影響を受けている哲学者にゲオルグ・ジンメルという人物がいる。19世紀から20世紀に生きた生の哲学者の一人、簡単に言えば生きていくことを見つめていた哲学者だった、人生哲学について書いていたといえばもう少しまともな要約になるだろうか。
 
 彼の書いた文章に『風景の哲学』という文章がある。その内容は、人間が風景を見つめ、その景色に感動を覚えるという運動を見つめたものだった。本来なら単なる視覚情報でしかない風景に感情を動かされる際、人間は自らの気分を目の前の記号集合=風景に重ね合わせることによってなにかを感じているのである。という文章は、今でこそ映像作品などで散見される演出を予言しているものだった。もちろん、当時の映像の状態を考えれば、相互補助的に進んでいったことなのだろうが。

 ジンメルが書いた「気分」とはなにか。『風景の哲学』のなかでは自己が抱えている感情という規定から外れて議論が展開されることはなかったが、現代のぼくたちならもう少しこの「気分」に多様性があることを知っている。自分ではない誰かの感情をトレースして、その一端から物事を考えるという思考。感情移入というものだ。

 星野道夫の写真を見るとき、あるいは星野道夫が紡ごうとしていた「物語」を見出そうとする際に、ぼくたちはなにかに感情を仮託し、なんらかの「気分」を伴っているのだ。これは星野本人を指すのか、ぼくは違うと思う。星野が書いてきた文章のなかでかなり頻度が高く出現する単語がある。そしてそれは、先述したあとがきのなかでも登場しているのだ。

 ぼくたちは星野道夫がいう「生命」という言葉に感情移入をしているのではないか。この読書感想文も佳境に突入するわけだが、感情移入先として「生命」という単語が出てくるのはどうにも収まりが悪いと感じた人も多いだろう。ぼくたちは基本的に、人物やキャラクターに対して感情を預けることに慣れすぎているからこそそう思うはずなのだが、そもそもが感情の仮託先というものはジンメルのいった「風景」そのものであったりもしたのだ。ジンメルの書いたそれは、まさに自然物の集合体、あるいは天体などが該当する。ジンメルは風景に値するものとして、人工物ではないものと限定して論じていたのだ。――もっとも、この風景論は現在の文化を考える上ではおおいに欠落のある理論ではあるが――星野が書いた「生命」とは、植物やあるいは地平線を埋めつくすほどの動物の群れであったり、あるいはアラスカの空を彩ったオーロラなどであった。彼は彼の視線で物事を見ていたのではない、「生命」そのものに「気分」を重ねていたのであろう。
「風景」と「生命」は、まったくもって同じ言葉として定義可能なものだった。少なくとも星野の視覚のなかでは、ファインダーのなかでは。

 あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。                                                                                                    『Michio's Northern Dreams 5 大いなる旅路』より 

 ぼくはあまり、旅というものが好きではなかった。それでもこの冬、独りで1週間ほど国内を旅してまわった。乗ったことのない電車に乗り、歩いたことのない場所を歩いた。
 見たことのない風景で世界は満ちていた。会ったことのない生命で世界を満ちていた。ぼくはまだ、なにも知らない。

 星野の妻は「夫によって紡がれようとしていた」という表現をしていた。「紡がれた」と閉じられていない可能性はまだアラスカの風景に広がっているのだろう。

 彼の旅は終わっていない。それはぼくたちの旅が終わらないこと意味していて、終われないこともまた、意味している。

 終われない、逃れられない世界のことを、古く人間は地獄と呼んだ。この世界は地獄なのかもしれないが、星野の撮った世界は美しかった。

 美しい地獄の永劫を、少しでも描ける作家になりたい。いつか星野と会うことがあったなら、そのときのぼくはまた、新しい旅に出ていることだろうと夢想しながら。

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