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飲み会は腹が減るもの

 飲み会というものをご存じだろうか。

 知らないのならかなりのキッズと予想されるので、分からない漢字は大人の人に読んでもらってほしい。

 みなさんは飲み会というものが好きだろうか。ほぼすべての人間が、メンツによる、と答えると思う。ぼくだって当然そうだ。

 だがありがたいことに、つまらない飲み会というものには、ぼくはこれまで、あまり出会ってこなかった。職場でのそれも、学生時代のそれも、まあ捨てたものではないくらいの楽しみはあったし、今に至るまで飲み会というものを嫌だと思ったことはほとんどない。
 アルコール量だけ気を付ければ、たいていの場合飲み会で人は死なないし。

 ようするに、ぼくの人生における飲み会というものは、それなりに恵まれてきた、ということだ。

 先日行ってきた文学フリマ東京36というイベントに際し、(毎回のようではあるが)ぼくは他サークルの知人や、もはや知人ですらないような顔と名前が一致しないような人を交えて、飲み会を開いた。

 ぼくはその飲み会を思い出しつつ、あの人がやたら集まってはなんとなく話をして、美味いんだかもよく分からないおおよそ健康的ではない飲食物を嗜んではほぼ間違いなく中途半端に終わる集会をなんで開くのか、そしてそれについてどう思うのか、書いていこうと思う。


1 下戸、幹事をやる。


 ぼくは下戸だ。というくらいには酒に弱い。

 とはいっても酒が嫌いだというわけではなく、むしろ好きな酒が明確に存在しているくらいには、ちょびっとずつ飲んでいるという現状だ。舌で喜んでも肝臓で痛い目を見る、というなんとも嘆かわしい体質で生まれてきたぼくだが、正直飲むのも家で味わうのが一番美味しく感じるので、外で飲むことはほとんどない。

 ようするに、飲み会においてアルコールとは、ぼくにとっては無縁のものだ。

 一部の人種からすれば、ぼくが飲み会を好んでいるという事実は驚愕ものだろう。酒の飲めない飲み会などなんの意味があるのだ、と。まあ、たしかに「飲み」会っていうくらいだし、言わんとすることも分かる。

 下戸にもかかわらず幹事をする。強制されてもいないのに。つまりそれは、酒以外のことに楽しみを見出しているからこそ、そういった会を設けたいと思っているということなのだ。

 なにがそんなに楽しみなのか。もちろん人と話すことだ。見知った人もそうだし、たいして知らない人とも。
 飲み会というものは、それを同時に楽しめるという点において、サシで食事に行くのともまた違ったおもしろさを持っていると思う。次は、それについての話をしよう。

 

2 ぎこちなく、予想もできない。


 完全に初対面で、なんの繋がりもない人間と話すのはさすがにぼくも心の底から楽しめる気はしない。

 いやもちろん、ある程度話せるだけの社交性はあると思うし、なんなら完璧に知らない人と話すのならそれはそれで、べつのおもしろさがあることも理解できる。
 今回の記事でぼくが話したいのは、文学フリマのあとの飲み会というものは、なんとなく知っているけれど、よくは知らない人と話す、という醍醐味があるのだということだ。

 その不気味な感覚というもは、現代ならではなもののように思える。飲み会に来るメンツは事前にツイッターなどのSNS上で先んじて交流を持っているし、なんなら即売会でたいていの場合、声をかけ、このあとよろしく、なんて言って顔も分かった状態で店に集まるのだ。

 少し前の時代なら、多少の交流は持てていたとしても、ここまで入り込んでその人を知ることはなかっただろう。今なら日常的なつぶやきだとか、そこから滲み出るひととなりを感じ取り、この人ってこんな人なのだろう、という予想のもとに答え合わせをしていく。

 文フリ後の集まりは、すごくニッチな領域でのおもしろさが詰まっている。

 そして、それだけ情報が入ってきているにもかかわらず、初対面でなに話そうかと考えてしまう。というのがミソなのだ。知っていると、知らないのはざま。コンビニでいつもレジを打ってくれている人との顔見知り感、といえばなんとなくむず痒さが伝わるのだろうか。

 ぼくは飲み会が始まるときの、ぼくを含めただれもがなんとなく知り合いと固まりつつ、それでも会ったことのない知っている人へぎこちなくアプローチをかけている時間が、「飲み会に来た」とワクワクする瞬間で、好きだ。

 予想もできない楽しい時間というものは、だいたいちょっとだけ不安な時間のあとに来るものだから。


3 飲み会は腹が減るもの。


 ぼくは喋るやつだ。それは否定できない。いちおう宣伝をしておくと、定期的にツイキャスで配信などもしているので、よければ遊びにきてくれるとありがたい。



ここから見られるので、見たい人は見てほしい。そうでないなら、いい。


 
 配信の様子などを見ていただけるとだいたいそのままで、ぼくは飲み会でもぺちゃくちゃとどうでもいいことからそうでもないことまで、適当に喋る。とにかく喋る。頭が痛くなるくらいに。

 意識しているのは、飲み会の序盤はトップギアでいっさいの休みなく喋るということだ。

 前述したように、ぼくが主催する飲み会はぼくにとってすら初対面に近い人も来る。そういうときに実践したいのは、相手に喋らせる、ということだ。

 一見矛盾しているような心掛けと行動だが、これが案外効果的だ。

 飲み会におそるおそるやってきた人にしてみれば、いきなりぶっちぎって自分のしたい話をできるわけもないのだし、ホストのこちら側がなるべく話題を作り、論点をまずは作ろうとするべきだ。

 だからぼくは飲み会の最初に多く喋り、相手が喋りたいと思うことを思いがけず発掘できるように努める。ありがたいことに文フリ後の飲み会はみんなクリエーターだし、相手の作品の話が鉄板だ。それ以外でも、イベントの状態だとか、設営とか、最悪自分が創作の面で悩んでいることを聞いてもらってもいい。

 ぼくが喋れば、相手が話しやすい環境を作ることができる。だから最初はなるべく喋って、相手からの反論や同意を待つのだ。

 まあそんな様子を見て、ぼくのことを「喋れるコミュ障」と思う人もいるだろう。ならばぼくは、その人を話を聞くことにしたい。よろしく頼んだ。

 ちなみにこの作戦には驚異的な弱点がある。ぼくが喋っているということは、その間になにかを食べることができないのだ。

 今回の文フリ飲みのときも、3時間半でオレンジジュース2杯、フライドポテトを少々、という食事で乗り切った。イベントのときもまともに食べてはいないので、まあぜんぜん食べていない、というやつだろう。

 飲み会のあとの恒例行事は、帰り道にコンビニ寄ってなにかしらの弁当を買うことだ。

 飲み会は腹が減る。ぼくにとっては当たり前のことなのだ。


4 話し足りない、それに賭けたい。


 なぜそこまでやって、飲み会を開きたいと思うのか。

 核心的な話だが、ぼくにはまともな回答がないので、その謎はだれかべつの人が解き明かしてくれればいい。

 なんとなく、楽しいとか幸せ、という理由で飲み会を開いている人間にたいした哲学があるわけもない。ぼくは酒ではないものに酔っているだけの、おそらくは愚か者だ。

 ただそれでもひとつ思いつくことがあるとすれば、ぼくが飲み会を愛しているのは、行けば必ず「話した足りない」と思うからだ。

 10人で集まれば、当たり前だが全員と同じだけ喋れるわけもない。あの人と話したかった、あの話ができなかった、と悔やまれることばかりだ。バカなのかと自分でも思う。

 ならばどうするのか。

 もちろん、もう一度飲み会を開く。

 あるいはべつの機会を設けて、サシで飲んだり、ほかの数人で集まったりする。

 これがあるから飲み会は楽しいのだ。足りないと思うからこそ、次の機会を作るしかなくなる。人間関係というものは、恋愛の比喩を持ち出すまでもなく、ひと晩の楽しみよりも継続した交流のほうがよりおもしろい他者を知れる。

 一回の飲み会で自分を分かってもらおうと、相手を全部知ろうと思っても叶うわけもない。

 飲み会とは爪痕を残す場ではなく、足掛かりを作る場所だ。
 人間はたいてい、明日死んだりはしない。だから、次に会う機会を作るために、気を配ったり、逆に突っ込んで話をしたり聞いたりするべきなのだ。

 それを忘れてしまってはいけない。

 飲み会に恵まれてきたひとりの人間として、それを強く言ってから、今日はこのあたりで終わろうと思う。

 読んでくれてありがとう。お幸せに。



(宣伝ポイントがなかったので、容赦なくリンクを置いておくので、よければどうぞ。よろしくないなら、いい)

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