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明治青年の失恋物語 タイプB

ほんの感想です。 No.19 武者小路実篤作「お目出たき人」明治44年(1911年)発表

日本近代文学と呼ばれる作品を読んでいると、恋に苦悩する青年(時には中年)を描いたものが、少なからずあります。中でも、二葉亭四迷「浮雲」夏目漱石「三四郎」では、相手の気持ちがわからず、思い悩み、悶々とする青年の様子が印象的でした。

いずれも、あまりのじれったさに、「自分の気持ちをはっきりと告げて、相手がどう思ったのか確認しろ!」、と声を掛けたくなる作品です。

これが大人の恋であれば、「何らかの理由で、恋する相手に疑いを持ってしまった後、不信が膨らむ」、という状況下で、当事者の関係改善、あるいは悪化が、物語のコンセプトになるかと思います。

比べると、大人の恋の苦悩が重苦しく感じられることに対し、青年の苦悩には、初々しさともどかしさを感じる、ということでしょうか。

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ところが、恋する青年の物語、武者小路実篤「お目出たき人」には、また、異なる趣がありました。青年は恋する女性との結婚話が進まず、苦しむのですが、その恋情が、彼のこだわりと連動していることから、可笑しみを伴っているのです。

主人公は、26歳の青年。彼は、近所に住む「鶴」という少女を見初め、足掛け5年に渡り、彼女との結婚のために工作を進めてきました。まず、二年近くをかけて、父母から「鶴」との結婚に承諾を得ました。その後、使者を立て、「鶴」の家に結婚の申し込みをします。その申し込みは、「鶴にはまだ結婚は早い」という理由で二度断られます。それでも、諦めない主人公は、三度目の申し込みをします。

実は、主人公は、「鶴」と話したことはありません。彼女の家が引っ越した後、彼は、女学校帰りの「鶴」を待ち伏せたりしますが、彼女に声をかけることはできません。それなのに、「鶴も自分を恋している」「自分と夫婦になることが鶴の幸せ」と、度々考えるようになります。

「鶴」の人となりも知らず、見初めた容姿を自分の理想と思い込み、結婚に向けて具体的行動をする主人公の様は、現代の感覚からすると、押しつけがましい。そして、その押しつけがましさに気が付かない点に、時代の隔たりを感じます。

ただ、ひとつ主人公を擁護できるのは、彼が、自分の理想に向けて掲げたルールに縛られている、という点です。未だ女性を知らない主人公は、「自分は女に飢えている」と、苦し気な言葉を何度も発します(この言葉は、作品中、十回登場します)。そして、「鶴と結婚しなければ、自分の女性への渇望は癒されない」と信じているのです。

「鶴」以外の女性には眼もくれず、ひたすら彼女との結婚を望む主人公ですが、彼が、そのルールを破れば、「鶴」への思いは、自然と消えていく気がします。この、主人公のルールへのこだわりは、当時の青年が何を大切に考えていたか、という意味で、別の興味がわきます。

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以上の感想を持った作品ですが、次に掲げた、最後の二行を読み、しみじみと、「お目出たき人」というタイトルの秀逸さを感じました。

しかし鶴が「妾(わたし)は、一度も貴君のことを思ったことはありません」と自ら云おうとも、自分はそれは口だけだ、少なくとも鶴の意識だけだと思ふにちがいない。

この武者小路実篤のセンスに、ホッとさせられ、「お目出たき人」に可笑しみを感じたのだと思いました。

ここまで読んでくださり、どうもありがとうございました。


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