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「漢方」は中国医学の「江戸ルネッサンス」だった

        写真:『傷寒論』とその著者・張仲景(Wikipediaより) 

 今日は、漢方がどういう経路をたどって現代日本に受け継がれてきたのかを考えてみる。

 その始まりは中国の後漢の時代にある。張仲景という人物が『傷寒論』を著して、ここに中国の医学の基本形が成立した。
 それは同時に「漢方」に近い治療体系の成立でもあった。

 それから1000年足らず、中国医学は宋(960~1279)の時代を頂点にして、以後、発展を止めてしまう。
 その理由は、陰陽五行説といった思弁的で観念的な哲学の影響を受けすぎたからだと考えられる。

 実際、宋の時代に書かれた医学書には、病人の生年月日や発病時期から判断して治療方針を立てるといった記述がある。いわば「占い」にも似た理論が登場したのだ。

 それに対して日本では、これとは異なる発展が始まった。
 つまり、江戸時代の初めに、中国の医学の古典『傷寒論』の考え方に回帰すべきだと考える古法派が登場する。彼らは、観念的な理論よりも、実践的な効果を重視した。

 その後、江戸時代中期には、吉益東洞をはじめ、優れた漢医が出て、科学的な医学研究の道を開いた。で、古方派が、日本の漢方界を代表する学派になっていった。

 こうした流れに加えて、江戸中期には自ら人体を解剖し、その結果を『蔵志』という本にまとめた山脇東洋のような医家も出た。
 中国の宋以後の医学と異なり、日本では医学の実証性が確実に高まっていったのである。

 これを一言でいえば、
 「江戸時代に『漢方ルネサンス』が起こった」
 とでもいえようか。

 ただ、ひたすら西欧近代への拝跪を旨とする明治政府は、医療制度の根幹をなす学問の基礎を西洋医学に切り替える。
 結果、漢方は衰退を余儀なくされることになったのである。

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