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死にたがりだった14歳の私へ。31歳の私は叫ぶ「生きていて良かっただろう!」

10代は自分のことが大嫌いだった。自傷行為もした。
20代前半は仕事も恋愛も人生そのものが絶好調だった。
20代後半に突然婚約破棄になってイギリスワーホリに出た。
31歳の今は2度目の退職から再び世界へ旅に出る。

そんなKorinの激動の人生を振り返る、超絶詳しく超絶長いプロフィール
これを読めばあなたは立派なKorinマスター

Korin爆誕

1987年11月14日 京都に生まれる

13日に産気づいた母、分娩室に移動するもその後私は生まれ出ることを拒否
12時間以上にわたって胎内に立ちこもり続け、母は分娩室に缶詰状態に。
私の反抗心は遺伝子レベルで装備されていた。笑

絵本の読み聞かせで育った私は、今でも本が大好き
小さなころは誕生日プレゼントを聞かれるたびに「図書室」と答えていたくらい

幼稚園時代

とにかく人見知りとは全く無縁な子ども

海水浴場で、「わたし、こりんっていうの。おねーちゃんはどっからきたの?なんておなまえ?」とお姉さんばかりをナンパしていた話は、今でも親族間では鉄板のネタ

とにかくじっとすることが苦手な子ども

一発退場事件続発
入園式で音楽に合わせて手を叩きながら踊りまくる →退場させられる
お弁当の時間に走り回りヤカンをひっくり返す →退場させられる
男の子数人あいてに大立ち回り →退場させられる
昼寝の時間に断固として寝ない →退場させられる
運動会で決まったコースを走らない →退場させられる


幼稚園の記憶は先生に怒られて、部屋から追い出され、秘密の隠れ家であった倉庫裏でひたすら泥団子をキラキラに磨いていたこと。笑
なんで自分だけがこんな風に扱われるのか、どうしてほかの子は大人しく先生の言うことを聞けるのか、疑問だらけだった。
思えば私の「学校嫌い」は幼稚園から既に始まっていた。

小学校時代

6年間成し遂げたこと
・「整理整頓」がんばりましょうを取り続けた
・休み時間はすべて「図書室」に費やした
・誰かと一緒にトイレにいくことを断り続けた
・小学館の「英会話教室」を皆勤で通った

とにかく友達には恵まれなかった

低学年の時、誕生日会をして友達を呼んだところ、当時そこまで裕福ではなかった我が家をみて、ある子が一言、「せまい家、おもんな」って言ってきた。それ以来、私は一切の誕生日会や友達を呼ぶことをやめた。自分が心から楽しいと思っている空間を批判する輩を徹底的に排除するためである。
まぁその子は何かと私に絡み、嫌なことを言い、未だにその子の名前を思い出すだけで嫌な気持ちになる。笑

あと「友達とお揃いの何か」とか「一緒にトイレに行く」とかが全く理解できず、常に孤独である傾向が高かった。高学年になるとまた新たないじめっ子が現れて纏わりつかれて・・・あぁぁぁぁ。

とにかく運動はマジで無理

運動神経を忘れて生まれた私は、ド級の運動音痴
逆上がりはできないのはもちろん、走るのもめちゃくちゃ遅いし、跳び箱は上に乗ることしかできず、マット運動での前転は必ずマットから落ちるし、飛んでくるボールにはすべて目をつむっちゃう。

なので必然的に休み時間はすべて「図書室」に費やされた。

とにかく英語が好き

唯一の救いは、英文科を卒業したのに英語が話せないことを悔やんでいた母が、子どもには英語を話せるようになって欲しいと独断で契約してきた「英会話教室」結局これが大好きになり、中学卒業までの10年間週1回通い続けた。

とにかく作文が得意

本を読むのが好きだったからか、作文は割と得意でしょっちゅう何かに入選していた。6年生の時には環境問題について書いたものが、何かの金賞をとって「環境国際子どもサミット」というサミットに招待してもらい、世界の子どもたちと討論会みたいなこともした。若き日の池上彰さんが司会だった。

ちなみにテレビに映っているのが私w

この時何よりうれしかったのが、副賞での図書券「2万円分!」笑
500円券で入ってたから札束みたいで、本当に本当に嬉しかった!


中学校時代

幼稚園児の時からから周りに合わせる、ということが苦手でそれは小学生の時も同じ、ということで必然的に「自分は誰なのか、自分とは何なのか」を考えざるを得ないような機会が多かった。

特に13歳くらいになりある程度「自我」というものも確率してくると、どうして周りは「普通のこと」として受け入れ、行動していることなのに、なぜか自分はその手前で立ち止まって、考えてしまうのだろうと悩むことがどんどん増えていった。

当然10年と少ししか生きていない私にはその答えに到底たどりつけるわけもなく、「変わっている」という理由だけで排除されてしまう教室が息苦しくて仕方がなかった。

忘れもしない、中1の冬

近所の餅つき大会で、クラスメイトがたくさんいて、見知った顔もたくさんいた輪に近づいていった。ちょっと挨拶くらいしようと、そんな気持ちだっただけなのに。

すると、キレイに示し合わせたように、その輪は一瞬会話をとめ小さく閉じていった。

その輪は私に背を向けた。

そして何事もなかったかのように楽しいおしゃべりが再開した。誰とも目は合わなかった。以来、私は空気となった。

今でもあの時の光景はスローモーションで覚えている。なぜそうなったのか、後々誰かに理由を聞いたが、忘れてしまうくらいにくだらないことだった。こんなくだらない理由で、空気になるくらいなら、もう誰ともかかわらなくていいと思った。

自分が誰かわからないまま、なんとなく狭くて退屈だと思う箱の中に押し込められて、このまま自分が自分でないままで生きて行くくらいなら、自分だけがこの世界に疑問を持って生きているのだとしたら

いっそもう終わりにしてしまおうか

そう思う時が何度もあった。

明日が来なくなれば良いと長いながら眠りについた数えきれない夜のことも、今でもずっと心のどこかで覚えている。

14歳の夏休みに行った「アメリカ留学」

そんな人生の迷走を極め続ける娘の行く末を案じた両親が、14歳の夏休みに、私を人生初の飛行機、人生初の海外、4週間の夏休みアメリカ短期留学に送り込んでくれた。

振り返ればここが私の人生の原点。大きなターニングポイント。

外の世界を知った。それも、とんでもなく広い世界を。
それは文字通り「世界を目の当たりにした」瞬間で、この時の影響力って当時自覚していた以上に強かった。

自分の住む世界以外に、暮らす人々がいる。

今の自分のいる世界を苦しいと思っていも、
いつか抜け出して、ここではないどこかへ行ける。

それはどこまでも、力強く私の今後の人生を支えてくれることになった。
そして英語が楽しくて、楽しくて、自分に少し自信もついた。

帰国後は「アメリカに行っていた生意気なやつ」という理由でさらに空気と化したが、もう私の目は違う世界に向けられていて、「英語科」のある私立の高校合格を確定させてからは、ほとんど学校には行かなかった。


高校時代

正直いって、私はこの頃もずっと自分の事がキライで仕方がなかった
「自分は誰なのか、何のために生まれてきたのか」の答えをいつまでたっても見つけられない。周りはそんなことに躓いている風でもなく、楽しそうに日常生活を送っているのに…。

今、「自分のことが好きか」と聞かれたら、「好きだ」と即答出来る。

それは31年生きてきた上での経験と、選択の積み重ねにそれなりに満足できるようになったから、なのだと思う。

自分を好きになる、というのは、実は結構時間のかかることなのだと、気づいたのは、きっとこうやって大人になってからだ。


16歳でクラス全員でのニュージーランド短期留学

学校のプログラムでクラス全員でニュージーランドへ6週間の留学へ。地元の高校に数名ずつ小分けになって通った。ここではアメリカでは全くなかったホームシックにもなった。人生初めてのホームシック。

家族と離れて、そして久しぶりに国際電話で声を聴いたときの安心感、そして現地での学校が始まり、たった数日だったけれども会えなかったクラスメイトとの再会で胸に溢れた喜び。

ニュージーランドは北の島の、一番上の方にある小さな町で、16歳の私は自分に改めて問いかけた。私は誰で、そしてどこに行こうとしているのかを。

そして、自分がいかに周りに大切にされているかを痛感して、日記に書きなぐっていた言葉がここに。

井の中の蛙は、確かに大海を知らない。
でも、井の中の蛙は自分が今までいた世界での空の深さは知っているー。
井の中の蛙は大海に出て、それまでの自分の世界の小ささではなく自分自身の小ささに気が付きました。自分自身の弱さや、甘えに気が付きました。
今までどんなに自分自身が恵まれていたかを知りました。
ここで蛙は思い知ったのです。
自分の愚かさを、自分の恥を、自分の無知を。

結局は「自分の小さな世界」に逃げ込んでいただけだった

「自分とは何か、何のために生まれていたのか」そんなことを考えて殻に引きこもっていたのは、結局自分が傷つきたくなかったから。人と向き合うことに言い訳をつくって逃げていただけ、そう気づくことが出来た。

帰国後、まずは学校の友達との関係づくりを遅ればせながら始めた。

孤独に逃げ込むのはやめて、世界は自ら広げないといけないのだと悟ったから。そして、得たものは、そう、卒業して10年以上たったことを笑いあえる数人の友達がいること。


さんざん悩んで、だんだんと自我が固まった。

1週間や1年じゃない。約10年かけて、私はようやく自分で納得のできる「自分」というものを手に入れた。

「良い子」になろうとしてなりきれなくて、「普通」とは何かを真剣に考えて逆に暴走してしまったり、いろんな失敗を繰り返してきた。
「普通」のことが出来ない自分を罰する意味で、自傷行為も繰り返した。私の左手にはたくさんその時の名残がある。

まぁ、それでもさ人は変われば変わるものなんだよね。
今はもうとにかく何でもなんとかなると思っているし、考えても考えてもよくわからない「生きる理由」は、

ただ心の赴くままに、ありのままに楽しく生きれば良いんだと。

「楽しく全力で生きること」それが理由なんだっていつのまにか思えるようになった。誰よりも「自分とは何か」を探してきたおかげで、私は強くなったし、芯ができた。

おそらく一生ぶれることのない「軸」が。


大学時代

英語が好きで、英語に支えられて生きてきたような私なのに、なぜか大学では外語大学に入るわけでも、英文科に進むわけでも、ましてや海外の大学に進学する、ということもなく、ただ一つどうしても「面白そうな授業がある」という理由だけで地元の大学の社会学部に進学。

そんな大学時代は、ほとんどすべての時間を「服屋のアルバイト」に費やしていた。明けてもくれてもバイト、バイト、バイト、バイト。

バイトのシフトの手薄さを埋めるために、大学を休んででもシフトに貢献していた(笑)

18歳になり自由に動けるようになってからは、とにかく海外旅行によく出かけた。行先は主にヨーロッパ、バイトのお金をためては休み期間に海外に飛び出す生活を続けた。


社会人時代

4年間続けたアパレルのバイトが楽しく、そして何よりWebテストやSPIなどのテストが死ぬほど嫌だった私は、「面接重視・人柄重視」の会社のみ受ける就活をした。

その結果アパレル系の卸問屋に無事就職が決定。

バックやストールなどの服飾雑貨のバイヤー兼売場責任者をやることに。
中国・タイ・ベトナム・韓国などのアジア圏に商品の買い付けに行ったり、自社商品の開発などにも携わったり、話せば長くなるなんでもやってる業務内容。裁量性が高く、割と自由になんでもやらせてもらえる環境は本当に私に適していたと思う。

大学卒業直前から付き合い始めた彼氏とも喧嘩をすることもなくラブラブで、とにかく毎日が楽しかった。

辞めたくなるような事もあったし、日頃のイライラだって多々あったけど、それでもそれなりに楽しく働いたし、何より自分の性格にもよくあう仕事だと満足していました。


27歳の誕生日目前の大事件

社会人になって4年半。

彼氏との付き合いも4年半。

そして同棲も開始して早2年が過ぎたころ、ずっとずっと結婚を意識してきた彼氏からついに夢のようなプロポーズを受けた。

人生最高、最も幸福な時間から3か月後

突然彼氏から「結婚できない、別れて欲しい」と告げられる。

式場も決まり、衣装も決まり、日取りも決まり、あとは招待状を送るのみ!だった式の準備、私の幸せへのバージンロードは瞬時に白紙となった。

それはもう泣いたよ。泣くに泣いたよ。多分生まれた瞬間よりも長く、多く泣いたよ。朝が来たら泣き、通勤途中に泣き、カップルを見れば泣き、結婚式場のCMでも泣き、親の顔を見れば泣き、食べたラーメンが美味しくても泣き、2人で住んでいた家に独りで帰る、その帰り道は必ず泣きながら帰って。

そして「わかりました。あなたと別れます」って答えたの、
27歳の私の誕生日当日だからね。笑

それでもさ、世界は終わらないから。
ここより、もっと広い世界があるから。

そう、2人での人生は終わったとしても、私個人としての人生はこれからも続いていく。だから、改めて自分の生きたい人生を生きようと再起

長年の夢だった「海外に長く暮らす」夢を叶えるために、イギリスのワーキングホリデーの抽選に申し込むことに。

人生の扉が閉ざされてしまったとしても、必ず別の扉はあくものだ。

倍率は10~30倍と噂されるイギリスのワーキングホリデーの抽選に当選

婚約破棄から1年後、仕事を退職しイギリスに渡ることにした。

当時の気持ちをありのままに綴った関連記事はこちら↓


会社を退職

社内一広い売場と売上げ年間2億ほどを持ってて、仕入れからディスプレイから接客から在庫管理からをすべてやってきた。

自分の売場は商品はほんと子供みたいなものだと思っていた。

だから、もっとなんか離れがたいというか、自分が築き上げて拡大してきたものをあっさりそのまま他人に譲渡するのってどうなんだろう・・・

なんて驚くほど高飛車なことを考えたりしていたけれど、実際に退職してみると、寂しさも惜しさも何にもなかった。

実感する時間もないままバタバタと退職してしまった、というのもあるし
それ以上に、職場の同僚・上司・取引先・お客様、皆さんからあまりに気持ちよく送り出していただいて、しかも渡英後は「戻ってくることを前提」で皆様お話してくださっていたので、なんだか本当に辞めたのか、はたまた長期の無給休暇を得ているようなそんな気持ちだった。

後悔は何一つない

辞めたこと、いまの立ち位置にいること、婚約が破綻してからここまで実際に行動してみても、やはり後悔はひとつもない。あの時結婚していれば、と思うことだってないことはないけれど、それ以上にこれからの人生にワクワク出来ている自分がいた。

強がりでもなんでもなく、心から自然体に、今でも後悔は微塵もない。
仕事への未練も後悔もないのも、きっとすべては

自分で決めたことだから。

これって私の中では、魔法のような言葉だと思っている。
そして絶大なる力を持っていて、しかも半端ない力で効いてくる。
今ならたとえ何がおこっても、理不尽なことがあっても、笑って生きれる。
私の人生は常に、今この瞬間が、頂点、なのだと笑える気がする。

ウジウジと色んな事を考えすぎていた10代の頃とは打って変わって、倍近い年齢の28歳になった私は、どこまでも自分の生き方、考え方に誇りを持てるようになっていた。


フィリピン留学を経てイギリス2年のワーホリ生活

とにかく楽しかった。毎日が楽しかった。

フラれちゃったんならさ、
良いチャンスだよ、ラッキーだったんだよ!
やりたかったこと、この際全部やっちゃいなよ!
そんな気分になっていた。

英語が出来なくて、悔しくて泣いた日もあった。
1度や2度じゃない、悔しくて不甲斐なくて歯がゆくて泣いた日が。

でもそれがいつの間にか、かけがえのない友達が出来た喜びの涙に。
英語での接客でお客様に1万円近いチップを貰った感動の涙に。
10代の頃に憧れ続けた場所で働き始めた誇りの涙に。
離れがたい友達との別れに、再開の約束をした時の涙に変わっていった。


あこがれだった、ずっと住んでみたかったロンドンでの生活は本当に夢のような時間だった。

だから私は「ワーホリに目的なんて別にどうだっていい」と思っている。

自分の人生は常に自分だけのもの。
海外に出て孤独になって改めて意識出来た。

日本から出るだけで、こんなに俯瞰的に物事を、そして自分を見れるようになるのかってびっくりする。そして楽になる。
誰のことも知らない、何もしがらみのない、まさに自由な世界で
本当に欲しいものは何かを、ゆっくり考えてみるのって贅沢な時間だよ。

旅をして、新しい人と出会って、美しい景色を見て、美味しいものをたべて。ゆっくり自分を大事にして、力を貯めていけば良いんだよ。

確かに1度世界は、私のことを要らないと突き放した。
それでも世界は一つじゃない。
運命の人も一人じゃない。

だからまずはこれ以上泣けない、ってところまで泣いて、
その人のこと、諦める落ち着きを取り戻せたら、
旅に出る支度を始めましょう。

例えどんな選択をしても、自分を恥じる必要はどこにもない。どんな失敗も、間違いも、全部、自分の物語だ。ネタだ。糧だ。

だからワーホリの目的を決める必要なんてない。

仕事をしないと意味がないとか、企業に勤めたいだとか、旅行に行こうだとか、遊び尽くそうだとか、バーテンやろうが、事務職しようが、無職満喫しようが、自由でいいじゃないか。

だって自分の人生なんだから。

結局誰かの決めた価値観、枠組みの中で生きている限りは、何を経験しても、どこへ行っても、日常への不満は棄てられない。自分の物語を手に入れることができれば、自分の言葉で語ることができるようになれば、道は拓かれていくと私は信じていたい。

自分の生き方に誇りをもって生きる人生の楽しさを実感した2年間だった。

イギリスワーホリのビザが切れた後に、更にマルタで3ヶ月過ごし、2018年4月に日本に帰国した私は30歳になっていた。このマルタでもまたまた大事件が起こるんだけれど、あまりに長すぎるので省略。
お時間ある場合は、ぜひこちらをご覧ください。そのへんの映画よりかははるかに面白い内容になってると自負しています。笑


辞めた会社に復職

2年半前に退職を申し出た時、確かに上司も同僚も先輩たちも「戻ってくるんでしょ」と当然のように話しかけてくれていた。それでも当時は本当に戻るなんて夢にも思わなかったし、そんな契約はおろか約束をしていたわけでもなかった。

それが帰国直前のタイミングで「マレーシアで新規事業をしようかと思っているから、戻ってきて手伝わないか?」とありがたいお声がけをいただき、本当に復職することに。

それからは毎月マレーシアに渡り、現地の人と仕事をすることに。

人生は本当に思ってもみないことがたくさんおこる(笑)

このマレーシアでの仕事は、不思議なくらいこれまでの人生経験が生きていて、運命は言い過ぎだけど、縁というかなんというか、生きてて幸せだなーって思えることもたくさんあった。


2019年3月8日、私は同じ会社を2度辞める

プロジェクトに参加した当初はワクワクしていた。輪郭もおぼろげな計画、初めていく国、誰もやった事のない仕事、今までの知識と経験も活かせる仕事。裁量権も最大限にある。

でも、続ければ続けるほど、進めば進むほど、経営陣と会議をすればするほど、私の熱は冷めていった。もう、ワクワクもドキドキも、誰かが心から笑顔になるイメージも消え去ってしまった。理由はいろいろ。

ただただ、私は嫌なことを、違和感を持ちながらお金が貰えるからとやり続けるのが嫌だった。誰かが幸せになってくれない仕事は嫌だった。

現時点での私の行動原理はすべて勘違いと思い込みによるものだ。先の具体的な見通しはたってない。

「アフリカに行きたい」「インドかカンボジアで就職しようかな」
こんな感じのザックリした筋書きがあるだけだ。

アフリカのチケットはもう取った。
アジア就職のための転職活動は絶賛進行中。

転職活動の一環として、人生の棚卸をして、自分がどういう人間なのか、何を生きがいに出来る人間なのか、そういうことを改めて考えた。

その時に思ったんだよね。

今の私の「最高の状態」には、過去のどんな些細な失敗も悩みもそのすべてが、成功してきたこと以上に不可欠だったんだなって。

「死にたい」とか「自分の存在価値とは」

そんな一見ものすごくネガティブなことを考えてこなければ、今の私はここには存在しない。ワクワクした自分の物語が欲しい!なんて考えには至らなかったと思う。

明日笑って死ねる人に

一度きりの人生、生き方はいくらでも選べるこの時代に、自分の生きる時間を自分の中で価値を見出せないことに割くのが、我慢ならなかったのだ。


そして私には、妙な自信がある。


物事はどうにでもなり、大体の事はなんとかなる、と。


選択肢があるのに、
やれば出来るのに、
それをやらないのは、
我慢という美徳ではなく、ただの怠慢だ。


日本ってどうしても閉鎖的で、目に見えない大きな流れがいつもあって、それに飲み込まれないように、でも流れに乗り遅れないように、かといって上手く乗りすぎてもダメだし、下手だと溺れてしまうしなんだろ、”息苦しさ”というなんかそんな感じの淀みがある。

そこから実はあっさりと抜け出せる、ってこと頭ではわかっていても、やっぱり抜け出すのってすごい怖さがある。

だってさ、この国はあまりに(個人的には特に女性に)”役割を忠実に演じること”を強制させすぎている、と思う。

女性はこうでなくては、結婚したらこうでなくては、母親とはこうでなくてはナラナイ、イケナイ、ユルサレナイ。

そしてそれに抵抗しているつもりなのに、その役割を同じように他人に、
あまつさえ自分に強制していることに気づいたのも随分と経ってから。

どんなにトンがった中高時代を過ごしても、結局、ツノをおり、ツメをきり、キバを収め、生きてきた。「普通」になろう、それが幸せへの最短距、いつの間にかそう言い聞かせて型にはめ込もうとしていた。


5年前の私なら、微塵も疑問に思わなかった。正社員で働いて、結婚して、家庭を作って生きていくことは、当たり前のことだったんだ。疑問はあっても、レールから外れることは、だれか大切な人を裏切ってしまうことだと恐れた。


そんな、自分が今更、獣になって走り回るなど、鎖を切る力があるとも思ってなかった。人生プランをすべて覆される「婚約破棄」という大事件が起こるまでは。

本当は何一つ我慢なんてしなくていいんだよ。
誰かのための人生を生きなくてもいい。

本来はワガママに、ありのままに、
自分の生きたい、自分だけの人生を、
「己の物語」を紡げばいいんだよ。

役割に忠実に生きなくてもいい。

会社を辞めても、それですぐにフリーランスになろうとか、起業しようだとかそんなことは今のところ考えてはいない。副業としてライターにとっても興味があって、少しずつ挑戦はしているけれど。


自由は何も組織の歯車には全くないわけではない。私はまた近いうちに、どこかに属することになるだろう。


だから、ある意味では強制力というのは効果的だ。
失恋はチャンスだよ。挫折はチャンスだよ。
「普通に出来ない」は最大のチャンスなんだよ。

前回は自らの意思ではない強制終了。

今回は自らの意志で行う強制終了。

どこまで飛べるか。
どこまでいけるか。


広い世界がみたい。
たくさんの人に出会いたい。


生きるからには、生きると決めたからには、ワクワクしていたい。


「普通であるかどうか」なんて、もう、本当に、心から、
どうでもいい。


私は私の物語を生きる。

自分だけにしか紡げない物語を。

出来ればそんな仲間をたくさん増やしたい。


31歳、私はとんでもなくワガママだ。

よくいく居酒屋のハイボールは、1杯190円です。もちろん深い意味はありません。