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大学と社会の関わりについて考えてみました

なかなか過ごしやすい気候が続いていますね。
小理屈野郎はここしばらく頑固な腰痛に悩まされていて、コルセットを着けて生活しています。
少しずつましにはなってきているのですが少しうっとうしいです。

この間の日曜日、ふと朝日新聞を読んでいて下段の新刊書籍広告欄で題名と、キャッチコピーにピンときて購入し、読んでみました。

「研究は頭の悪い人がやるものである」
「教養とは使い道のわからないガラクタのようなものである」
等と挑発的な台詞が並んでいました。
それに大学なのに「野蛮」ってというところも引っかかったのでした。

内容は非常に論理的で実際にその通りと思われるところもたくさんありました。
大学のあり方を真剣に考えており、これからの社会のためにも非常に参考になる意見だなあと思いました。

さて、内容を少し細かく見ていきましょう。

・2020年のコロナ禍は大学の存在を改めて問うことになった。

→現在の大学で行っているのはオンライン授業ですべて片付くようなものだけである。
→教科書的な知識だけにとどまらない「何か」を得たいという欲求から大学に来ている。
→その一つとして「大学というコミュニティー」もある。教育や研究を行う上でも教員と学生が大学というコミュニティーで同じ空気を吸いながら交流することに大きな意味がある。

そう考えると、大学って何か、ということになりますよね。
小理屈野郎は大学は単科大学でした。そして卒業後資格を取らなくてはならない仕事についていますので、授業や実習に関する限りは「専門学校」とある意味変わりはなかったのかなと思いました。
ただし、友達との付き合いはすごく楽しかったです。
今でも5年ごとに同期会をやっています。
大学時代ってよかったよね、というのは突き詰めて考えると友達たちとの「コミュニティー」に対する懐かしい思いなのかもしれません。

・この頃の教育を巡る事情と学生気質

→著者に言わせると大学とは、授業に出るのも出ないのも自由。その内容を自分で勉強することが大事、という風に考えるべき。
→文科省は大学の専門学校化を進めてしまった。それによって大学生も真面目になった(出席率が異常に高い)。
→授業をサボることに罪悪感を抱いているので、サボった人に対して自粛警察をするような学生もいる。

以上のようなことから著者は次のように言っています


※大学に求められているのは、学生対が自ら新しいレールを敷けるようになるための教育。

今の大学の状況は完全な(上級)専門学校となってしまっているのかもしれません。


・昔の大学の役目


→昔は知識を得ることが非常に難しかった。(本が高価な貴重品だった)。そのため大学の授業で先生が板書する用法が極めて大きな価値があった

だから板書だけして教科書を棒読みするような先生がいたのだ、と思いました。なんでこんな授業するんかな、と思っていましたが、これである意味納得が行きました。
おそらく著者もそのような講義をする先生のこと疑問に思っている人が多数いると考えているんでしょうね。


→大学の入試問題は大学から受験生へのメッセージのようなもの。
確かに私が受験生の時はそうだったと思います。入試問題のフィーリングが合うところに入学したいな、と思って勉強してました。

・アカデミズムの問題


下々の者が知らぬ情報をたっぷり蓄積されているから大学には存在価値があるという発想;情報の非対称性がひどく学者が情報を寡占していた時代はこれでも善かったが現在は通用しない。
東日本大震災に伴う福島の原発事故もアカデミズムの権威が揺らいだ大きな出来事;アカデミズムが正しいといっていることが正しくなかったということ。
権威はもはや失われているので隠し事をせずアカデミズムの仕事の意味や価値をストレートに社会に伝え、それを理解してもらうことが必要
→「頭がよくて失敗も間違いも犯さない」という建前がまるで科学者の本質であるかのように誤解されている。
学術研究は本来野蛮な営みであることをきちんと認める必要がある(科学に対する世間の誤解を解く)ということでしょう。

著者は以下のようにも言っています。

研究者は「野蛮で頭の悪い命知らずな連中がいろんなことをやっている」と思ってもらえばよい
予測できない未来のことについては「まあ、あいつらも一生懸命に研究しているんだからいろいろ言うことを参考にしておこうか」と話半分に聞いてもらえばよい。


→自分が面白くてやっていることが必ずしも世の中にとって新しい価値を持つわけではないことは自覚する必要はある(ただし、卑下する必要はないと思います)
→貴重な資金を提供してもらうので、それを当然のように権威ぶって偉そうに振る舞うのは現に慎むべき。

このように研究者においても社会に対してのしっかりとした倫理観や考え方を求めているところに著者の心意気を感じます。

・本当のアカデミズムとは


→99%の失敗と1%の成功が混在する野蛮な所。そんな中で「これ何か面白そう」ということについて研究して何かがわかる喜びを知るところ。
→わかったことはどこまで役に立つかわからないのほど(=ガラクタ)だが、それがたくさん集積していることで思わぬ力を発揮する。

・大学に対する社会の最近の要請


→すぐにビジネスに直結するような技術開発や即戦力として使える人材の供給
→研究に選択と集中を強いる。
→科学技術を過信した結果、科学技術の発展が停滞するという皮肉な事態を招いている。

博士課程修了生は専門的な仕事をそのまま突き詰めたいという気持ちがあります。企業の方はそこまでの専門性はいらないと来ている。これが博士課程修了生が企業に勤められない原因でしょう。大学でどんなことをしているのかを企業に対してしっかり説明していないというのも問題の一端ではありそうです。

・京大学生の変人さ(アホさと著者は言っている)はかなりのもの。

京大生のことについて書いているところもたくさんあるのですが、かなり笑えます。これを読むためにこの本を読んでもいいぐらい面白いです。

私も京大卒の人たちと仕事をしたことはありますが、大きく2種類に分かれるように思います。(もちろんはまらない人もいますが)

1.本当に頭の回転がよく、性格ものほほんとしていてせかせかしたところがない。人間的にも尊敬できる人

2.ガリ勉タイプ。そりゃ、京大に入学するぐらいだから勉強をアホほどしたんだと思います。こういう人は得てして人がうまく行きそうになったら邪魔をしたり、蹴落としたりします。

割合としては前者:後者が6:4ぐらいかと感じています。

・研究とは


→研究している本人もその先に何があるのかよくわかっていない。
→その周囲の人間ももちろんわかっていない。

研究については著者の言葉で非常にビビッドに表現されています。少し長くなりますが引用して見ますね。


そこに謎や不思議がある限り「ああでもない、こうでもない」と無駄な遠回りをしながら解明の努力を繰り返すのが研究。
誰も手をつけていない研究テーマは、いわば人跡未踏の森みたいなもの。そこには道はない。しかし誰かがそこに踏み込んであれこれ研究すると、その後ろに獣道ができています。後から森に入った人はその獣道をたどりつつも、途中から違う方向に何かを見つけて踏み込んでいくかもしれません。たくさんの研究者がそこに入れば、いずれ道がきれいに整備され、詳細な地図も作られるでしょう。そうやって学問体系が確立され、教科書も整備される。

→研究者を育てるには荒野を切り開いていくために必要な野蛮な作法を身につけさせる必要がある
これこそが大学での教育ではないでしょうか?

筆者がうまい表現をしていました。

将来うまくいきそうな役に立つ研究に対して選択的に資金を集中させるのは「あたり馬券だけを買いたい」というのと同じナンセンスな手法。

→ソニーやホンダなどは「選択と集中」で効率よくイノベーションを起こしていないはず。無駄が出るのを承知の上で野蛮なチャレンジを重ねている。
→研究の楽しさを超え意見して卒業した学生たちは、それぞれの場で社会を豊かにする仕事をできるはず。

・米国の教育と日本の教育の違い


米国は先にフロンティアに踏み込む野蛮さを教える教育をする。だからこそ三角関数を高校で習わない。野蛮さから知識に飢えている状態から大学に進むのでたくさん勉強をしなくてはならないが、効率的に吸収できると思われる。むしろアメリカの大学は元々専門学校的なところがある。
日本ではまずは知識をしっかり入れてから大学に入学する。日本型の教育では大学で野蛮さを教えることになっていた。だからこそ大学には自由な気風があふれているのだろう。

日本の高等教育と米国(他の国と言ってもいいと思う)を比べるにはこのような差異を押さえなければ無意味に近いと思います。

・日本の研究者と海外の研究者のスタンスの違い


→西洋人は一神教を信じていてすべての条件を一発で満たす解を見つけることこそ神様に近づいた証なのでスマートな解を求めることが多い。
→日本人は世の中に八百万の神がいて一人ですべての条件を完璧に満たすことができないと考え。お互いに妥協しながらすべての条件を満たすよう組み合わさっているように思います。だからこそ例えば推論の途中に虚数が出てくることが不安定と考える。その説明を避けるためにかなり遠回りした説明をしても、それでも納得がいく。

・著者の考える教養とは


すぐに役に立たないがいざというときに自分を助けてくれる武器になるもの。
→不確実な世界を生き抜くためには設定した目的にかなった道具だけを備えても不測の事態にには対応できない。そんなとき武器になる可能性を秘めているのが目的もなしに身につけていた「教養」
肉体で言うと「脂肪」のようなもの
興味という嗅覚で学んでいくもの

・「結果重視」の社会に対して


→いくら合理的な努力を重ねても思うような結果が出ないことの方が多い
→努力の結果がどちらに転ぶかは運不運による。
→目的の達成から逆算して必要なことだけを効率よく身につけることに注目しすぎると教養はおろそかになる。

・これからの大学

著者が提言しているこれからの大学像は以下のようなものです。

→大学が生涯学習を受け持つ
→会社の福利厚生として大学に行くことを推奨する。その間の収入は企業は保証する。
→大学では研究の野蛮さを教える

このようなことができれば大学の本質を産学ともに捉えることができるようになり必要な人材も補強されるし、研究活動も活発化するはずだとおもいます。
そうなるにはもう少し企業側も時間の制約を気にしないようにならなければならないと思います。

・これからの日本


→野蛮さの重要性を理解できなければ日本に勝ち目はない。
→「目的のはっきりしない行動」を嫌悪する風潮(目的を持たない人間は成長しないとか目的をはっきりと示さない人間はリーダーとして失格だ等)がある

これが私がいつも感じている「生き急ぎ」や「時間の制約を気にしすぎる」こととつながってくると思います。
→こんな状況だからノーベル賞受賞者はこれから減ってくるだろう。

理性が暴走して原理主義的な正義を振りかざす人が増えているように思います。これの典型はコロナ禍における「自粛警察」でしょう。
これは大学が理性を世の中に広めた結果かもしれません。そしてそれがあたかもすべてと扱ったマスコミ等にも問題があるのかもしれない。

・まとめ


今回は大学について大学人が考えた本を読んでみました。
今回この本で言う「野蛮さは」最近で言う「ワイルドさ」みたいなものと感じました。
「生き急ぎ」が結果としてすべてに表れているような気がします。私達も含めみんなが短期的スタンスから長期的スタンスを変えたり、もう少しいろいろなことに"遊び"を設ける必要があるのではないでしょうか?大学での教育という観点から社会との関わりまで非常に広範囲の内容を考察していました。また京大生の生態を垣間見ることができ非常に面白かったです。

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