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視力 見え方について考えてみた

最近視力について気になることが何回かあったので、視力や見え方について思索を行ってみました。

具体的には小理屈野郎がよく家内に「あなたは目が悪いから」と言われるのです。
確かに目は悪い(強度近視と乱視、それに最近は老眼も加わっています)です。しかし、ちゃんとコンタクトレンズを装用しているし、本を読むときは老眼鏡をかけて集中できる程度には十分見えているはずです。
何回か眼科でコンタクト購入時に検眼してもらったり、眼鏡屋で老眼鏡を調整してもらったり(かなり精密に乱視の角度を合わせてもらった上で老眼鏡を作ってもらいました)しても、まだ、「あなたは目が悪いから」と言われます。

何でそこまで言われるか(笑)、ということで今回の思索を行ってみたのでした。

まずは視力や視野について実際人間の体の中ではどのようなことが起こっているかを考えてみました。

視力は網膜に映ったものを大脳が処理して見えていると認識する

実際に見えるというのはどういうことか?

・まずは景色などが網膜に映る。
網膜に映った像は網膜上の細胞が電気信号に変え視神経に送り込む。
・視神経に送り込まれた電気信号は視床の外側膝状体という所に送られ、さらに後頭葉の一時視覚野(V1)へと伝えられる。
その後二次視覚野(V2)、側頭葉へと向かうへ向かう視覚経路と頭頂葉へと向かう視覚経路に分岐する。
・側頭葉への経路は、主に外界の物体の形状を認識する働きがある。
・頭頂葉への経路は、物体の位置を認識し、そこに手を伸ばす等の動作に決定的役割を果たす。

脳科学辞典 wiki

以上が見える、ということの概略です。

同じものを見ていても見え方(見方)が違う

解剖学・脳科学的に見てみると非常にややこしそうに思いますが、ポイントとしては自分が見ているものは見たものを脳が再構築し、認識していると言うことがポイントだと思いました。

その上で、同じものを見ていても人によって反応が違うことが結構あることに気づきました。
例えば下記のような現象です。

見えるもの全てにピントが合ってないとイヤな人が居る。

手元も、遠くもカリッとピントが合っていないとイヤな人

カメラで言うと絞りをしっかり絞って、風景の写真を撮るようなものです。(ピントの合っている範囲が非常に広くなる)
人によってはピントが合いすぎていて一瞬見るだけなら大丈夫だけど、長く見ていると気分が悪くなる、という人も居ますね。
輪郭がしっかりしていて見ていて気持ちいいと小理屈野郎は思います

なんとなく全体が見えていたらそれでOKの人も居る

手元もなんとなくぼんやり、遠くもなんとなくぼんやりだけど、先ほどの脳の画像認識の話で言うと、どんなものか、ということが認識できているのでそれで十分、という風に考えている人だと思います。

全体的にどこにどんなものがあるかと言うことがなんとなく分かっているので大きな間違いをしないし、その見え方で大きなトラブルを起こさないので、これでOKと言うことなんだと思います。

小理屈野郎はぼんやりの画像でものの認識はできるけど、なんかはっきりしないことがあまり好きではありません。
ぼんやりしていることに気をとられてしまって、イライラしそうです(笑)

もちろんどちらがいいというわけではなく、その人の今までのものの見え方による指向だと思います。

見えるもののピントの指向は性格の問題?

ぼんやりピントとカリッとピント、どちらに指向しているかというのは性格の問題だけなのか、と考えてみました。
ちなみに小理屈野郎は見えているもの全てにピントが合っていないと気が済まないタイプです。
小理屈野郎は小学3年生から近視でメガネをかけ出しており、中学2年からはコンタクトレンズを装用しています。度数で言うと強度近視になるレベルになってしまっています。乱視も近視が進むごとに出てきており、乱視を矯正しなければ見えている像が2重に見えたり歪んだりして大変です。コンタクトレンスはソフトレンズを現在は使用していますが乱視用のものを装用しています。
コンタクトレンズを選択するときやメガネを作成してもらうときに検眼を行ってもらいます。長期間メガネやコンタクトを使っているので検眼をしてもらいきっちり見えている感覚を何度も強制的に味わっているわけです。
小理屈野郎は、検眼して新しいコンタクトやメガネを作るごとに新しい世界が見えたような気がしてうれしい気分になったことを思い出しました。

ただ単によく見える、ということを知らないだけ?

逆にぼんやり視野でOKという人は、ただ単によく見える、ということを知らないからかも知れませんね。
元々ある程度目がよくてメガネやコンタクトを使用する必要が無い人については検眼をまずしませんから、見え方はこんなもの、と思うし、実際にそれで問題が起こっていないから、そのままになりますね。
また、検眼をして新しいコンタクトやメガネを作ったときに度を合わせすぎて(検眼士の方に伺ってみると実際はきっちり合ったところから1段落としたぐらいの矯正力のものを使用すると気持ちよく見えている感覚になるようです)、見えすぎてしんどい、という経験をしていると、ぼんやりでOKと言うことになるかも知れませんね。

しっかりと検眼して本当に見えることを知った方がよい?

こういう風に考えると、視野がくっきりしている方がいいと考えると、視力がある程度よくてメガネが必要ではない人でもしっかりと検眼をして本当に見えることを知った方がよいかも知れません。
ただし上述のようにしっかりと合わせすぎて、しんどくなるかも知れないので、これもその人の見え方の指向、そしてその人の年齢なんかも影響するかも知れないと思いました。

見え方を気にするようになれば見方が変わるか?

また、見え方を気にするようになれば、自然とカリッとピントの方に近づくと思います。しかし検眼士さんがあまりにもガチガチの矯正力のメガネを提供すると、ぼんやりピントの方に行ってしまうかも知れませんね。この辺は指向と検眼士の人との相性もあるかもしれません。

見えすぎるとイヤなものも鮮明に見えてくる

カリッとピントの場合は全てにピントが合っているのでイヤなものにも鮮明にピントが合ってくることになります。
ただし脳内の認識の方で調整することがあるので見えていてもスルーしているような状態にになれば問題ないと思われます。
また、ぼんやりピントでもこれはと思うところは認識が強くなるわけでそれによって思いのほか見えている状態になっているとか、見たいものに寄ったり離れたりしてもう少しピントを調整してこれはというものを見ているのかも知れないなと思いました。

なんとなく見えていれば俯瞰はしやすいか?

なんとなく見えていると全体で認識している可能性があり、そういう意味では全体を俯瞰できているのでしょうか?
俯瞰という意味ではあまりピントは関係ないかも知れません。そういう意味ではカリッとピントでもぼんやりピントでもあまり違わないのではないかと思いました。

メガネ?カチューシャ?

この文章を書いていてメガネのことでふと思い出したのですが、私は元々近視と乱視があるのでメガネをメガネとしてしか見ていませんでした。
元々目がよくてメガネを普段から使っていない人の場合はサングラスをかけていて外したいときは額に乗せたり頭にカチューシャのように乗せる人が居ますが、これはメガネを常用している人はあまり思いつかない発想だなと思いました。
老眼でメガネの付け外しが多くなっている小理屈野郎ですが、メガネを外す場合は、額や頭にかけるのではなく自然と外して机の上に置いたり、ネックチェーンを付けていてネックレスのようにだらーんとぶら下げたりしていますね。こうしないとフレームが歪んだりしてカリッとピントが合わなくなってきますので。
これも見え方がぼんやりピントでOKな人や元々メガネをかけていない人なら普通にやることだと思い、納得しました。

まとめ

小理屈野郎が「目が悪い」と言われるので、視力や見え方について思索を行ってみました。
今回気づいたことは、家内が言っている「目が悪い」と小理屈野郎が認識している「目が悪い」というのは一致していなかったと言うことが分かりました。
家内は「認識しているべきものが認識できていない」という意味で、私は「見えていない」という意味で「目が悪い」と言ったり認識したりしているということに気づきました。
認識についてはなかなか直すことは難しいですが、家内の言っていることもある意味理解できたと思っています。
相互理解の道のりは長そうです…


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