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「偉そうにする」ことには何の価値もないことに気づこう

田舎の町に住んでいると、まるでこの町では誰よりも偉いという顔をして歩いている人に出くわすことがある。
後から聞いてみると元々は祖父の代が町を取り仕切っていた人物だったり、市議会議員だったり、地元企業の役員だったり、何かヒストリーや肩書きがあるらしい。

たかだか人口が5万人もいないような小さな町で、自分がその中の頂点にいるような気分で周囲を見下し肩を振って歩いている。

そういう人を見てつくづく思うのが、
「しょうもないな」ということ。
だってここはたかだか人口が5万人もいないような町だ。そして人口は減り続けている。10年後や20年後にはそれが何万人になっているのだろうか。
山の頂上に立って下にいる人たちを見下しているつもりなのかもしれないが、その山は年々削れて小さくなってきている。

東京やニューヨークやロンドンで一番となると偉そうにしたくなる気持ちも出てしまうかもしれないが、こんな小さな町で偉そうにする視野の狭さに辟易する。

そもそもに、「偉そうにする」ということには何の価値もない。
世の中で価値があることには全て共通点があるような気がする。
それが
「問題を解決する力」
と、
「物事を想像する力」だ。

世の中には常に様々な問題がある。少子高齢化・経済成長率・食料自給率・犯罪率・環境問題・いじめ・自殺率など、数えていけばキリがない。
個人の問題でも誰しもが常に悩みや問題を抱えて向き合いながら生きているだろう。

新しいものも世の中に生み出していく必要がある。新しい法律・食べ物・技術・平和・幸せ・感動など、これも数えていけばキリがない。
今よりももっと豊かになるために、常に人は新しいものを生み出し続けている。

世の中にあるほぼ全ての物事はこの問題解決と新しい創造のどちらかに割り当てられており、実は気づいていないだけで誰しもがそのどちらかの役割を自然と担っている。

しかしこの「問題を解決する力」と「物事を想像する力」のどちらにも、「偉そうにする」という行為は全く役に立たない。
偉そうにしても出生率は上がらない。偉そうにしても犯罪率は減らない。偉そうにしても平和は訪れない。偉そうにしても人は感動しない。
偉そうにしても、何の問題を解決させる力もなければ、何も新しいものも生み出さない。
だから偉そうにすることに意味はない。

でも時折り偉そうにしたくて堪らない人が世の中にいる。
全く無意味なことにも気づかずに、今日もふんぞりかえって山の頂上に立った気分になっている。
偉そうにする理由は、本人がただ気持ちよくなりたいだけだ。
偉そうにしている最中に、脳内ではどんな物質が分泌されて駆け回っているのだろう。
「自分はこの人よりも偉い」
そう思って今の地位を満喫している間にも、世の中は日々動き続けている。

だから思う。
「しょうもない」と。そんなことしてる場合じゃないと。付き合っている暇はないと。
誰もが問題を抱えているし、誰もが新しい物事を創造している。
それに向き合いながら紡ぎ続けるこれからの世の中に、「偉そうにする」という無価値な行為は邪魔でしかない。

偉そうにしたい人の相手をしているほど、自分たちは暇じゃない。

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