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武士の内職から始まった日本一の名物【山形県天童市】

今回は前回の秋田県横手市からのしりとりで、山形県天童市の名物についてご紹介します。

山形県横手市は山形県の東部にあり、人口は約6万人の街です。
山形市のベッドタウンとしても栄えており、市の中心部から山形自動車道やJR奥羽本線に行きやすく、山形空港にも近い場所にあります。

天童市の街並み


天童市の名物


そんな天童市の名物は将棋の駒。
天童市で作られる将棋の駒の生産数は日本一で、多くの駒はこの天童市で作られています。

天童市で将棋の駒が作られ始めた歴史は、江戸時代末期まで遡ります。
当時、武士の中でもいわゆる下級武士というランクの低い武士は全国どこでもとても貧しい暮らしをしていました。
藩からもらえる給料だけではとても家族全員が食べていくことができず、仕方なく傘を作ったり鳥籠を作ったりといった内職をしながら生活をしていました。
生きるために仕方なくやっていた内職ですが、下級とは言え武士が内職をしながらお金を稼ぐことは時には恥ずかしい姿としても見られていました。

さらに作物の不作なども重なり、藩は財政難に陥っていました。そのような状況では武士たちの給料アップなどはすることができません。それでなんとか武士が自分たちで内職をして稼いでもらうことを藩としても推奨したのです。

そのオススメの内職として考えられたのが、将棋の駒作りでした。
恥ずかしさが伴う武士の内職ですが、藩からは「将棋は兵法にも通ずるものだ。その駒を作るのだから恥ずかしくはない!」という理屈と製法を下級武士たちに広め、将棋の駒作りであれば堂々と内職しても良いという意識に変えました。

その結果藩内で将棋の駒作りが広がっていき、明治時代からも天童市の一大産業になります。やがて機械での物づくりが進んだ明治時代後期から昭和にかけて日本一の生産数にまでなります。


天童将棋駒


天童市で作られた将棋の駒は「天童将棋駒」と呼ばれます。

将棋の駒は作る時に表面に文字を掘って漆を塗る手法もありますが、天童将棋駒は表面に漆で直接文字を書く手法になります。
天童将棋駒の書体は草書体が使われ、躍動感のある文字は見るだけでもとてもカッコ良いです。

駒に使う木材は、上質として知られる鹿児島県の薩摩ツゲや東京都の御蔵島ツゲです。
木で作られるので駒に木目があるのですが、その中でも孔雀杢と呼ばれる木目があるものは最高級になります。これは一通りの駒セットを作るために数十本の原木が必要で、当然数は少なく珍しいものになります。

上質な原木から作られた天童将棋駒は、見た目の美しさもあり、持つと手に馴染みやすく、駒を指した時のパチンという音もとても綺麗です。
プロの将棋を見ていると駒を指すたびに部屋に響き渡るようなパチンという音がしますが、もしかするとそれも天童将棋駒が使われているからかもしれません。
将棋初心者の方でも、天童将棋駒を使うとまるで自分が名人になったかのような気分になれます。



人間将棋


天童市は天童将棋駒に因んだ名前やイベントがあります。
街の中にかかっている橋も「王将橋」や「金将橋」に「銀賞橋」など将棋の駒の名前が付いています。

さらには人を将棋の駒に見立てて行われる人間将棋は大人気の有名イベントです。実際にプロの棋士が指示を出しながら駒になった人たちを動かす光景は、毎年多くの方が集まって楽しまれます。
春に行われることから開催地である舞鶴山には桜が咲き乱れ、桜の美しさと人間将棋の面白さを同時に楽しむことができます。

人間将棋の様子


天童市では今でも伝統の技術を受け継ぐ職人たちの手によって日本国内で使われるほぼ全ての将棋駒が生まれています。今では天童将棋駒が生まれた時の直接文字を書く手法だけではなく、掘って漆を塗る手法のものも作られています。

作業は分断化されており、駒木地を作る人、文字を書く人、文字を掘る人、漆を塗る人など、多くの職人さんの手によって作られていきます。もちろんそのどれもが簡単にはできず熟練の技によってこそできるものです。
特に文字を書く作業は文字の太さや擦れ具合など書き上げた文字に差が出ることで、職人さんによって違いがあります。

天童市に行って実際に将棋駒を見てみると、きっとあなた好みのお気に入り駒が見つかるかもしれません。
実際に将棋を指すだけではなく、眺めているだけでも夢中になれる伝統の技が一つ一つの駒に宿っています。

将棋好きな方はぜひとも天童市の将棋駒を実際に見て触れてみてください。


次回は天童市からのしりとりで、「う」から始まる市とその名物についてご紹介します。
ここまで読んでいただきありがとうございます。

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