大学受験のための映画講義#3

こんにちは。
與那覇開です。「大学受験のための映画講義」の第3回目をお送りします。
さて、今回は、ポン・ジュノ監督の『グエムル』(韓国 2006)、そして『シン・ゴジラ』(日本 2016)を取り上げてみたいと思います。『グエムル』も『シン・ゴジラ』も、どちらもジャンル的にはモンスター・パニック映画に括られます。一般的に、この種の映画では、突如出現した怪物が平穏な生活を攪乱しカオスをもたらしますが、最終的には、その怪物は退治され、秩序が再編成されるという形で物語は幕を閉じます。エンタメとしては以上のような読解で構わないわけですが、しかし、私はここにひとつの政治論を持ち込みたい。というのは、怪物の出現は、社会に例外状況を作り、国家の本質を露呈させるからです。カール・シュミット曰く、「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」(『政治神学』)。緊急事態においてこそ、国家は超法規的に振舞うことができる。法が宙吊りになることで、権力の暴力性や恣意性が平常の空間を突き破って溢れてくる。まさに例外状況においてこそ、国家が本当にやりたいことが露呈されるのです。怪物映画と国家の問題は不可分に結びついています。

『グエムル』あらすじ

監督のポン・ジュノは、『パラサイト』が第72回カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞したことをきっかけとして、日本でも多くの人が知ることとなりました。第92回アカデミー賞では、アジア勢で初のアカデミー作品賞を受賞するなど、韓国映画の快進撃を第一線で引っ張ってきました。パラサイトは韓国の格差社会を描いたものとしてその社会性が注目されましたが、私はむしろ、ポン・ジュノの政治意識は『グエムル』において如実に表れているように感じます。グエムル(괴물)というのは、韓国語で怪物という意味です。米軍施設内からの大量の医薬品が韓江に不法投棄されたことで、奇妙な小動物が誕生する。これがグエムルです。『グエムル』の映画として面白いところは、パニック・モンスター映画の文法から逸脱して、怪物が人々を襲撃する場面が序盤に描かれることです。一般的なパニック映画の作りだと、状況→認識→行動というパターンを取り出せるわけですが、『グエムル』はこの「状況→認識」のタイムラグがない等しい。対照的なのが、日本映画の『ゴジラ』(1954)で、こちらはまず映画の冒頭でゴジラが人々を襲撃する場面を描いているのですが、それがゴジラであるという認識に至るまでにはだいぶ時間がかかる。国会答弁で専門家を召喚して意見を聞き、かつ現地調査を行って、そこで初めてジュラ紀の怪物ゴジラに遭遇するという流れになります。『グエムル』はこのタイムラグを極小にまで縮めることで、序盤にしてこの怪物にどう対処するのかという難題が用意されることになり、巧妙な作りになっています。この映画の主人公パク一家は、韓江でピクニックを楽しむお客さん相手に商売をしているのですが、突然の怪物出現に、お客さんと同様、パニックに陥り、逃げ回ります。カンドゥ(ソン・ガンホ)は一人娘ヒョンソ(コン・アソン)の手を握りながら必死で逃げ回りますが、群れる人混みのなか転倒。一瞬、ヒョンソと離れた隙に、怪物はヒョンソの身体を持ち上げ、漢江の底へ消えていくのでした。後日、未曾有の怪物襲撃の犠牲となった集団葬儀が行われます。そこで、あの地べたで身をもだえながら泣き叫ぶ有名な場面のあと、怪物のウイルスに感染してるかもしれないということで、カンドゥは病院に強制連行されます。カンドゥが、検査を翌日に控えた夜、ひそかに夜食を食しているときに、突然携帯がなります。それは、なんとヒョンソからでした。電波のせいで声は明瞭ではありませんが、「下水溝のところにいる。助けて」というヒョンソの声が聞こえてきます。ヒョンソは怪物に連れ去られたとはいえ、まだ食べられてはいなかった。ここから、パク一家のヒョンソ奪還作戦が始まるのです。

『シン・ゴジラ』あらすじ

『シン・ゴジラ』は、2016年に公開されました。同年には、新海誠監督の『君の名』が注目を集めましたが、『シン・ゴジラ』も日本人に強烈な印象を与えました。ゴジラは、1954年の第一作をはじめとして、以降、シリーズ化されています(ちなみに、私は第一作と『シン・ゴジラ』しか観ていません)。第一作の『ゴジラ』(1954)は、同年に起きた第五福竜丸事件を踏まえていることは明らかであり、ゴジラの誕生を水爆実験と結びつけて語るのは、敗戦国のひとつのナショナリズムだと見ることができます。『シン・ゴジラ』においても、閣僚が米軍の野放図な態度に不快感をしめしたりしますが、ゴジラ退治のために在日米軍の協力を要請してもいるので、そこまで反米色は強くありません。『シン・ゴジラ』は、怪獣の突然の出現に慌てふためきながら、スピード感のある政治決断の連続で、実にリアリティがあります。肩書きや会議の名称、おまけに「以降、省略」などという随所にテロップが入ることで、SNS的な臨場感まで演出できています。一回目の上陸で東京を荒らしまくったゴジラの前に日本政府はただただ傍観するしかありません。そして、何の備えもできないままに、ゴジラの二度目の来襲を受けます。さらにパワーアップしたゴジラに対して、自衛隊が撃退を試みますが、ゴジラはかすり傷ひとつつかず、反対に自衛隊がやられてしまう始末です。頼みの米軍でも対応できず、ゴジラは東京を火の海にし、首都としての機能を完全に崩壊します。そんな中、国連はゴジラを撃退するために、熱核爆弾の使用を決定。日本もなくなく同意せざるをえません。第二次大戦中、二度の原子爆弾の被爆を受け、「過ちは繰り返しませぬから」と誓ったこの国で第三の原爆が落とされようとしている。お気づきの方も多かったと思いますが、映画内で広島・長崎の原爆投下の写真が挿入されており、被爆国としてのジレンマをよく描けていると思います。この最悪の事態を回避するために矢口内閣官房副長官(長谷川博己)は、最後の賭けとしてヤシオリ作戦を実行します。

怪物と国家

『グエムル』と『シン・ゴジラ』は、どちらも間違いなく傑作です。しかし、このふたつの映画で描かれている国家の姿はあまりにも対照的です。『シン・ゴジラ』が、「怪物対国家」という設定なのに対して、『グエムル』では、怪物と戦うのは娘を奪われた家族なのです。『シン・ゴジラ』=怪物対国家、『グエムル』=怪物対家族。この怪物との関係設定が、最大の違いです。『シン・ゴジラ』は、既存の法と照らし合わせながら、現在できることをスピード感をもって対処する国家の姿が描かれます。そこに、何より国民の命を守るために行動する英雄的存在の矢口内閣官房副長官がいます。官民一体となって国難に対処する姿は、「国よ、かくあれかし」と叫びたくなるものがあります。しかし、『グエムル』を見て思うのは、この怪物を国家がどうしたいのかが分からないことです。『シン・ゴジラ』では、閣僚たちが怪物への対処策として捕獲、駆除、排除をめぐっての議論があるのですが、『グエムル』では一切そういったやりとりは行われていません。怪物に名前すらつけない。とはいえ、国家の存在がそこに描かれていないわけではありません。むしろ、国家は市民の脅威として現れてくる。カンドゥが怪物のウイルスを宿していると疑われ、監禁されていることからも分かるように、『グエムル』のなかでの国家は、怪物がばらまくウイルスだけを問題視している。カンドゥは、一旦、病院を逃げ出しますが、その間、指名手配とされ、逮捕された後は、隔離施設に移され、ほぼ人体実験のような扱いをうけます。いったい、どのような法的根拠をもってカンドゥはこのような扱いを受けなければならないのでしょうか。ここまで見てきたように、怪物の出現という例外状況をきっかけとして、両者の映画の国家像は大きく異なります。『シン・ゴジラ』では、国民を守る国家の正統性をより強化する物語になっているのに対して、『グエムル』では、怪物のウイルス感染者を隔離監視するという権力の抑圧性を描き、市民を脅かす得体のしれないものとして国家が捉えられています。両者は、同じ怪物という主題を扱いつつも、その国家の描き方は正反対だと言えます。

社会契約説とはなにか

そもそも、国家とはなんでしょうか。その答えのひとつとして、社会契約説があります。公民の時間で学んだと思いますが、社会契約説とは国家の起源を問う学問です。社会契約論の嚆矢であるホッブズは、国家以前の状態は、「万人の万人に対する闘争」だと言いました。人間は自己保存を行動原理とする欲求主体であり、それぞれが思い思いに行動すれば必ずどこかで衝突が起こる。二人の欲求を超越する法や裁判などのようなものがない限り、最終的には殺し合いにまで至りかねない。そこでは、各自が自らの生命と財産を守るために武装せざるをえない。人々の欲求を調整する超越的な審判者がいなければ、人は常に闘争状態を強いられる。この状態を「自然状態」と言います。ホッブズいわく、「ここでの人の一生は、孤独で、貧しく、醜く、野蛮で、しかも短い」(『リヴァイアサン』13章)。そこで、人々はこの自然状態を避けるために、絶対的な権力を打ち立て、その超越者に自らの生存権を委ねることで己れの安寧を図ろうとします。これが社会契約説の観点から見た国家の起源の説明になります。ただ、ホッブズの社会契約説は、大きな問題が二つあります。まず、誰が最初に武装放棄するのか、そのプロセスが一切明示されていないことです(ホッブズ問題)。みんなが武装放棄したら平和になるとはいっても、最初に武装放棄をしたひとを皆んなが裏切って、やっぱり武器は渡さないってことはありえます。それどころか、最初に武装放棄した人が弱体化したことをチャンスとしてその人の財産を奪うかもしれない。そんなリスクのあることをわざわざ最初に行うひとはいませんよね。つまり、この武装放棄はその時点で国家権力による超越性を前提にしてます。さらに、これが一番大事なところですが、ホッブズの理論だと、国家権力の行うことが全て正しいことになる。だって、国家権力に全ての権利を明け渡したのだから。なので、ホッブズの社会契約説は非常に評判が悪い。実際、ホッブズの理論が絶対王政の擁護に利用されたことも、評判を悪くしている一因でしょう。実際、この後、ロック、ルソーと続く社会契約論の流れは、ホッブズの理論の練り直しです。しかし、内田義彦は、ホッブズの理論にも、国家を相対化する視点があるといいます。以下の文章を読んでみましょう。2015年九州大学・現代文からの出題文です。

(ホッブズの法の考えは)あくまで人間の自己保全のための手段にすぎない。自明のもの、自己目的として捉えられているのは、ここでは人間たちだけです。それが自然状態を設定したという意味でありまして、ですから、なぜルールがいるか、なぜ国家が権力をもたねばならぬかということを証明する責任は、ここではまったく道徳、ルールや国家の諸制度の側におかれています。(略)論証の前提、論証の過程そのものについていうと、自明のものとするのは人間だけであって、ルールは自明なものの存在のためにある。だから論証されねばならんという形になっています。それですからホッブズ自体の立てた前提に立って、またホッブズ自体の論理を使って、ホッブズをくつがえすことが可能となります。この点が、社会科学上ホッブズのもつ非常に大きな意味です。(「社会認識の歩み」『内田義彦著作集第4巻』岩波書店)

つまり、そもそも国家というのは、人々の自明性の上に成り立つものである。であるから、国家の正当性は、国家の側が論証する責任がある、ということです。したがって、その説明責任を果たせなければ国家としての正当性を失うと、こういうわけですね。そもそも自らの安寧と平和のために、あえて唯一の絶対権力を構築したのだから、その国家が成員の安寧と平和を約束できなければ、国家の正当性はないですよね。まさにホッブズの理論でホッブズを批判することもできるわけです。内田氏のこのようなホッブズ読解は目から鱗でした。この点から考えると、『シン・ゴジラ』では、国民を守る国家の姿を当然視して描いていますが、これはホッブズ的な社会契約説をそのまま踏襲しているといっていいでしょう。一方で、『グエムル』は、国家の抑圧性の方を描くことで、国家と市民の間に緊張状態を作ってます。これはホッブズ的な社会契約説への異議申し立てと言っていいでしょう。さて、現在(2021年6月)、怪物ではありませんが、コロナ・パンデミックによって例外状況の政治が現出しています。『シン・ゴジラ』で描かれる政治とは真逆に、スピード感もなく、決断力もなく、無策の繰り返し、腹を切る覚悟のある政治家もいません。あろうかことか、専門家の意見を無視してオリンピックを強行しようとまでしています。例外状況において現れた国家の姿は、国民を守る国家ではなく、国民を抑圧する国家でした。ポン・ジュノ監督のすごさは、エンタメ映画を作りつつも、非常に高度で正確な政治感覚を映画の中に散りばめていることです。『シン・ゴジラ』で描かれる、スピード感のある政治、決断力できる実行力、政治生命を賭ける政治家というのは、こうであってほしいという日本人の憧れが投影されたものでしょう。しかし、憧れは憧れです。今の日本はゴジラが来てもオリンピックやりそうですもんね(終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?