大学受験のための映画講義 #1

次の文章が信州大学(2014年)の現代文で出題されました。

構造災の一般的なメカニズムの手がかりは、経路依存性理論を広げて、組み替えることにある。経路依存性理論とは、何の変哲もない状態からきわめて強く構造化された状態が帰結する過程を理論的に記述、説明する道具である。たとえば、性能がほぼ同等で型の異なる技術が複数存在する状態から、特定の型の技術が全域を覆い、他の型の技術が参入する余地がほとんどないような状態へといたる過程が見本例となる。(松本三和夫『構造災』岩波新書、55頁)                    

科学技術がもたらすリスクの原因のひとつとして、「構造災」があります。文字通り、技術のエラーは、それを扱う人間の所作にあるのではなく、技術が抱えている構造そのものに起因するという考え方です。つまり、構造災とは「科学と技術と社会のあいだの界面(インターフェイス)で起こる災害」のことです(前掲、3頁)。合理的な科学技術の体系に人間集合体である社会が介入するときに、ある種の歪みが発生して、エラーを構造的に抱えてしまうようになる。たとえば、技術Aが社会に普及したとします。その後、技術Aよりも効率的で低リスクの技術Bが誕生したとします。そうした場合、技術Aを放棄して、技術Bに乗り換えるのが合理的な判断です。しかし、ときとして人間は、なぜか技術Bへの変更を選択せず、技術Bよりも効率が悪くリスクの高い技術Aにしがみついてしまうことがある。なぜ、こうしたことが起こるのでしょうか。

パソコンのキーワードの文字配列は左からQWERTYという並びになっています。どうしてこのような並びになっているのでしょう。それは、タイプライターのバーのもつれを防ぐために工夫された仕様の名残であるからです。使用頻度の高い文字を分散させることで、バーの耐久性を持続させることができます。しかし、現代のコンピュータにバーはありません。一旦、普及した技術は当初の目的が喪失しても、それとは無関係に存続するのです。この技術Aが固定される現象をロック・インと言います。ちなみに、2018年早稲田大学法学部第3問では、ロックインと身体技法の関わりについて論じた直木清隆の文章が出題されています。

松本三和夫は、ロック・イン状態が導かれるメカニズムとして「学習効果」を挙げています。学習効果とは「ある型の技術を使い続けることによりユーザーにその技術に特有の熟練が形成され、他の型の技術に切り替えることが困難になる効果」のことです(61頁)。技術Aが社会に浸透することで、技術Aの知識を再生産し、運用する特定の利益共同体が生まれます。技術Aを扱う利益共同体は、より合理的な技術Bの誕生を歓迎しません。なぜなら、技術Aが技術Bに駆逐されてしまっては自分たちの食い扶持がなくなるからです。こうして社会のある一部の共同体が、非効率的な技術Aにしがみつくという非合理な行動に走ってしまうのです。とすれば、ロック・インとは単に技術論の問題としてだけでなく、人間組織にまで敷衍して考えなければなりません。

この問題を考える上で、韓国映画『工作』(2018、公開年は韓国を基準)を取り上げたいと思います。これは、ファン・ジョンミンとイ・ソンミンの韓国のトップの名優が主演するスパイ映画です。

この映画では、国家安全企画部(以下、安企部)が躍動します(現在は、大韓民国国家情報に改称)。安企部は、工作や陰謀を主に扱う組織です。たとえば、1973年の金大中拉致事件は、この安企部の犯行であったことが今では明らかになっています。日本に亡命していた金大中を拉致し、海上で暗殺しようとした事件でした(『KT』 2002)。また安企部の前身である中央情報部の時代には、金載圭部長が朴正煕大統領を暗殺しています(『南山の部長たち』 2020)。安企部に改名されたのは、全斗煥政権のときですが、この時に黒金星(パク・ソギュン)と呼ばれる韓国人工作員がいました。元々軍人だったパクですが、安企部の強引な手法によって北朝鮮の核開発の状況を探る工作員になりました。慢性的金欠状態の北朝鮮に格好の観光事業をもちこむというビジネスマンに扮装して、北朝鮮の内部に潜入しようとします。北朝鮮の対外経済委員会所長リ・ミョンウンは最初はパクを警戒していましたが、次第に信頼するようになっていきます。

パクの潜入捜査はうまくいっているように見えましたが、パクにとって思わぬトラブルが起こります。それは安企部の存在でした。韓国には国家安全企画部法第九条で政治関与の禁止という項目があるにもかかわらず、安企部は国家のための組織ではなく、与党のための組織でした。あろうことか、安企部は大統領選で与党が有利になるように、北朝鮮による軍事的挑発を大金と引き換えに依頼していたのです。反共政権が自らの安定のために北朝鮮と秘密裏に手を繋いでいたわけです。安企部は国家の安全よりも、野党の金大中が大統領選で敗北することの方が大事でした。国家の安全を担う組織が、実は北朝鮮と結託していたということを知った工作員のパクは愕然とします。そして、安企部に許可を取ることもなく、北朝鮮に乗り込み、金正日総書記に安企部の要請に応えないことを直言します。この場面は、スパイ映画特有の緊張感に伴い、安企部の正体が露呈したことで、一気にストーリーが展開する白眉の場面です。

結局、北朝鮮からの軍事的挑発はありませんでした。パクが単独で北朝鮮に渡ったと知った安企部は、パクの仕業であると判断しました。そしたら、なんと安企部はパクが実は工作員であったことを公開してしまうのです。パクが工作員であることを発表し、北朝鮮側にパクを抹殺させようとしたのです。安企部のこの奇妙な行動は、この組織が実は国家のための組織ではなく、あくまで与党のための組織であったことに起因しています。つまり、安企部は与党の利益を追求する組織としてロック・インされた状態だとみることができます。その結果、自らの工作員の存在を公開してしまうという失笑を禁じ得ないような振舞いをしてしまうのです。事の一部始終を知ったリ所長が「南側が考えていることは訳が分からないな」と言う場面があるのですが、こういうセリフが北朝鮮側が出てくるというのはなんとも皮肉でしょう。韓国映画の『工作』は、ロック・インされた組織の末路を描いたものとして鑑賞できます。ちなみに、このスパイ映画は、韓国と北朝鮮との人間味ある交流という『JSA』以来の伝統的な手法を踏襲しています。ただ、従来の北朝鮮を扱った映画と違うのは、北朝鮮の幹部の人間を同じ血の通う同胞として描き切ったというところにあります。これまでの韓国のスパイ映画でも、南に侵入した北朝鮮の工作員と南に住む韓国人との交流を描いてきました(『シュリ』、『コンフィデンシャル 共助』、『シークレット・ミッション』、『レッド・ファミリー』等)。しかし、いずれも党の命令を受けた末端兵士の心理を扱うものでした。『工作』は、従来の北朝鮮表象の伝統を受け継ぎながら、北朝鮮幹部の内面心理を人間味あるものとして描き切るという新たな基軸を用意しました。そこにこの映画の重要な意義があると思います。(終わり)

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