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「未来への執筆論」という話

まえがき

 世界は「わかりやすいもの」「聞こえのいいもの」「短くてサクッと消費できるもの」を求めている人が増えているように思います。

 そのような世界で「わかりにくくて」「聞こえもよくなくて」「長くてサクッと読めない」ような文章を書いている人間の一人として、どのような執筆方法があるのか本稿では思索しています。(後半では執筆についてゆるく考えたコラムも書いています。)

 この記事は、執筆論でもありますし、資本主義的な価値からの脱却論でもありますし、マイノリティの生存戦略について書いた記事でもあります。


第Ⅰ章:哲学的テキストと時間軸

 私の書いている記事は明らかに少数派の部類に入る記事です。ジャンルとしても学術を取り扱う記事を書いている人は少ないです(学術含め複雑なことを考えられない人が多いからなのでしょうが)。文字数にしても1万字以上の文章を書いている人はnoteにおいてもそんなに多くはないです(短文投稿サイトに慣れてしまっているからなのでしょうが)。そして、本や新聞をこれだけ引用しながら記事を書いている人もそんなに多くはない(これも短文に慣れ過ぎて本や新聞など長い文章になると読めない人が多いからなのでしょうが)。

 その点、やはり自分は少数派の部類に入るのはわかっていながら記事を書いています。(大多数の人(多数派)は「自分語り」か「(本や新聞からの引用など全くなく、客観性のない)主観的で直感だけでの意見や憶測」、詩や小説、イラストなどの「創作系」でしょう)。

 当然、少数派の記事なんか同時代の人々にはほぼ受けはしないです。そもそも、学術的な記事(特に哲学的な記事)は、今のようなわかりやすいものばかり求める人が多い時代では受けないですし、そもそも、1万字というような長い文章を読めない人もかなり多いです。だから、私は同時代の人間達には、ほとんど何も期待していません

 哲学的なテキストは難解でそもそも読むには相当の体力が必要なんですよね。哲学者の野矢茂樹も哲学的なテキストについて次のようなことを言っていました。

哲学の訓練は、大まかにいって二つありますが、一つはテキストを読むこと。哲学のテキストは、普通の文章のようにサラサラとは読めないでしょう? 端的にいうと、たった一つの語句について、その文脈でどのように使われているのか、行ったり来たり前後を眺めて、うねうねと読むわけです。他のジャンルでは、テキストからある程度必要な情報を収集すればいい、という場合が多いと思うのですが、哲学の場合は、立ち止まって、突っかかって、分析するという、極度に緻密な読み方を身につける必要があります。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 そもそも、普通の簡単な文章ですら長文になると読めない人が多いこの時代に、哲学的なテキストと言うのは、ほとんどの人が読めないのはある意味当たり前なんですよ。もはや、そんな時代に、多くの人に読んでもらえる文章を書くことなどできません。そう。私が、学術(主に哲学)という題材をやめ、短文にし、誰でもわかるような単純な内容の文章にでもしない限り、大多数の人に受けるような文章など書くことはできません。

 でも、そんな文章を書くことは私にとっては目的じゃないんです。大多数の人に受けるような単純な内容で短文の文章を書くことは目的ではない。では、少数派としての立場を守ったままどのような文章の書き方をすればいいのでしょうか。

 その方法として参考になることを思想家の内田樹は著書『日本習合論』で次のよう述べています。

 僕は自分が少数派であることについては別に困っていないし、特段の不満もありません。(中略)ですから、今書いているこの文章はもちろん同時代の読者を想定して書いているわけですけれども、たぶんほとんどの同時代人には見向きもされないと思います。でも、二十年後、三十年後には「そうだよね」と同意してくれる読者がもう少し増えているかもしれない。それをめざして書いています。そのためには二十年後、三十年後の読者が読んでも意味が分かるように書く必要がある(中略)同時代に何百万もの読者がいる書き手だったら、そんな気を遣う必要はないでしょう。「ほら、例のあれだよ、あれ」というような内輪の話をしてもどっと受けるなら、くだくだしい説明をする気になりませんから。でも、僕は同時代に「どっと受ける」ということは期待できない。だから、長い時間をかけて「ぱらぱら受ける」ことをめざすしかありません。そのためにはそれなりの書き方をしなければいけない。
(内田樹 『日本習合論』)

 少数派の人間は同時代の人間から「どっと受ける」ということはほぼできないです。だから、これから先の時代で「ぱらぱら受ける」ような文章を書くしかありません。内田はその方法として、例えば、流行語を使わないだとか、身内ネタ、わかったつもりでいること、説明の要がないことも書かないのだそうです。これは、説明の要がないと思っていることも、二十年後の読者は分からないかもしれないから書かないということです。

 少数派にはそのようなテキストの書き方が求められているように思います。特に思想や哲学を扱う人間からしてみれば、もう現在の人々にはあまり期待できないことの方が多い(「そんなことはない!」とロマンティシズムに陥り、現在の人々に過剰に期待する人も中にはいますが、あまりそのような過大評価が良い結果を招くとは私にはどうしても思えません)。

 批評家の東浩紀も、もはや現在の読者には期待しなくなったと著書『テーマパーク化する地球』で述べています。

 なぜぼくはふたたび本を書くことにしたのか。それは要は、現在の読者に関心がなくなったからである。いささか挑発的すぎるだろうか。むろん、これは読者一般に関心を失ったということではない。ぼくが関心を失ったのは、あくまでも現在の読者に対してである。(中略)つまり、ぼくは現在に関心を失い、期待しなくなったのである。なぜ期待しなくなったのか。それは、この数年(震災後)、出版界にとどまらず社会全体の変化を見るなかで、そもそも「現在」になんの意味があるのか、よくわからなくなってきたからである。ぼくたちはいま、かつてなく「現在」が評価される時代に生きている。目のまえのこの瞬間にどれだけ多くの注目を集められるか、政治家も実業家もクリエイターも、みんなそれだけを指標にして、つぎからつぎへ新奇な言葉や商品を送り出す時代に生きている。しかし、その「いま」とは具体的にどれほどの持続を意味するのだろう。「今流行しているもの」の「いま」が数か月ならば、まだ流行にも意味があるのかもしれない。しかし、それが数週間に、あるいは数日、数時間に縮まっていったときに、流行はほとんど実質がなくなってしまう。そのリズムはむしろぼくたちの生を蝕み始める。
(東浩紀 『テーマパーク化する地球』)

 もはや、現在の読者に合わせて受けるようなものを書いても批評や哲学は意味がないです。だって、そんなことをしても批評や哲学が商品みたいに一瞬で消費されて終わるだけですから。それでは哲学や批評の意味がない。まだ、娯楽的なテキストならばそういった一瞬で消費され、消えていくものでもいいのかもしれませんが、哲学や批評の場合はそうはいきません。なぜなら、哲学や批評はもっと長い時間軸で(もっと言えば広い空間軸でも)物事を見なくてはいけないからです。


第Ⅱ章:時間軸が奪われる株式会社化した社会

 なぜ、これほどまでに「「現在」が評価される時代」になってしまったのでしょうか。その理由は、結局のところ資本主義的な価値観に全ての人間が毒されてしまったからではないでしょうか。とにかく流行を次から次へと作り、大量生産大量消費させることでGDPを上げることにばかりこだわった結果、そういった状況が私たちの「生を蝕み始め」、息苦しい時代になってしまったのだと思います。

 具体的なことは以前「農業とコモンの再構築」という記事に書いたのですが、内田樹は長い時間軸で物事を考えられない人が増えた理由を社会が株式会社化したからだと説明しています。

 株式会社では、短期的に株価を上げること、短期的に売り上げを上げることが求められ、短期間で結果を出せなければ、経営者は無能という烙印を押されます。だから、何年、何十年と、長い時間軸で経営判断をすることができません。そんな株式会社化した社会では長いこと社会に求められるようなモノ、サーヴィスをつくることは難しいです。これから先の事を考えるのではなく、今すぐに何か結果を出さなければいけない、というような株式会社的な価値観(もっと言えば、市場主義、資本主義的な価値観)が、私たちを長い時間軸で物事を考えられなくさせているのだと内田は指摘しています。


第Ⅲ章:数の支配から脱却

 とにかく今すぐPV数、いいね(またはスキ等)数、RT数、ツイート数、フォロワー数などを増やすことばかりにとらわれる人達が今は多いです。数字と言うのは結果を表すには十分すぎるものですが、逆に、その数字にとらわれ過ぎて息苦しい思いをしている人も多いように感じます。

 例えば、新聞記事はPV数を気にして煽ったタイトルをつけることでリンクを開かせようとして、本来、ジャーナリズムとしての責務である国民が社会を見るための目にはなろうとしていません(勿論、新聞社をひとくくりにして批判するつもりではありませんが)。

 ハッシュタグデモでも、どれだけ多くツイート数を増やし、トレンド入りするか、どれだけバズるかを意識することにばかり気を取られ、悪質なデマまで流して注目を集めようとする人まで出てくるようになっています。そのような状況に対して、著述家の辻田真佐憲は次のように警鐘を鳴らしています。

数字は、しばしば人気や支持の指標と勘違いされている。ハッシュタグのトレンド入りが話題になるのも、その一環だろう。そのため、みな「バズること」に最適化しようとするのだが、そうすると、どうしても「岸信介が731部隊の最高責任者」みたいな、杜撰だが、インパクトのある情報が影響力をもってしまう。
(『「安倍は戦犯の孫」という低質さ…ネット右翼とネット左翼が似ている理由』)

 SNSも他人の投稿に「いいね」や「スキ」等を(「いいね」「スキ」等思っていなくても)片っ端から押しまくることで、自分のアカウントのフォロワー数、いいね数、スキ数等を増やそうとしている人も結構います。(ちなみにですが、そんなスパム行為をして表面上は人気者のように偽ったとしても、結局そんなスパムをしている人間には全く魅力も人気もありませんし、魅力がないどころか下品なだけですが)。

 まるで、そういった数字だけが(なんなら、見かけだけの数字)が人気の指標、支持されている指標だと勘違いして、その数字を増やさなければいけないという強迫観念にとらわれて、本当に生きづらい世界になっているように見えます。

 こうした、数字への強迫観念は結局のところ、資本主義的な価値観に毒されてしまっているからあるのでしょう。もはや、資本主義を批判していた人たちですら、一方では、デモの動員数、RT数、トレンド入りのツイート数など、数字にとらわれるようになった。こうした状況に東浩紀は次のように述べています。

 他方で、資本主義への抵抗を口にしているリベラルのひとたちにも、「いまこそ立ち上がれ!」とか「すぐにリツイートしろ!」といった切迫感がたえずつきまとっています。そんな姿を目にするたび、「そうやって資本主義のリズムに巻き込まれるのがいやだから、本を読んだり書いたりしていたんじゃないの?」と疑問に思ってしまいます。
(東浩紀 『テーマパーク化する地球』)

 今や右も左も関係なく、誰もが数の強迫観念にとらわれてしまって、とても生きづらくなっているように思います。今や、どれだけ数字を大きくするかというスケールにとらわれた人が多い。だからこそ、資本主義的なリズムに巻き込まれないために「反スケール」でなければいけないのだと思います。東は次のように述べています。

 いまは、資本主義だけでなく反資本主義や反体制もスケールを追い求めるようになっています。本書冒頭に記したように、2010年代はSNSとデモの時代でした。SNSはまさに反資本主義や反体制の声をスケールさせる装置として使われています。(中略)けれども多くの場合、おそろしいぐらいに何も変えない。なぜならば、いまの時代、ほんとうに反資本主義的で反体制的であるためには、まずは「反スケール」でなければならないからです。その足場がなければ、反資本主義の運動も反体制の声も、すべてページビューとリツイート数の競争に飲み込まれてしまうからです。
(東浩紀 『ゲンロン戦記』)

 これは文章を書く場合でも同じだと思います。詳しくは次の章で記しますが、結局、一瞬で大量消費されるような薄っぺらい言葉や文章では、社会は何も変わらないですし、そういった、大量に消費されるものを書くというようなスケールにとらわれることが、そもそも虚しいだけだと思います。


第Ⅳ章:その場しのぎだけの薄っぺらい言葉と言葉の成熟

 大衆社会が生んだ大量生産大量消費型の社会では、薄っぺらいものばかりが受けやすいです。(誤解のないように言っておくと、薄っぺらければ必ず受けるという話ではないです。薄っぺらくなければ必ず受けないという話でもないです)。何故なら、大半の人は、物事を深く掘り下げる能力は高くはないですし、誰でもわかって(つまり単純化されていて)、誰からも反感を買わないようなものの方が受けるからです。

 大衆文化の事は全般的に批判したいですが、今回はあくまでも「執筆論」ですので、言葉や文章についてだけ絞って書こうと思います。どれだけ多く受ける文章を書くかということにこだわるのならば、わかりやすくて、手短で、そして、誰からも嫌われない言葉のほうがいいです。 

 けれど、所詮そのような言葉は薄っぺらいです。だって、誰でもわかるようなことしか言わないということは表面的で内面のない言葉の方がいいわけですし(大半の人は物事を深く掘り下げられないから)、手短ということは深くまで物事を説明することはできませんし、誰からも嫌われないような言葉というのは結局、核心をつかんでいない言葉になりますからね。

 例えば、AかBかどちらが良いかという議論をしているときに、ある人が、どちらにも嫌われないようなことを言うのであれば、「Aも良いし、Bも良いよね!」というような核心を掴んでいない言葉を言えば、A派からもB派からも嫌われないでしょうけれど、結局、何も言っていないも同じですからね。

 結局、誰からも嫌われず、みんなに好かれようとするような言葉や文章、分かりやすくて、手短に伝わるものというのは、大多数には受けはするのでしょうが、内容としては薄っぺらいんですよね。

 では、何故そのような薄っぺらいものばかりが溢れてしまったのかというと、それも結局資本主義の影響でしょう。

 東が「目のまえのこの瞬間にどれだけ多くの注目を集められるか、政治家も実業家もクリエイターも、みんなそれだけを指標にして、つぎからつぎへ新奇な言葉や商品を送り出す時代に生きている。」と言及していましたが、これは日本だけに限った話ではないです。

 例えば、海外でも政治家や専門家も「目の前のこの瞬間さえ注目を集められればそれでいい」と後のことを気にせずに適当な発言をする人は多いです。哲学者のハリー・G・フランクファートは、そういった言説を「ウンコな議論」と呼んでいます。

 ウンコな議論は必ずしも嘘である必要はありません。フランクファートは、ウンコな議論は「おためごかし」とほとんど同じだと指摘しています。ウンコな議論は、端的に言えば「誤解を招くような歪曲表現ではあるが、嘘には至らないもの」です。フランクファートはウンコな議論(ウンコ議論)について次のように述べています。

 ウンコ議論が本質的に歪曲するのは、それが言及する事物の常態でもなければ、その事物の常態をめぐる話者の信念でもない。一方の嘘は、偽りであることによりこれらを歪曲するものである。ウンコ議論は必ずしも嘘ではないため、その歪曲の点で嘘とは異なる。ウンコ議論者はわれわれを騙さないかもしれず、また事実やそれに関する自分の見解について、騙そうと思ってさえいないかもしれない。かの人物が必然的にごまかそうとするのは、そこで語るという己の行為そのものについてである。
(フランクファート 『ウンコな議論』)

 つまるところ、ウンコな議論がこれだけ溢れている理由は、「嘘でも真実でも、とりあえず、その場しのぎさえできればそれでいい」と考える人が増えたからではないでしょうか。

 これは文章にしてもそうです。とにかく中身はないけれど、その瞬間さえ受ければそれでいい、とりあえずその場さえ良ければそれでいい、というような文章を書いている人は多いです。たしかに、そのような(ウンコな文章とでも呼びたい)文章は、受けはするのかもしれませんが、結局、中身もなく未熟なままです。そこに言葉(書き言葉、話し言葉)の成熟はありません。

 言葉が未熟なんですよね、今の時代は。野矢茂樹も言っていましたが、言葉が未熟な人は多いです。結局、お友達同士での会話から抜け出せず、自分たちにとって、わからないもの、見たくないものは見ようとしない、聞こうとしない。自分たちにとって、聞こえのいいもの、わかりやすくて単純なものしか見聞しようとしない。今の時代はそんな人が多いんですよ。そのような状況に対して、野矢は次のように述べています。

 未熟なんでしょうね。仲間内や「おともだち」の中だけで閉じるのは。(中略)人間が成熟してくるということの大きな側面は言葉が成熟するということです。言葉が未熟だったら、人間も未熟なままです。日本の人たちが、私も含めてもっと成熟していくには、言葉が成熟していかなければいけない。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 いかに、このような未熟な言葉を好んで使う人々から抜け出し、言葉を成熟させるかということが問われているのだと思います。


第Ⅴ章:エクリチュールを再考する

 本来、エクリチュール(文字)は何かを記録するために使われているものでした。かつて、人の声と言うのは残しておくことはできませんでした(今は録音メディアがあるので可能ですが)。そのような時代では、話し言葉と言うのは、どうしても届く範囲に限界があります。ですが、文字ならば異国へもあるいは未来へも言葉を届けることができます(つまり、文字は時間軸、空間軸がある)。私たちが、過去の偉人たちの言葉を知ることが出来るのもエクリチュールがあったからです。海外の著述家の言葉を知れるのも、エクリチュールのおかげです。

 エクリチュールは長い時間軸で言葉を伝えることが出来るものでした。しかし、それが今ではその場だけ流行ればいいというような短期的なものとして扱われるようになってしまった。

 資本主義は私たちにとってエクリチュールのあり方を大きく変えてしまったように思えます。また、資本主義が変えたエクリチュールのあり方はそれだけではありません。哲学者のミシェル・ド・セルトーは、著書『日常的実践のポイエティーク』で、エクリチュールの変化を次のように説明しています。

 現代では(中略)書くというシステムは自―動的に進んでいっている。それは、自―動的なものの、テクノクラシー的なものになってしまっている。かつては主体がこのシステムを制御していたのに、いまや主体は書く機械の遂行者になりさがってしまい、機械の方が主体に命令をくだし、主体をこき使っているのだ。(中略)こうしてみれば、三世紀にわたって、書くことの習得が、征服的な資本主義社会に適合するためのなにより大事な通過儀礼になっているのは不思議ではない。
(セルトー 『日常的実践のポイエティーク』)

 ここで言われているのは、エクリチュールの主体性、もっとわかりやすく言えば、書くことの主体性が資本主義によって失われるようになったということです。

 簡単な例を出せば、売れるもの、人気の出るものを書くことが資本主義では大事ですが、そうなれば自分が書きたいというものは書けなくなります。ただ、周りを見て、周りに合わせて書く(書かされると言ったほうが正確かもしれませんが)というようになっていくのです。そうなれば、主体性がエクリチュールから失われていきます。

 当事者(承認欲求の強い人たちやビジネス思考の強い人等)たちは無意識的に、そのような主体性のない文章を書いているのかもしれませんが、結局、彼らも資本主義に支配されて文章を書いているだけなのです。

 今一度、私たちは書くことの主体性、そして、書くことの時間軸、空間軸を取り戻さなければいけないのではないでしょうか。


あとがき:万人受けしない物を書くこと

 私の書いている記事は明らかに少数派の部類に入るものです。そもそも、人文学(主に哲学)は大勢の人に受けるような題材ではない。

 哲学的なテキストは難解で読みにくいうえ、1万字以上の長文となると、やはり人々は読まないです。そんなことは私自身わかってやっているんです。大勢の人に受ける文章を書くなら、絶対そんな文章の書き方はよくない。もっとわかりやすい題材で、わかりやすい短めのテキストにしなければ万人受けはしない。

 しかし、私はそんな文章を書きたくてnoteをやっているわけではないんです。みんなに気に入られて、みんなから好かれるような文章を書くことを目的にしていない。仮にそれを目的にしているのならば、もっとわかりやすくて、深い知識を持っていなくても、サクッと読めるような短い文章を書けばいい。けれど、それじゃあ駄目なんです。そんなことをしても意味がない。

 薄っぺらい言葉で(しかも短文で)あればあるほど大勢の人に受けはしますし、売れるのでしょう。でも、そんな薄っぺらい言葉を発信すること、スケールを大きくすること、資本主義のリズムに乗ることにこだわってきた結果、いま起きているのは言葉が未熟化したということだと思います。

 私は、そんな未熟な言葉は好きではないし、薄っぺらい言葉や薄っぺらいカリスマに憧れているような人間にもなりたくはない。だから、私は、反スケールで、反資本主義的で、広い空間軸で伝えられて、長い時間軸で伝えられる言葉を使いたい。なぜなら、それこそが、言葉の成熟と思うからです。

 私の書くような少数派の文章は、同時代の人間には、どっと受けはしないのでしょうが、長い時間軸でぱらぱら受けるような書き方をすればいいのだと思うようになりました。

 変に現在に期待しないほうがいい。こんなことを言うと、「現在の状況は変えられる!現在の状況を変えることを諦めてはいけない!」というようなことを言う人も出てきそうですが、私は、「現在の状況」はそんなに簡単には変わらないと思っています(実際、日本は震災以降からも全然変わっていませんし)。そういう「現在の状況を変えるんだ!」というようなロマンティシズムに陥る人がいるのも理解できますが、私はそんなにロマンティストでもないので、そのような執筆の仕方はしません。ぱらぱら受けるような文章を書いて、地道に変えていくしかないのだと思います。今、必要なのは言葉を成熟させること、そのために反スケールの執筆をすることだと思います。

 何でも数値に置き換えて、思考を単純化させる人間とは距離を置くべきだと私には思えるのです。ミュージシャンの後藤正文の執筆した記事に興味深い言葉があったので引用しておきましょう。

 物ごとを数値化すると、情報や思考が単純化されて気持ちがいい。そうした考え方にも利点はあるが、個別の性質を覆い隠す危険性がある。例えば、それぞれの人生は比較しようもないほど複雑だが、それらに経済的な価値をつけて比較し、低いものから順に無用とする社会は恐ろしい。
 それぞれの複雑さの側に立って考えること。簡単ではないが、心がけたい。
(『(後藤正文の朝からロック)複雑さの側に立って』)

 複雑さに向き合えるほど成熟した人間が少ない今だからこそ、今は堪えて未来に託すしかないのだと思います。


コラム①:根拠を示せない創作系の自惚れ

 以前、自分の詩は(芸術性が高いため)万人受けしないと自惚れている人がいたので創作系の記事を書いている一部の人を批判しておきます。たまにですが、「自分の創作物(詩や小説、イラスト)が他人の創作物より優れているから(他人から理解されず)万人受けしない」と根拠も示さずに言う人がいるのですが、最低限、他の創作物よりも何が優れているのか、他の創作物とは何が違うのか、という客観的な根拠を提示してからそういうことは言うべきだと思います。客観的な根拠を示すことができない以上、それは創作者の自惚れです。「私の作品は優れているから万人からは理解されない、だから万人受けしない」と言うだけなら誰でも出来ます。何故理解されないのか(例えば、私の場合「長文が読めない人が多いから」とか「学術系の記事を書いていて専門用語が理解できない人が多いから」とか根拠を示しているわけですが、そういう)根拠を示せない人が「万人受けしない」と言っても説得力がないです。

 むしろ、根拠を示さず何か主張する人というのは日本人には多いタイプです。その根拠を示さずに「万人受けしない」と言っていた人ですが、日本はどちらかというと「察してくれ」という文化なので、根拠を示さずに何かを主張するタイプはどちらかというと「万人」の部類に入ると思います。自分は万人の部類に入っているのに「万人受けしない」というのは「おかしなことを言っているな」としか思えません。

 客観的な根拠、例えば、今回で言えば「本の引用数が違う、文字数が違う、ジャンルとしてもマイナー、複雑なジャンル」というような他のコンテンツ(あまりこの呼び名は好ましくないですが)とは違うというようなものを示すことです。

 最低でもそれくらい他のコンテンツとは何が違うのか客観的な根拠を提示せずに、「私の詩(創作物)は芸術的だから受けしない」と言うのは自惚れです。

 自分の創作物は高貴なもので万人受けしないと言えるだけの客観性のある根拠があるならまだしも、根拠が何もないのに「(高貴なので)万人受けしない」と言っているような人の創作物は「凡庸なもの」ばかりです

 凡庸だから受けないのを「(特に根拠はないけど)自分の感性がすごいから万人からは理解されない」「(特に根拠はないけど)自分は天才的だから万人から理解されない」と自惚れているだけです。実際、そういう自惚れている人、根拠のない自信(過信)をしている人は万人います。

 そういう人は、いい加減現実を見て、現状を変えるように行動したほうがいいのではないでしょうか(少なくとも他の創作物とは何が違うのか、他の創作者より自分の何が優れていると言えるのか、それを指し示すくらいの客観的な根拠がない限りは創作物が他の作品とは違うと思うのは自惚れです。「自分は天才的なのだ」「自分の感性は他人より優れている」と自惚れるだけで、実際は中身のない人が大半です)。

 つまり、私が言いたいことは「根拠もなく『自分の創作物は理解されないから万人受けしない』と自惚れてはいけない」「根拠がないのであれば、その『万人受けしない』根拠を示せるような創作物を作ってから『万人受けしない』と言ってくれ」ということです。そういったことをせず口先だけ「万人受けしない」というのはむしろ平凡な人にありきたりな言動だと思います。


(※以下、補足)

 根拠の重要性については以下の記事を参照していただければわかると思います。

 根拠を示さない非論理的な執筆者は明らかに理性的ではありません。私は少なくとも客観的な根拠を示しながら記事を執筆しています。


コラム②:わかる人に向けて創作する

 私は自分が書いた記事はわかる人にだけ向けて書いています。この「わかる人」というのは何も私の意見に賛同してくれる人の事ではありません。私が言っていることを理解した上で、その意見を正しいか間違っているか判断できる人に向けて書いているということです。

 私は文章が読めない人、複雑なことが考えられない人というのは「分からない人」だと思っているのでそもそもそういう人に向けては記事は書いていません。

 たまに全く記事を読まずに頓珍漢なコメントをしてくる人と言うのがいるのですが、そういう人のコメントはすべて削除しています。文章を読んでいないならコメントはしないでほしいです。

 記事の内容を理解していない(最後まで記事を読んでいない)のに記事について何か言及できると思いあがらないでほしいです。記事を読む気がないなら読まなくていいです。「読んでほしい」なんてお願いはしていませんし、読みたくないなら読まなくて結構です。

 私は私の記事を読みたいと思ってくれる人に向けて書いているだけなので読む気がないなら読まなくていい。でも、読まないならコメントもするなと言ってるんです。文章に詰まっている私の主張を理解もしていないのに、何で私の主張に何か言える立場にあると思いあがれるのか、もう少し自重してほしいです。

 どうもこの理屈が通じない人が多いんですよね。noteを始めて一番驚かされたことですが、文章を読んでいないのに、内容を理解していないのに何故か文章について何か物申せると思っているのが謎過ぎます。

 何度でも言いますが、私は自分の記事を読んで理解できる人にだけ向けて書いています。読む気がない人は私とは考えていることが違いすぎますし、そもそも執筆しているフィールドが全然違います。

 私は哲学を中心に広く社会について考え客観性のある執筆をしていますが、私の考えていることを理解していない人は社会について大して何も考えず主観的な記事を書いている人ばかりですから、フィールドが全く違うんです。

 だから、そういうフィールドが違う人はもう相手にしていません。私は主観的で視野が狭い人のつまらない独断や憶測などには興味がないですし、そんなものを読むくらいならもっとマシな本を読んで、自分の視野をさらに広げ理性的な執筆をしたいですから。


(※以下、補足)

 記事を読まずに書き込まれているコメントは削除対象だと指摘したついでに、他にも削除対象のコメントをまとめて書いておきます。

・根拠不明なコメント、粘着質なコメント(「返信しろよ」みたいなしつこいコメントなど)、誹謗中傷やヘイト、議論する気のないコメント(自分の意見を押し付けることしか考えていないようなコメントなど)、タメ口など失礼なコメント、記事の趣旨から逸れたコメント(記事の趣旨とは関係のないコメント)、明らかに記事を読まずに書かれているコメント、スパム(「○○買ってください」「私をフォローしてください」などといった売名など)は全て迷惑なのでコメントは消しています。


(※以下、補足)

 私は記事を最後まで読まずに内容を理解できるような単純なものは書いていません。流し読みで内容がわかるような単純なことは一切書いていません。そんな精読せずに直感的にわかるような単純なことは私は考えていません。

 直感的なことを書いている記事なら流し読みをしようと最後まで読まなかろうと内容を理解できるかもしれませんが、私は根拠立てて論理的な記事を書いているので、その根拠の部分を読み飛ばしたら内容が理解できなくなるような執筆をしています。

 だから、読み飛ばしたり、最後まで読んでいない人は内容は理解できないのは当然なので、コメントはお控えください。

 流し読みや最後まで読まなくても内容がわかるような直感に訴えかける、非論理的で単純な記事を読みたいなら他所の記事を読んでください。そういう精読出来ない人と言うのは私の記事を読むことが出来ない人ですし、私が言っていることを理解できない人なのですから黙っていてください。

 誰もが直感的なことを記事に書いているわけではないです。論理的な記事を書いている私の主張は直感でしか物事を理解できないような人にはわからないことです。

 中には「ほとんど精読できるような人はいないのだから直感的にわかるような記事を書いたほうが良い」というような批判もあるかもしれません。ですが、直感的にしか判断できない非論理的な人のレベルに何故私がレベルを下げなくてはいけないと言われなくてはいけないのか理解できません。

 それは精読できない人が悪いのであって、精読できない人のために直感的にわかるような記事を書いていない執筆者が悪いわけではありません。ちゃんと読まない人が悪いのであって、ちゃんと読まない人でもわかるように書いていない執筆者が悪いのではありません。

 精読できないならできるようにすればいいだけで、精読できない(していない)自分のことを棚に上げて、「私が直感的にわからないような記事を書いているお前が悪い」などと執筆者に言うのはお門違いにもほどがあります。

 直感に訴えかけるような記事を書きたい人は勝手に書けばいいですが、それを私に強要しないでもらいたいですし、そもそも「直感的にわかる記事を書いていない人間の方が悪い」などといった開き直りはやめてもらいたいです。悪いのはちゃんと読まず直感的に何でも見てしまう人の方です。

 みんながみんな、直感的な人のレベルに合わせてくれている訳ではありませんし、直感的な人と同じレベルだと見くびらないでいただきたい。根拠立てて物事を考えられず(論理的に物事を考えられず)、直感的にしか物事を考えられない人は絡んでこないでください。


コラム③:「興味がないから読まない」は本当か?

 こういう「長い文章は読まれない」とか、「複雑なことを理解できないから読まない人が多い」とか、そういうことを指摘すると必ずと言っていいほど、「興味がないから読まれないだけ」というようなテンプレな批判が出てきたりするものです。

 でも、本当にそうなのでしょうか。確かに、私も興味のないとわかった文章(例えば、漫画やラノベといったものなど)を読みたいとは思いません。確かに、「興味ない」とわかったものは読もうとは思えないのはわかります。

 しかし、その文章が自分にとって興味のないものかどうかは、自分が実際に読んでみて判断しないと、興味ないかどうかはわからないものです。

 実際に文章を読んでみて、「あ、これつまらないな」「あ、これは興味のあることではないな」となれば途中で読むのをやめるのはわかります。(実際、先ほど例に出した漫画やラノベも実際に手に取ってみて、読んでみて「こういうものはつまらない」「得るものがない」と感じたから私は読まないんです。)

 でも、それでも少しは読んでみないと興味があるかどうかなんて判断できるわけないんですよね。実際に読んで、確かめて、初めて興味がないことがわかるんです。

 そう考えると「興味がないから読まない」というのは明らかにおかしいんですよね。「読んでみたけど興味がない」ならわかりますが、「興味がないから読まない」は順番がおかしい

 「興味がないから読まない。興味のないものを書いてるほうが悪い」と言うのは、単に文章を読んでいない人の言い訳なんですよ

 そもそも、「読まれないのは興味がないから」という仮説が本当に正しいのであれば、スキスパムがこれだけnote内で横行していることがおかしいです。だって、「興味がないから記事は読まないけど、記事はスキ(つまり好印象だ)」というのはおかしいじゃないですか。

 (記事の何かが)スキではあるが、そもそも、他人の記事を開いてすらない人が一定数いるのを、「興味がないから読まれない」というのでは説明ができません。

 説明をするなら、単に文章は読めない(読まない)が、スキを押すことで自分をフォロー&自分の記事へのスキをしてもらおうとしていると見る方が自然です。

 どう考えても、文章を読めない人は多い。そんなことはいくつかの研究でも示されていることですよ。例えば、ニュースをどれだけ読まずにSNSで拡散するリテラシーの低い人が多いのか調べた研究があったり、どれだけ日本人の読解力が低下しているのかを調べた研究があったり、日本人の読書量の低下を調べた調査だったり、研究や調査で文章を読めない人が増えていると考えられる研究がかなり出てきていて、脳科学者や言語学者の中でも「文章を読めない人が多い」といった指摘が出てきていたりする中で、「文章を読めないのが原因ではない」と考えるのは難しいですよ。

 そもそも、文章が読める人なら「興味がない」ということがわかるのは、実際に読んで確認してからだとわかってるものだと思うんですよね。

  実際、私もあったことですが、ネットで見かけた本で「この本はつまらなさそうだな、興味がないな」と思っていた本を、書店でたまたま見かけて、暇だったので手に取って読んでみたら「めちゃくちゃ面白い。続きが気になる。興味がある」となったこととか普通にあります。

 文章を読まない/読めない人は、そういう経験がないからすぐに読まずに「興味がない」とか決めつけてしまうだけだと思うんですよね。問題は、当人が読んでいないから「(本来は)興味がある内容」なのに、それに気づけていないだけってことがあるということなんです。

 本当に、そういう人を見ていると「勿体ないな」と思うんですよね。読むことで、本当は興味のあったことを知る機会があったのに、そのチャンスをみすみす逃しているのですから。「興味がない」とか読まずに決めつける癖はやめたほうがいいと思います

 そもそも、(リテラシー的な意味でも)興味だけで読むこと、知ろうとすることを決めない方が良いです。

 というのも、確かに「興味がない」というものを読むのが苦痛なのはわかりますが、興味がないから得られるものがないという訳ではないからです。

 例えば、勉強とかもそうだと思いますが、勉強と言うのは基本的に興味を持たれないものです。(私は特に勉強が嫌いだったということはないですが、世間一般的には興味を持ちながら勉強していた人は少ないと思います)。

 でも、勉強に興味を持てないからといって、文章(例えば、参考書や教科書、論文、勉強の解説をしたweb記事等)を読まない方が良いとはなりません。勉強に興味が無くても、得るものがあるなら読んだ方が良いです。

 興味の有無だけで読むか読まないかを決めるのはあまり良いことではありません。もちろん、それだけで「絶対に読め」と押し付けるつもりはありませんが、読んだ方が良いとは思います。

 私は「興味がないな」と思うことでも知っておいて損のない事、得るものがある事を書いている文章なら読みます。(もちろん、興味がないので読んでいて辛くなることもありますがそれでも読みます)。

 読むか読まないかというのを判断する基準を興味の有無だけにするのはあまり良いことではないと思います。私の場合、読むか読まないかを決める判断基準は、興味ではありません。

 判断基準で言えば、例えば、読んで得るものがあるか、根拠がちゃんと示されているか(独断や憶測ではないか)ということを、まず軽く文章に目を通して判断しています。(実は、ラノベやマンガを読まないのは興味がないという問題だけではなく、得るものがないという判断をしたからです)。

 例えば本ならば、どういうことが書かれている本なのかをざっと紹介する書評だったりを読んで判断したり、手に取って目次やまえがきを軽く読んで、目次から興味がありそうな個所を読んでみたり、本の全体をパラパラ読んでみたりして、その上でこの本は読む価値があるかということを判断しています。

 web記事の場合も同じで、一度記事を開いて、目次があれば一度目次を見て(目次から興味がありそうなところを探して読んでみて)、まえがきを読んで、そのあとスクロールしながら記事を軽く読んでみて、それでその記事を読むべきか判断しています。

 読む文章を決めるときに、興味だけで決めていると考え方が偏るだけです自分の興味だけに考えが偏るというのは視野が狭くなるだけであまり良いことではないです。だからこそ、興味だけで読むものを決めるべきではないと思うのです。これはリテラシー一般的な問題だと思います。

 私が記事のジャンルを広げ続けているのも考えが偏らないように(視野が狭くならないように)するためです。(私が執筆してきた記事のジャンル(?)を言うと、哲学/経済学/政治学/社会学/昆虫学/宗教学/神学/医学/脳科学/神経学/精神分析学/心理学/建築学/科学/機械工学/情報工学/数学/人類学/戦争学/歴史学など幅広く執筆しているのもそういう理由からです)。

 興味を持つか持たないかということだけで読むこと/知ることを決めるのはあまり良いことだと私は思えません。私は、そういう偏った物の見方をする読み方と言うのはおすすめしません。



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参照

・内田樹 著 『日本習合論』 ミシマ社 2020年9月20日

・内田樹 著 『サル化する世界』文藝春秋 2020年2月28日

・野矢茂樹 著 『大人のための国語ゼミ』 山川出版社  2017年8月1日

・東浩紀 著 『テーマパーク化する地球』 ゲンロン 2019年6月5日

・東浩紀 著 『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』 中央公論新社 2020年12月10日

・ハリー・G・フランクファート 著 『ウンコな議論』 筑摩書房 2016年11月10日

・ミシェル・ド・セルトー 著 『日常的実践のポイエティーク』 筑摩書房 2021年3月10日

・『「安倍は戦犯の孫」という低質さ…ネット右翼とネット左翼が似ている理由』 (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73677?imp=0)

・『(後藤正文の朝からロック)複雑さの側に立って』(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14972990.html)

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