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映画「怪物」: 人と事象の多面性、規範を強制することの暴力性を描く

(写真の出典: Fashion Pressの記事)
大好きな坂元裕二さんと是枝監督の作品ということで、これ以上なく自分の期待値が高かったが(コラボ報道を聞いた際は、「花束〜」の絹ちゃんばりに「これ内心喜び歓喜する私」状態だった)、それを優に超えていく作品だった。


ちょうど劇場を出た時にある朝の情報番組のスタッフの方にこの映画の感想を問われたが、まさにこの映画は人の多様性と事象の多面性を描くものだったからこそ、そんなにすぐに一言で感想が紡ぐことは不可能だし、不適切な姿勢だぞと感じておりました。
この映画について走り書きしたいことは3つ (ネタバレします):

1. 人と事象の多面性
 3人の別視点で同じ事象を描く黒澤明の「羅生門」と同じ構造で作られたこの映画は、人の立場/視点によって同じ事象が大きく異なりうるということを如実に描いている。作中でも、根も葉もない噂話や週刊誌の報道の軽薄さを際立てることで、一面のみを切り取った単純な語りを明確に批判しているようである。

 また人間の多面性も丁寧に描かれている; 真摯な母親に見える安藤サクラが視点を変えれば「モンスターペアレント」に見えたり、腹立たしい無能な教師に見える保利先生が視点を変えれば温かみのある人間、弱さをもった同情すべき人間に見えたり、心のないサイコパスにも見える伏見校長は、視点を変えれば心のないサイコパスにも人間にも見える ー 我々が見ている事象と人の多面性を浮き彫りにし、安易にだれかを「怪物」と決めつけようとする私たちの傾向を思い出させるようである。

 それらの傾向は登場人物間に断絶を生み出すが、トロンボーンを通じた慟哭のひびきや作文、台風という舞台装置を通じて、部分的にでも理解しあえるかもしれない、という希望も合わせて描かれている点に救いがあった。

2. 規範を強制することの暴力性
 無意識的に規範を押し付ける暴力性が、大人が主人公二人を追い詰める様を通じて繰り返し描かれる。直接的な描写としては、父親がホモセクシュアルである息子を直接的に「ブタの脳」を「人間の脳」に変えるという理不尽な指導に加え、保利先生が語る「男性らしさ」、安藤サクラが語る「普通の家族」、バラエティがホモセクシュアリティを面白おかしく取り扱う様などが挙げられる。そして間接的な描写としては、永山瑛太が演じる保利先生が趣味とし、麦野母が星川依里に行う脱字の指摘などがあげられるだろう。

 それらの規範に合わせられないマイノリティ性を持った星川依里は親からも同級生からもいじめられ、そのマイノリティ性を隠した湊は思い詰めた結果、生まれ変わるしかないと結論づけるまでに陥る。その切羽詰まった二人は、それぞれ犯罪めいた行動を起こすに至り、ある意味「怪物」になってしまうー世間が規範を強制することが個人を絶望させ、ときには「怪物」を生み出しうるという一面も強調されているようだ。
 
 ふたりが草原を駆けていくラストシーンは果たして現世なのか、現世から解き放たれた二人の心象世界に過ぎないのかは明確に語られないが、それらの規範から自由になったふたりのクライマックスはさながら理想郷である。

3. 是枝監督・坂元裕二らしさを感じるディテール
 是枝監督・坂元裕二らしさを感じるディテールも随所に散りばめられていた。 
二人の共通するディテールとしては主要人物がクリーニング屋が大企業づとめ/エリートが悪役として描かれる傾向が挙げられるだろう。後者については、人/物事の多面性を描くというテーマと相反しており、いつも短絡さを感じてしまう点ではある(ストーリー進行上しかたないのかもしれないけれど・・・)
 坂元裕二らしさとしては保利先生の造形(「最高の離婚」の濱崎 光生、「大豆田とわ子」における中村慎森、「初恋の悪魔」における鹿浜鈴之介と同じく、偏屈で世の中に馴染めないが憎めない人物たち)、恋や「気の合う人がいること」の素晴らしさ、(今回はリアリティのためかなり控えめだった)含蓄のある言葉などが挙げられるだろう。

また再見したら更新します!

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