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短編 『テレスコーピオは夢の跡』

 十一月に入り、少し凍てつく夜が増えてきた。厚手の黒いコートを羽織って、僕は家のドアを開いた。空を仰ぐと、満天の星が視界いっぱいに広がる。今日が曇りにならなかったことに心から安堵し、家の裏にある庭へ向かった。
 僕は庭の端に佇む、小さな天体望遠鏡の前で足を止めた。これを外に持ち出すのも、今日で最後になるかもしれないと思うと、胸が痛かった。
 望遠鏡を一度地面に降ろし、支えていた三脚を折りたたんで、細い布製の袋へ詰める。袋の紐の部分を肩で担ぎ、望遠鏡を脇に抱える。銀色に塗られた筒状の部分が、星々に照らされて鈍く輝きを放つ。
 出発する前に、僕はポケットから携帯電話を取り出した。メールボックスを開き、一番新しい差出人へ一通のメールを送る。
 メールを送った相手が、来るかどうかは分からない。けれども、少しでも残っている可能性に賭けてみたかった。
 携帯電話を閉じて、庭から歩き出す。夜空を瞬く星たちは、僕の目的地までの短い道のりを淡く照らしていた。

 五分ほど歩いて、僕は小さな湖に辿り着いた。家を出発する時は体を刺す冷たい風が吹いていたけれど、歩いたおかげで、羽織ってきたコートが必要ないくらい温まった。
 草原の先へ広がる水辺に近づき、足を止める。小さな湖、と言ったものの、暗がりでは水面の終わりが見えないくらいには広がっている。湖を半周した先の草原へ進むと、夏には無数の蛍が観測出来るらしい。
 肩から三脚が入った袋を降ろし、中身を取り出して望遠鏡を設置する。僕が持ち運んできた天体望遠鏡は、高校生の身に相応しく値段も高くないし、たいして大きくない。けれども、この場所と手が届かない遠い空を繋ぐことが出来る。そのことがなんだか誇らしかった。
 準備を終えたところで、僕は草原に寝転がった。視界に広がる夜空を目に焼き付けてから、一度目を瞑る。一人でこの光景を眺めているのは、勿体ない気がしたからだ。
 しばらくした後、ポケットに入っている携帯電話が震えた。ゆっくりと目を開き、取り出してディスプレイを確認する。メールではなく電話が掛かってきていて、相手は予想通りだった。通話ボタンを親指で押して、携帯電話を耳に当てがう。
「こんばんは、恵本」
 僕が開口一番に挨拶すると、少しくぐもった声が電話から聴こえてくる。
『こんばんは、じゃないよ』
 僕が恵本と呼んだ彼女が発する言葉の端々に、眠気と怒気が含まれていた。寝ていたところを起こしてしまったことに対しては、多少申し訳なく思っていた。
『今、何時だか分かってる?』
 淡々とした口調に、怖気つきそうになる。彼女が本気で苛ついている時に見せる様子と同じだった。
「僕が家を出発したのが一時過ぎだったから、一時半ぐらいかな」
 高校生が出歩いていい時間じゃないことは、重々承知していた。それでも、今日この場所に来ないと意味がなかった。
『それで、午前一時に何を連絡してきたかと思ったら、星を見に行こうっていう用件だったけど』
 恵本の声からは徐々に怒気が抜けていき、呆れが見え始めた。
『行くわけないよね?それに私、朝から引っ越しの準備しないといけないんだけど』
 彼女は、明日––––––日付を回った今日の午後、この町から引っ越してしまう。高校から通える距離ではなくなるため、必然的に転校することになっている。
「だから、今日しか無かったんだよ。僕ら天文部が活動出来る最後の日は」
 僕の諭すような言い方に、電話の向こうにいる恵本は押し黙った。納得していない感情があるのか、後悔している想いがあるのか、その沈黙が何を意味するのか僕には分からなかった。

 僕と恵本は、同じ高校で二人だけの天文部だった。
 一年前の春、高校二年生の頃、天文部は僕一人だけだった。僕が入部した頃は先輩が三人いたけれども、高校三年生だったため、卒業と同時に天文部から去ってしまった。そんな部の継続と廃部の境目で揺れかけていたところに入部してきたのが、恵本だった。彼女は、星が好きになったから、という理由だけで天文部へ入ることを決めた。
 普段から何かと受け身だった彼女は、夜中の天体観測や、天文博物館への遠出など、僕が提案する我が儘な部活動に文句を言いながら付き合ってくれた。部員がたった二人と少ない中で、天文部として頻繁に活動したおかげで、学校側からは部の継続が認められた。
 しかし、二人だけの天文部として活動してから一年と少し経った頃、高校三年生の夏に、恵本は僕へ転校の件を打ち明けた。県外の場所へ引っ越すため、残るのは難しいと告げられた時は、少なからず落胆していた。僕らの力では解決出来ない、どうしようもない問題だった。
 高校三年生は、夏頃に部活動を引退するのが基本的だった。そこで僕は、天文部の顧問に掛け合って、恵本が転校する冬まで引退を先延ばしにさせてもらった。別れの時が来るまでに、恵本との想い出が欲しかったからだ。残された期間は四ヶ月程だった。短い時間の中で、それでもいいと思った上での行動だった。
 けれども、理由を告げずに恵本は夏で天文部を引退した。僕は彼女に深入りせず、一人で天文部に冬まで残り続けた。いつか、恵本が部活に顔を出してくれると信じていた。
 彼女とは元々クラスも異なり、部活動だけの関係だった。僕の願いは叶わず、天文部として二人で活動することはなく、恵本が引っ越してしまう当日の今に至る。

『⋯⋯私、天文部は四ヶ月前に引退した身だよ』
 二人の間に沈黙が流れ、しばらくしてから口を開いたのは、恵本だった。後ろめたそうな声音なのは、僕の気のせいじゃないはずだ。
「とりあえず、外に出て空見てよ。びっくりするぐらいの快晴だから」
 彼女の言い分を聞き流し、僕は身勝手な提案を重ねる。草原の上で思い切り足を伸ばして寝転がっている今、いつにも増して気分も開放的だった。
「だから、何でこんな時間に人を起こしておいて、勝手なことばかり言ってるのかな」
 恵本は文句を言いながらも、電話の奥では微かに物音がする。なんだかんだ起き上がってくれたようだった。
 僕もゆっくりと起き上がり、携帯電話を片手に望遠鏡の接眼レンズを覗き込む。円形に視界が狭まり、目についた明るめの星に細かくピントを合わせる。ぼやけていた景色が、鮮明になり始める。
「この時期だと、何が一番綺麗に見えるかな」
 通話が続いているのを確認するためにも、恵本に話題を振ってみる。物音が静まった後、電話を掛けた時よりもはっきりとした音声が返ってくる。
『十一月だと、フォーマルハウトとかアルデバランとか。というか、本当に知らないよね』
 細かく星の名前を答えてくれた恵本は、ため息をつく。
「何を知らないって?」
 僕は携帯電話を肩と耳で挟みつつ、両手で望遠鏡の微調整を続ける。寒さで手が悴んで、上手くピントが合ってくれなかった。
『天体望遠鏡持ってるのに、どの時期に何の星が見えやすいとか、何が一番明るいとか、全然知らないよね』
 恵本の言葉に何も返さず、黙々と作業を続ける。
 たしかに、僕は星が見える位置や時期を殆ど知らなかった。反対に、恵本は星が現れる時期や星座にかなり詳しかった。星が好きで天文部に入った、というだけの知識量を、彼女は持っていた。
「でも、僕が好きなのは星の位置でも見える場所でもなくて、星言葉だから」
 しばらく考えて、結局いつもの文言を彼女へ言い切る。
 僕が天文部へ入部したのは、星々に割り振られた意味を持つ『星言葉』が好きだったからだ。三百六十五日毎に星が決まっていて、それぞれに意味が込められている。どちらかというと世間では、誕生花や花言葉の方が有名かもしれない。
『その星言葉も、もっと星に詳しければ感慨が生まれてくると思うんだけどな』
 天文部で活動していた頃から口酸っぱく繰り返していた台詞を、約四ヶ月ぶりに恵本の口から聞くことができた。久しぶりに感じる当たり前のやりとりが、なんだか心地よかった。
『ほら、望遠鏡なしでも、二つともよく見えるよ』
 恵本の言葉を聞き、一度望遠鏡の微調整を中断して、接眼スコープから目を離す。視界が広がり、夜空一面が青の世界に帰ってくる。無数の細かい輝きが散りばめられた中で、一際強い光を放つ、赤い星と青白い星が目に映る。
「あれが、フォーマルハウトとアルデバランか」
 思わず呟きを漏らすと、恵本が嬉しそうな声で解説を始める。
『赤がアルデバランで、白がフォーマルハウト。フォーマルハウトはこの時期に見える唯一の一等星で、秋の一つ星って言われてるよ』
 僕はフォーマルハウトへ目を移して、その輝きを目に焼き付ける。
『これは個人的な感想だけど、私はアルデバランの方が好きなんだよね』
 今し方、嬉々として話した星ではなく、もう一方の赤い星についても恵本は話し始める。
「フォーマルハウトはちゃんと知らなかったけど、アルデバランは少しだけ知ってるよ」
 再び望遠鏡の調整に戻った僕は、何気なく恵本に話を合わせる。無意識にピントを合わせた先は、白い星ではなく赤い星だった。
『それは、星言葉の知識としてじゃないよね?』
 含みを含めた言い方には言及せず、誰もいない草原でかぶりを振りながら彼女へ答える。
「うん。僕の誕生日に使われてる星が、アルデバランだから」
 赤い星のアルデバランは、六月一日––––––僕の誕生日と同じ日に定められた星だった。自分にとっての記念となる星ぐらい、流石に調べていた。
『情熱的なロマンチスト、だよね。アルデバランの星言葉』
「⋯⋯よく、覚えてたね」
 少し苦笑混じりで、僕は言葉を紡いだ。一年前、彼女にそのことを話したかは、記憶が朧げだった。
『去年、この時期に同じ話してたと思うけどな』
 恵本の言葉を聞きつつ、ようやくピント合わせが終わる。天体望遠鏡から覗く、赤く煌めく星は、僕が手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる感覚に陥らせた。
「あのさ、恵本」
 その光に魅せられて、僕は彼女との会話を一歩先に進めようと試みた。
「何であの日、天文部を辞めたの?」
 僕が踏み出した一歩は、恵本に届いただろうか。僕の言葉に対して、彼女は沈黙した。
 あの夏の日、僕は恵本に理由を聞けなかった。一年と少しという短い期間だったけれど、かけがえのなかった日々を、僕の余計な一言で失くしてしまうのが嫌だったからだ。彼女が理由を伝えなかったのにも事情があったからだ、と自分の心に言い聞かせてきた。
「どうして、残りの時間を天文部として過ごしてくれなかったの?」
 再び僕は、恵本に自分の想いを伝える。四ヶ月前、聞きたくても聞かずに諦めていたことを、言葉にする。
 電話の向こう側からは、微かな車の音しか聞こえてこない。それでも、僕は恵本の第一声をしばらく待ち続けた。
 目が疲れてきたので、接眼レンズから距離を置いて再び草原に寝転がる。空は青白い光で満たされていて、あの頃から何も変わっていなかった。携帯電話は繋がったままだったけれど、相変わらず声は聴こえてこない。
 駄目だったかな、と諦めの気持ちに傾き始めた時、電話の奥で恵本が言葉を紡ぎ始めた。
『私は、やっぱりその質問に答えないと駄目かな』
 やっとの思いで口に出したその彼女の言葉に対して、僕は誠意を持って応えたかった。
「嫌だったら答えなくていい、なんて言わない」
 四ヶ月かけて辿り着いた結論に、僕は自信を持って言葉を返す。
「僕は、答えて欲しい。ただ信じて待つんじゃなくて、正面から君と向き合いたい」

 結局、信じて相手を待つなんていうのは、僕にとって逃げでしかなかったのかもしれない。彼女との仲違いが怖くて、上部だけではぐらかした結果が今の状況だった。
 だから僕は、互いに嫌なことも辛いことも、打ち明けて話し合ってみたかった。傷ついてしまっても、その先にある関係に賭けてみたかった。

 僕の宣言を聞いた恵本は、一度深く息を吐くと、独り言のように話し始めた。
『私さ、天文部にいるの、好きだったんだよ』
 その彼女の独白に、僕は無言で聞き入る。
『星を好きになったから何となく入ってみたけれど、もう一人の部員は無茶苦茶で、私は振り回されてばかりだったけれど』
 恵本の声が、少しだけ震えている気がした。
『それでもさ、そんな日々が楽しくていいな、って思ってたんだよ』
 それなら何故、という言葉が僕の喉元まで出かかり、ゆっくりと飲み込んだ。
 僕は上右半身だけ起き上がらせて、星々に照らされている目の前の湖を見つめる。淡い光を飲み込んで揺れる黒い水面は。僕が抱く今の心情と少しだけ似ていた。
『私が転校する日まで天文部に残っていたら、どうなっていたかな』
 恵本からの突然の問いかけに、少し考えてから言葉を選ぶ。
「⋯⋯もっと、たくさんの時間を過ごせたと思う」
『でもそれはきっと、これまでの天文部として、じゃなくなっちゃうよね』
 間髪入れずに返ってきた恵本の答えに、彼女が何を言おうとしているのか気づかされる。
『気を遣わせて、ギクシャクした雰囲気になってまで、私も残ろうって思えなかったんだよ。それはもう、私が好きだった天文部じゃないから』
 恵本の言うことにも一理あった。彼女が転校する事実を知ったまま部活を続けていたら、僕は接し方を変えていたかもしれない。いくら想い出作りに励んでいたとしても、寂しさや悲しさが上回ってしまって、今まで通りの活動で最後まで楽しく終わる、なんてことにはならなかったかもしれない。
『だから私は、気を遣わせて今まで築いてきた関係が変わって崩れるのが、嫌だったんだよ』
 一通り話し終えたのか、電話越しに恵本は大きく溜息を漏らす。僕は何も言わずに、しばらく黙っていた。
 結局、彼女も僕と似たような判断を下していたわけだった。相手を思い遣る故に、遠ざける。その結果が、僕らの間に四ヶ月の空白を生んでしまった。
 電話の奥から流れてくる微かな雑音を聴きながら、僕は彼女に伝えるべき言葉を探す。もう終わったことだ、と流すべきか。引き留めなくてごめんと謝るべきか。どれも違う気がした。
「ありがとう」
 だから僕は、迷った末に選んだ気持ちを口に出した。それが、本心だと思った。
『何かお礼を言われるようなこと、したかな?』
「恵本が考えていること、ちゃんと話してくれてありがとう。こんな時間でも、電話に出てくれてありがとう」
 一度でも彼女対して、真摯にお礼を言ったことがあっただろうか。言葉にして、伝えたことがあっただろうか。
「天文部に入ってくれて、ありがとう」
 僕は、この想いを伝えなきゃいけなかったんだ。
 彼女は、僕の言葉に何も返さなかった。風を切る音だけが、耳に伝わってくる。
 再び空を見上げる。相変わらず赤く輝いているアルデバランは、すぐに見つけられた。今なら、この光にも真っ直ぐ向き合える気がしていた。
「私の方こそ、ごめん」
 不意に、恵本の澄んだ声音が聞こえてくる。
「勝手に決めちゃって、ごめん。何も言わずに出て行っちゃって、ごめん」
 恵本の謝罪を止めようと、僕は口を開きかけた。けれども、それより先に彼女の続く言葉に遮られる。
「それから、私を天文部に入れてくれて、ありがとう」
 僕は携帯電話を耳から離し、電源ボタンを押して通話を切る。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには白いコートに身を包んだ恵本が佇んでいた。
「星、見に来てくれたんだ」
 何も答えず少しだけ首を傾げて、恵本は僕の隣に座る。星の下で、彼女の長い栗色の髪が綺麗に揺れる。
「星を見に来たわけじゃ、ないよ」
 空を仰いで、恵本が呟く。その横顔は、風に揺られた髪で遮られて、よく見えなかった。
「電話越しでうるさい誰かさんに、会いに来たんだよ」
 恵本は僕の方へ向き直って、少し照れ臭そうな笑みを浮かべる。彼女が伝えてくれた想いの嬉しさを噛み締めながら、僕も同じように少し微笑む。
 二人で空を見上げる。僕らがこの場所に揃うのを待っていたかのように、フォーマルハウトとアルデバランは、互いに輝き合っていた。

 それから朝まで、僕と恵本は他愛ない話をし続けた。四ヶ月という実際の期間以上に感じられた空白を埋めるかのように、星を見上げて語り合った。その時間は、天文部最後の活動として、何よりも充実していたのかもしれない。
 そして、その日の昼頃、恵本は引っ越して行った。見送りへ行った時に彼女が見せた哀しそうな笑顔を、僕は忘れないように脳裏へ焼き付けた。どうしようもなく寂しくて悲しかったけど、それ以上に、これまで楽しくて嬉しい時間を過ごせたから、僕は涙を流さなかった。

 あれ以来、庭から天体望遠鏡を持ち出したことはない。一人で天体観測をしないのは想い出が上書きされないように、なんていうのは、僕の我が儘だろうか。
 ふと、空を見上げる。携帯電話でお互いの声を聴いていなくても、草原の上で隣り合っていなくても。きっと僕らは、違う場所で同じ星を見つめている。

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