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レッドカーペットの歩きかた

レッドカーペットを臆せず、しっかりと歩くことができる。
それは、過去の自分の選択への自負だけではなく、批評家としての自分=客観的な視点をはねのけるだけの強い想いがきっとあるのだと思います。

レッドカーペットを歩くのって怖い

バチェロレッテを見ました。※以降、ネタバレを含みます。

バチェロレッテについての説明は省きたいので、以下公式Twitterより引用です。

『バチェラー・ジャパン』の男女逆転版!『バチェロレッテ・ジャパン』。独身女性が主役= #バチェロレッテ となり、多数の男性たちの中から未来の結婚相手を選び抜く恋愛リアリティ番組。

視聴直後は、ちょっとどうかしているくらい言いたいことがありました。口からも、ペン先からも熱のこもった言葉が滔々と流れ出てくるこの感じ。(この前は鬼滅の刃を読み終えた時でした)

(自分の)コンテンツへの賛否はともかく、それだけの熱量を生み出してくれる作品には感謝しかないです。

視聴から2週間くらいたった今、また違った捉え方ができました。

物事を考えるときに、一回時間を置いて、頭を冷やしてから見つめ直してみると別の発見がある。

村上春樹も『職業としての小説家』の中で言っていました。

できれば半月から一ヶ月くらいは作品を抽斗にしまい込んで、そんなものがあることすら忘れてしまいます。あるいは忘れてしまおうと努力します。そのあいだ旅行をしたり、まとめて翻訳の仕事をしたりします。長編小説を書く時には、仕事をする時間ももちろん大事ですが、何もしないでいる時間もそれに劣らず大事な意味を持ちます。

出典:「職業としての小説家」村上春樹

小説家としては、かなり異端なのでそっちの参考になるかはわかりませんが...

ともかく、その「抽斗にしまい込んだ」期間を終えて、僕はこう思いました。

「番組とはいえ、堂々とレッドカーペットを歩けるのはすごい」

どうしてでしょうか?なんで歩けるんでしょうか?

レッドカーペットを歩く。それは同時に、自分がレッドカーペットの上を歩くに値する人間だということを認めてしまうことにもなる。

そんな恥ずかしいこと、僕にはできません。


自己紹介の難しさ

番組のはじめに、男性陣がバチェロレッテに挨拶をします。

レッドカーペットを歩き、奥で待つ福田さんに精一杯自分を表現してみせる。自作のケーキを振舞う人、サーフボード片手に登場する人、歌で愛を伝える人など手法は様々。

とにかく個性豊か。各自が、用意した武器で福田萌子という城を攻め落とそうと集結した17人。

けれど、共通しているのは、「自分はコレだ!」という何か、もしくは持っているという「自信」を持っていること。そして、何か一つに「選択と集中」をしていること。

限られた時間。アレもコレもとカバンから取り出して見せるわけにはいかない。

自分のキャラクターを確立して、爪痕を残すにはジェネラリストではなく、スペシャリストであるべき。

つまり、全教科80点とれます!って人よりも、他はまるでダメだけど美術だけ100点ですって人の方が有利ってこと。

余談ですが、杉ちゃんと黄皓さんの最終対決はスペシャリストとジェネラリストの対決という見方もできます。もちろん杉ちゃんがスペシャリストで、黄皓さんがジェネラリストです。


採用面接の追体験

徐々に察しがつくかもしれませんが、バチェロレッテは「恋愛リアリティ番組」としてではなく、「採用面接の追体験」として見るとなかなか見応えがあります。

実際、ローズを得るか否かの相違は「うまくいった面接」と「失敗した面接」との違い、にとても似ていますし。

また、作中にはもっとも重要なテーマであった「恋愛」という大筋が存在しませんしね。

萌子さんは2ヶ月かけて、男性陣各々が用意してきた台本を崩していく。

ローズ獲得のための「見せたい自分」ではない「自然体」をグループ面接や個人面接の繰り返しであぶり出す。

僕自身は、新卒採用面接しか経験したことはないですが、とても懐かしい気持ちになりました。

特に、北原さん(料理研究家)が、今まで女性を好きになった瞬間を「全部覚えてる!」と言いつつ、具体例が出てこなかったシーン。

あるあるですね。

僕自信が実際の面接で、
「御社を志望する理由は大きく3つあります!」と言いながら、2つしか思い出せなかった時の絶望感と全く同じ。

今もまだ、瑞々しく脳裏に蘇ります。

「3つ目は何?」という御社の社長の質問付きで。


入口と出口が繋がっているか

もし自分がレッドカーペットの先で、アピールをするとしたら。

きっと読書とか、本、言葉の話をするのかな、やっぱり。自信を持って言い切れないけど。

それは、「読書」の捉え方に問題があるんだと、最近になって気づいた。

Aさん「趣味は読書です。」
Bさん「趣味は料理です。」
Cさん「趣味はギターです。」

三者三様どれも素敵な趣味だけど、この3つに明確な違いがある。

わかりますか?

趣味そのものが、アウトプットに直結するかどうかです。
手段=目的になるかどうかとも言えますね。

料理をすればするほど、料理が上手くなる。
ギターを弾けば弾くほど、演奏が上手くなる。
では、読書をすればするほど、どうなるんでしょうか?

知見が広がる。言葉が洗練される。文章が上手くなる...

けれど、これは読書をした上で、プラスアルファの行動があって生まれる効用。

読書することそれ自体はそれほど意味はない。なぜなら、読書は手段だからです。

読書という逃避

「僕の趣味は読書です」

でも、「専門領域は?」と聞かれたら、答えられない。

外出する時に、持っていく本選びに時間がかかるように。

僕は、広告業界で仕事をしていますが、広告の仕事のために本を活かそうという気にはなりません。(今の業界のための読書をするつもりはないということです)

軸がない。僕のしている読書は一見賢そうに見えて、専門領域を選ぶことを避け、ふわふわした時間をすごすこと。

あれこれ手を出して齧ってはみるけれど、最終的に帰るべき家が存在しないから。

村上春樹みたいな仕事のスタンスで営業しよう。
シェイクスピア
孫氏みたいな戦略で料理をしよう。

「◯○しよう」の部分がない。

現状、僕にとっての◯○の部分は、書くことです。まさに、今こうしてせっせとやっている言葉つなぎに昇華する。

「面白い文章を書くために、本を読む」

あまりに拙くて、まだレッドカーペットを歩けませんが。


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