プリンセス・クルセイド 第2部「ザ・ナイト・オブ・ヴァンパイア」 #1 【鍛冶屋の娘と王子様】 4
アキレアは胃が錨に引っ張られて水底に沈められるような感覚を覚えていた。その理由は、アンバーたちに振る舞ったディナーを自分も調子に乗って楽しみすぎたから――ではなく、謂わば自責の念からだ。
王子の姿では初めて顔を合わせるということをすっかり忘れ、メノウとしての心持ちでアンバーに接してしまった。結果は大失敗だ。王子としてだけでなく、人として無礼極まりない態度に見えたことだろう。ことによると、正体がバレたかもしれない。そこまで思いいたり、アキレアは深くため息をついた。
「……王子? いかがなさいましたか?」
俯くアキレアを、イキシアが上目遣いで覗き込んでくる。その美しい瞳は、当惑と心配で潤んでいるようだった。太陽のプリンセスにこのような表情をさせてはいけない。アキレアは重い思考を振り払い、なんとか口を開いた。
「……何も問題ないよ、イキシア。私はいたっていつもどおりだ」
「であれば、王子。ステップは正しく踏んでいただかないと……転びますわよ?」
「……何?」
我に返ったアキレアの耳に、バイオリンの優雅な調べが聞こえてきた。同時に足下に奇妙な不安定さを覚え、反射的にたたらを踏む。だがその足が、正対するイキシアの足に引っかかってしまった。
「しまっ……」
アキレアは前のめりに倒れかかった。目の前に床が迫る。いかに柔軟な絨毯が敷かれていようと、このまま激突すればタダでは済まない。アキレアは激痛に備えて顔を強張らせた。するとその瞬間、不意に視界が180度回ったかと思うと、背中が強い力に支えられるのを感じた。
「……これは?」
「……危ないところでしたわね、王子?」
「イキシア……?」
天井を見上げる形になったアキレアの目の前では、イキシアが不敵に微笑んでいた。どうやら彼女が流麗なステップで回り込み、腕を伸ばして窮地を救ってくれたらしい。イキシアはそのままアキレアを抱き起こし、床の上に直立させた。
「ありがとう、イキシア。さすが、ダンスは上手だな」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
イキシアはいたずらっぽくうそぶきながら、わずかに乱れたアキレアの衣装を整える。
「王子も決して悪くはありませんわよ。自信をお持ちになって」
「……ああ。そうだな」
されるがままにしながら、アキレアは静かに答えた。恥ずかしくて、イキシアと直接目を合わせることはできない。そうしているうちにバイオリンの音がやんだ。一曲目の演奏が終わったらしい。
「ああっ、もう終わりですわ。楽しい時間はなんと過ぎるのが早いのでしょう!」
「最後はしっかり決まったじゃないか」
大袈裟に残念がるイキシアを、アキレアは優しく送り出した。彼女とはこれまでに何度も踊ったことがあるが、今回は悪い意味で新鮮味が出てしまった。次こそは上手くやろう。アキレアはそう心に決めた。
「よろしくお願いいたします」
そうしているうちにタンザナが静かに歩み出てきて、アキレアの前で恭しく頭を下げた。彼女の動きはぎこちなく、どこか緊張が見て取れる。それも無理のないことだろう。このちょっとした舞踏会はイキシアの提案でたった今始まったところであり、アキレアもまったく予定していなかったものだ。当然ながら、タンザナの衣装もダンス向きのものではない。それどころか、おそらくは貸し衣装で、しかもちょうどいいサイズが用意できなかったのだろう。直立して少し胸を張るだけで、彼女の豊満な体型が殊更に強調されてしまう。
「……」
「王子、どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもありません」
あまりの美しさに思わず見とれてしまった――そうは言えなかった。アキレアは静かにタンザナの手を取ると、バイオリンの演奏が始まるのを待たずしてステップに入る。
「今日は本当にありがとうございます。素晴らしいお食事でした」
「喜んでいただけて何よりです」
アキレアはタンザナに相槌を打ちながら、先程までの食事の風景を思い出した。料理が運ばれてくるや、彼女の顔は歓喜に溢れた。瞳を輝かせたまま「いただきます」と手を合わせた次の発言は「ごちそうさまでした」だった。しかし、その二つの言葉の間隔は席に着いていた人間の誰よりも長く、当然誰よりも多くの料理をたいらげた。
「王子はいつもあのようなお食事をなさっているのですか?」
「いえ、とんでもない。普段は皆さんと同じようなものですよ」
他愛ない会話を交わしながら、アキレアはタンザナを導き、華麗なターンを決めさせた。その一連の流れは妙にスムーズで、リード役としてはやや物足りなさすら感じさせる。
「お上手ですね。ダンスのご経験があるんですか?」
「いいえ、ダンスは生まれてからは初めてです……初めて?」
タンザナは不意に首を傾げ、顔をしかめながら思案に入った。驚いたことに、その間もアキレアの手を煩わせるようなステップは踏むことはない。
「……やはり記憶にありませんね。忘れたかどうかも確信が持てません」
「……そうですか。では、とても筋が良いんですね」
アキレアはそれ以上追及しなかったが、ダンスには集中できなかった。どちらと言えば、彼女もイキシア同様に踊る甲斐のない相手で、その必要がないというのもある。だがそれ以上に、この謎めいた美女には気掛かりなことが山ほどあった。彼女は一体どこから来たのか。アレクサンドラとのプリンセス・クルセイドで何があったのか。あの屋敷とはどのような関係なのか――挙げればきりがないが、そのいずれも尋ねてしまっては自らの正体を明かす結果に繋がってしまいかねない。そして何よりも、彼はそのすべての答えとなりうるものをすでに持っていた。あの日あの屋敷で見た、タンザナの不可思議な姿――そこから導き出される仮説が、彼の脳裏を支配する。
「……王子、もう終わりですよ」
「……ん?」
タンザナの声を聞き、アキレアは我に返った。そのまま足を止めようとしたが、今度は自分の足に躓き、またバランスを崩してしまう。
「しまっ……」
アキレアは体が宙に浮くのを感じた。躓いた反動でタンザナの手を離してしまい、今度こそ激突は免れない。アキレアは目を閉じて衝撃に備えた。
「ふんっ!」
だが、その瞬間は訪れなかった。タンザナの力む声が聞こえたかと思うと、アキレアの体は空中で静止した。
「こ、これは……」
宙に浮いたまま振り向くと、タンザナが拳を開いてアキレアへと腕を伸ばしているのが見えた。彼女の手から発せられた地の魔術が彼の体を支え、床との衝突を回避させたらしい。タンザナはそのままアキレアの体を制御すると、そのまま体のほうへ引き寄せ、アキレアを優しく抱きかかえた。
「あ、ありがとう、タンザナさん」
「私はダンスは初めてのようですが、大体わかってきました。ラストは倒れかかるパートナーを抱きとめれば良いのですね」
「それは……まあ、そうかもしれません」
王子は苦笑しながら曖昧に答えた。またしてもダンスをリードする相手に助けられた。このような無様を、城の人間はどう思うだろう。アキレアはタンザナの腕の中に抱かれたまま、部屋の隅に佇むガーネットを見た。彼女は顔に手を当て、呆れたように頭を左右に振っている。
(……申し訳ない)
タンザナに床の上に立たせてもらいながら、アキレアは心の中でガーネットに詫びた。
(……今日は何もかもうまくいかないな)
アキレアは肩を落としたままタンザナを見送り、次なるダンスの相手に備え、再度乱れてしまった衣装を整えた。そうしているうちにも気分が落ち込み、俯きながら深くため息をつく。
「あの……王子? 私……ダンスのことはよく分からないんですが……」
ためらいがちな声を聞き、王子は顔を上げた。すると、ブロンドの少女がたおやかに微笑んでいるのが見えた。
「そんな顔してないで、とにかく笑ってください。笑顔が一番ですから。ね?」
「……そうですね、アンバーさん」
その屈託のない笑顔につられて、アキレアは笑みをこぼした。そして彼女のしなやかな手を引くと、自らの前に優しく引き寄せる。
「あの……初めてですので……お任せします」
「はい、お任せください」
短い挨拶の後、バイオリンの演奏が始まった。そうして始まったダンスは、今までで一番拙かった。だがアキレアにとっては一番「踊る甲斐」のあるものであり、ラストに転びかけたのも彼ではなかった。
続く