『お歳暮 などなど 年の瀬お仕事は魚介の発送』
学生時代に季節労働的やっていた?なっていた?(笑)スポーツクラブ、学生服売り場、スキー場等のバイトの話は、これまでにしてきたとおりですが、その合間的に毎年末2-3週間限定でやっていたバイト話をさせていただきましょう。これは大学1年〜4年まで、毎年12月2週目くらいから12月29日くらいまでやっていたお仕事。さらに言うと、高校生の頃から出入りしていたトーメン水産(過去の投稿参考)でのお仕事でした。
大学1年の11月ころだったかな、高校のころバイトしていたトーメン水産の工場からでは無く、本部のⅠ塚氏が話したいと言っていると親父から伝えられる。加工場で働いていた時に、一緒に例の大磯行った本部社員さん。一緒に危機を乗り越えた戦友って感じで(使い勝手の良い奴ってことね)その後も人手がほしい時に駆り出されたりしていて、かわいがってくれた方だった。代々佃島に住んでいる生粋の江戸っ子で、口調はべらんめえで荒かったけど気風のいい人で、この人に頼まれると、なんか嫌とは言えなかったな。
用件は「年末の新規事業を始めるので、人手が欲しい。友達も連れて手伝ってくれないか」との事。新規事業の内容は、高校生当時のような加工場での仕事ではなく、新巻き鮭やマグロなどのお歳暮商材や、正月におせち料理で食べるような海老や数の子、ニシン昆布巻などの水産加工品などを発送する業務でした。
今のようにネットで受付けてって時代ではなかったので、受注はもちろん紙。この当時のお歳暮などは、デパートなんかで受け付けてもらうのが普通だったかな。時期になるとカタログなんかが送られてきたりして、そこに一緒に用紙が入っていて、それをもってデパートなんかの特設受付などに持って行くっていうのが、大概な感じ。今でも年配層を客層に持つ販売系統は、まだそんな感じのところあるかな。そしてその注文用紙は一番上に必要事項書くと複写式になっていて、数枚の伝票ができる仕組みになっているというのが主流だった。
宅配便というシステムが徐々に広まりつつある時代だったが、まだまだ普及が十分でなく、今ほど細かく対応がない状況。お歳暮などは各業界が、自社便をもっていたり、当時この手の細かい動きに一番融通が利いていた赤帽なんかが活躍していた時代。あとは郵政省の小包ってとこかな。そんな背景。
まだ、新規の状態なので、すべてが手探りな状況で始まった、この事業は、もともとは、トーメン水産の社員さんが自分の家で使うものや、お歳暮で送っていたものが始まり。もちろん専門の人たちが扱っているものだから評判がよく、送られた人たちから「去年送ってもらった新巻鮭、あれウチから知人宅へ送りたいんだけど」なんて頼まれたりしていたらしい。そんな流れで社員さん各自が、内職的に個々でやっていたのとの事。一口に水産会社と言っても、各部署や専門があるので、海老・蟹に強い部署、鮭鱒魚卵、貝類などバラバラ、その中で社員同士バラバラにそれぞれがお願いしあって商品を確保して、自分で発送していた次第だった。そんなバラバラに手間暇かけて、しかも本チャンの仕事の合間などにってことになるならば、ちゃんとした社の事業として回したほうが効率も良いし、上手くやれば利益もしっかり出る仕事となると考えたらしい。
とまあ、そんな感じでの始まりなものだから、初年度は、手探り状態。特に宣伝するわけでもなかったが、時代的にもお歳暮はしっかり皆送っていたこともあり、さらに正月商材も扱いありとなって、そこそこの注文が集まった。にもかかわらず手探り発進なので、受注票的なものはお粗末だったな。
・注文者の名前 住所 電話番号
・発送先名 住所 電話番号
・商品アイテムのチェック欄と数量記入欄
がA4用紙にコピーされていて、発注者が必要事項記入。
1発送につき1枚の注文票。
お歳暮用の新巻鮭なんかは注文伝票1枚1品で1発送。
正月商材は注文票に書かれた複数品合わせて段ボールに梱包して1発送。
となるので、そのA4の紙が初日時点で、数百枚の束であった。そして、伝票的に用意されているのはそれだけなので、そのA4用紙一枚からの情報で、その先のすべての作業を行う。
作業は、都内の冷凍冷蔵倉庫の一画を借り、そこに物流パレットを並べて行われた。もちろん暖房などない倉庫の、そして12月。俺は何となく慣れていたが、連れて行った友人2名は始め厳しかったようで、次の日からの防寒対策が厳重になってたっけ。初年度一緒に連れて行った友人はOとH、遊びサークルの同期。二人は、次年は他バイトと折り合いつかず、この年だけでした。という体で、きつかったので断られたのかな?人員は社員Ⅰ塚氏とM宮さんと俺ら3人。たまに若手社員さんが入れ替わりで来てくれたりした。
作業内容は、今では倉庫業バイトの王道のピッキング。複数アイテムの同梱っていうのは、当時では珍しいスタイルだったんじゃないかな?
必要想定した各アイテムを、冷蔵庫内に入り運び出してパレットに並べて準備。ある程度段ボール準備したところで、
伝票のアイテム読み上げ
→商品ピックアップして集める
→伝票受け取り、確認しながら段ボール詰めパッキング
→伝票を段ボールに挟み
→発送業者の伝票に発送先発送元の書き込み作業
→パレットに積む
といった流れ。伝票読み上げはⅠ塚氏、発送伝票書きはM宮さんが基本やって、他業務をピッキング中心に、手が空いた者が冷蔵庫に入りアイテム補充や段ボール作り、などをやった。期間中前半はお歳暮用品が中心で半ばすぎると正月商材がメインとなるので、前半は一品発送が中心。後半が同梱発送ばかりとなった。
これも時代的な話だが、まだまだ煙草フリーだったもので、Ⅰ塚氏なんかは煙草咥えながら作業したりしてて、目を細めながら「これどっちだ?」なんて見づらい伝票とにらめっこ、なんてなってるうちに灰が伝票に落ちて慌てたりなんてことも。俺らも俺らで、傍に飲み物置きながら作業したりして、案の定、缶倒して商品にコーヒーぶちまけたりして、慌てる場面もあり「近くには置くな」ってなったりもしたっけ。今みたいに500mlペットボトルなんて無くて、蓋なんて閉められなかったからね。
移動時間と昼休み差し引くと、実質5時間程度の作業時間。1日に70件くらいから、多いと150件くらい作ってたんじゃないかな?正直よく覚えてないけど。予想よりアイテムが偏って足りなくなって、入荷まで時間つぶすこともあったりもした。2年目以降は後輩のSなど数人を連れていっていたので、そんな空き時間は先輩風吹かして遊んでいたっけ「じゃんけんで負けたやつが防寒着なしで冷蔵倉庫に入って1分我慢な」とか言って。っあ、もちろん俺もじゃんけんに加わってたし、負けたら冷蔵庫ん中に入ったよ。そこまで嫌な先輩じゃなかったハズ。で、そこから無茶ぶりが始まるんだけど、入ってそのまま出てくるのは「面白くない」ってなって、1分後ドア開けたら(隠れて)いなくなってるとか。上半身裸でボディビルみたいなポーズして構えているとか、そこからエスカレートして一糸まとわない全裸で走り抜けてきた後輩いて、みんなで死ぬほど笑い転げたのはいい思い出。だけどこれって、今じゃ『バイトテロ』ってやつになっちゃうよね。当時は社員さんや倉庫で働いている方たちも涙流して笑ってたけどね。現代のコンプライアンス的には完全アウトだけど、まぁ記録して拡散するようなアイテムも無かったので、証拠無いし、昔の話なので時効ってことで、許してください。
2年目以降だったかな。トーメン水産の親会社の(株)トーメンへ出向いて、注文の品を受け渡す日ってのがあった。六本木のオフィスに行き、本社社員に受け渡すというものだった。バブル期六本木モードの商社のOLさんが、押し寄せて来るわけだ。もちろん、子会社の人間、さらにバイト風情がこちらの思い描くような妄想のお相手をしてくれるわけはないのだが、バカな大学生男子には、なかなか刺激的だった。大上段にお高く留まった子もいるのだが、たまに、こんな馬鹿な奴らにも、ちゃんとした挨拶から入っての丁寧な対応してくださる子がいて、対応後、皆でキュンとなった話でもりあがったりね。本社のお偉いさんに、近くの鰻屋で昼飯ごちそうになったりもした。もちろん俺らは〝ついで〟だけど、そこに惜しみもない経費使い放題の時代の話。そして普段の冷蔵倉庫とは世界が違う1日の話。
基本は9時に東銀座の会社に出勤17時に帰社して解散。昼食代も会社持ち。で日当7000円くらいだったと思う。当時にしては良い内容。
俺が4年間やった後、Sら後輩たちがしばらく引く次いで、さらに後輩連れて行ってたと聞いている。そうやって続けてくれたのは、有難いものだ。そして、先輩に言われて無理やりやらされていたわけじゃなく、楽しんでくれていたんだなって、嬉しくもなる。学生服売り場もそうだったけど、バイトが代々後輩に受け継がれていくってのは、今でもある流れなのかな?
なんかいいよね、そういうのって。
そんなわけで、今回はこの辺で
次回
『今夜飲み会!!困ったときの単発日払い編』
お楽しみに~。
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