彷徨うおっさん 未熟な宗教理解と依存(前編:神仏)

 一生懸命に生きているだけなのに、もがけばもがくほど、望まぬ経験をしてしまう。こんな風に生きたい、こうすれば解決するかもと、色々試しているうちに歳ばかり取る。大概の人はそうして一生を終えるのかもしれない。けれども、その歩みの全てを否定はしない。経験はすべて肥やしだ。自分にとってだけでなく、多くの人にもそうなり得るだろう。そのためにおっさんは今日も筆を執ることにする。

 話題のタブーの一つに宗教があるが何故だろう。神仏の存在の有無、宗教的価値観に基づく思考など、意見が対立するからかもしれない。だが実際のところ今の多くの日本人にとってそれは「単にそう言われてきた」という習慣以上の意味はないのかもしれない。というのは、近年は対立することもなく、割と宗教の話を普通にするようになったと思うからだ。

 現代日本で従来から根付いている「神仏の存在」「死生観」「戒律や儀式の意味」といったものを手放しで肯定する人が随分と減った背景もあるだろう。一方でいざ身近な誰かが亡くなった時、物語を読み解く時、日常に染みついた宗教由来の習慣を考え直す時などに、改めて宗教を理屈で分析すると同時に、心で感じようともし、両側面から現代にあったものに合理化・再構築しようとする動きがみられる。最近宗教の話といえば、そんな建設的切り口が増えたのではないだろうか。

 今回は、そうした現代にあって、我々は神仏とどう向き合うかについて、特に宗教家でもないおっさんが、自身の経験なども交えつつ考察していきたいと思う。

<人にとっての神仏とはなにか>


 神仏とは何かを問うた時、一説としては多くの宗教で唱えられるように「人としての理想的な存在」であると考えられる。
 それもより多くの人、或いは全人類の理想的存在と定義していいかもしれない。

 だが数学的に考えると「全人類の理想的存在」は定義困難である。神仏=f(h)、h=humanと置くと、limf(h)のh→∞と置くと、恐らく収束せず発散するだろう。
 発散しないためには h を個々が想い思いの数に置き換える必要がある。すなわち、神仏とは個々の想いとともに変わるものと考えて良いかもしれない。

 いやいや、収束するよと信じ切れるなら、それもまた全否定はできないが、思うにそれは随分大雑把(与式が二次関数など単純)である気もするし、勝手に絶対的価値観を定義(与式に定数を多用)しているようにも思う。
 結局突き詰めると、例えば「目に見える通りの姿といった、みんなで共通認識可能な唯一の定義」は不可能であると思う。

 なにやらチンプンカンプンなことを書き連ねたが、要約すると、
 「神仏とは結局定義不能だが、それでも個々人で想い、目指すべき理想」
 なのではないだろうか。

<間違った神仏の捉え方>


 つい最近であるが、写真で絶妙な感じで光が射したり、単に素子が焼けて映った何かを指さして、「仏様がいらっしゃる」と言う人がいた。
 また護摩焚きを撮影し、炎の揺らめきが人型に見えた瞬間をとらえたものを指さして、「お大師様がいらっしゃる」と言う人がいた。
 おっさんとしては個人的に肯定したいところではあるが、それを誰かに見せ、居る居ないの話をしたがる人は、どうやら「本気で居る」と思っている節があり、しかもそれを共通認識としたいと思っている危ういところがある。
 こういうものを偶然捉えた時は、せいぜい「居るかも」「居たら良いな」程度に思うぐらいが健全であるように思う。喜んだり、共感を求めるのはどうだろうか。

①神仏は理想の存在である。簡単にそれらしい姿で映り込むだろうか?
②神仏は個々の想いで変わる。目に見えるそれは偶像で、見たいものを見ているだけと違うのかと。


 今、目の前で奇跡が映り込んだなどと都合の良い捉え方をして、己の信仰心を肯定しようとしてもあまり意味がない。むしろ居る居ないの議論ではなく、己の正しい生き方を全うすることこそ正しい信仰であるとおっさんは思う。(「信仰」については次回に)

<息の長い宗教でも時代が進むと神秘主義は薄れていく>


 日本の大乗仏教は1000年以上続くが、例えば比較的古い時代の密教系は神秘主義的で、伝来当時は仏像や絵画も盛んに作られた。一方、後の時代の、例えば浄土系は、名号を布や半紙に掲げて念仏に重きを置き、禅宗は日々の生活を修行と捉えるといった変遷が見られる。居る居ない、あるいはどんなお姿かと言う話のウェイトは時代を追うごとに反比例して下がっている。
 尚、仏教以外でも、キリスト教、イスラム教などでも諸説あるが「偶像は人の手によるものだから神ではない」と、偶像崇拝を否定または禁止している。神は存在する前提であっても、こちらは別の意味で合理的考え方であるようにも思う。

<偶像を信仰すると、都合良く捉え、自己満足し、依存で終わってしまう>

 何か形あるものに縋ると言うことは、自分の中の神仏への想いを正しくとらえる妨げになる。誰かが作った姿形を有り難がって、その姿を見た自分は信心深い、神様に守られているなどと都合良く捉えて、その後は見たいものを見ようと依存に走ってしまうのではないだろうか。
 神仏は人の手によって作られたものではない(≒定義不能な理想である)ので、各々が自分の心の中に想うもの
ではないだろうか。
 おっさんは神仏をこのように理解することで、安全に信仰を成就、あるいは誰かを導くことができると考えている。
 

次回に続く


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